十七話 物語がはじまる
「……方法は、あります」
シィがいった。
「本当かっ? 教えてくれ」
勢いよく訊ねると、シィはなぜかまつげを伏せてこちらから目をそらす。しばらく悩むようにしてから、顔をあげた。
「これです」
そういうシィの手にはなにも持っていない。
怪訝になる俺の視界で、ひらひらとシィの背中の羽が揺れていた。
「鱗粉?」
「羽、です」
「……なんだって?」
思わず聞き返す俺に、シィが冷静な口調で説明する。
「妖精の羽は、魔力そのものです。大気の魔力を取り入れて、自分たちの身体に適したものにしてくれます。だから、きっと。乱れている魔力の調整を助けてくれるはずです」
「いや、ちょっと待て。シィ。そうじゃない」
俺はシィの言葉をさえぎった。
「妖精の羽が魔力の結晶だなんてことなら、俺だって知ってる。妖精の鱗粉なんかよりはるかに貴重なものだってこともな。俺がいってるのはそういうことじゃなくて。妖精にとって、羽ってのは命そのものじゃないのか?」
妖精は背中の羽をとおして、大気中の魔力を自分の身にとりいれている。
それがなければ彼らは魔力を得ることができない。それは人間が食事をできなくなることと同じだ。
「はい。羽は、自分自身とおなじです」
「それがなくなったら死んじまうんだろ? そんなの、スラ子に使えるかもしれないからって――なにかあてがあるのか」
妖精の羽が妖精の鱗粉より貴重なのは、それが妖精を殺すことでしか手に入らないからだ。
簡単に密漁できるような相手でもないから、ほとんど市場にでること自体がありえない。妖精の羽という代物には、最高級の宝石にも負けないくらいの価値があった。
いくらそれがスラ子の症状に効くかもしれないっていっても、そんなものがすぐに手に入るわけがない。妖精の鱗粉は偶然、シィから手にいれることができたが――
まさか、とそこで思いいたって、俺は顔をこわばらせた。
「おい、シィ。その羽って、」
シィはこっくりとうなずく。
「わたしの羽を、使ってください」
「馬鹿いうな」
やっぱりだ。俺はおもいっきり言葉を吐き捨てた。
「そんなもの使えるか。……スラ子を死なさないために、他の誰かを死なせてどうする。そんなの駄目に決まってる」
叩きつける台詞に怒りがまじっていたのは、答えながら一瞬、気持ちが揺れそうになってしまった自分自身への感情だ。
シィの静かな眼差しが見ている。それが建前を抜きにしたこちらの本音を覗き込もうとしているもののように思えて、顔をそむけた。
「死なないですむ方法が、あります」
視線をもどすと、今度はシィがこちらを見ていなかった。
「……妖精は一生に一度だけ、羽を新しくすることがあります。そのとき、古い羽は生まれた泉にかえします。でも、それを使えば」
――スラ子が助かるかもしれない。
はじめて聞くような話だった。気まぐれな妖精の生態はいまだに謎の部分が多いが、羽が新しくなるなんてのは初耳だ。
「その羽が変わるときが、ちょうど今だっていうのか?」
もしそうならありがたい。ありがたいが、ちょっと出来すぎてる話だ。
シィは視線をこちらに向けないまま、小さくかぶりをふる。
「そのときは、自分で決めます。妖精が、一生のなかで大きな決め事をするとき、羽も一緒に、新しく」
俺は顔をしかめた。
なんだか今度の話には聞き覚えがある。妖精が決める。重大な。
「性決定か」
シィは黙ってうなずいた。
幼い妖精は性をもたない。彼らはある一定の時期になると、自分自身で性を選び、変態する。
ようするに、シィがいっていることは――
「わたしを女にしてください」
静かな瞳のままでシィがいった。
言葉がない。
いきなりの申し出に声をうしなって、少ししてから出てきたのはため息だった。
「なにいってんだ」
頭を振る。
「そんなの駄目だ。もっと別の――」
「別の、方法がありますか」
台詞をかぶせられ、渋面になって相手を見る。
シィは落ち着いた表情のまま、
「時間がないです。わたしが死ぬわけでも。……だから。これしか、ありません」
淡々とした口調が、なんだかとてつもなく不快だった。
「――変わるのが嫌ですか」
返事をしない俺に、シィが続けた。
「……なんだと?」
「自分が相手を変えるのが。そういう自分に変わってしまうのが、嫌ですか」
はじめて聞く雄弁さでしゃべるシィの声には、いつもにはない感情が含まれている。
シィは静かに怒っていた。
「卑怯、です」
小さな妖精が、真正面から俺を弾劾する。
「あの人は、あなたのためにいくらでも変わろうとしてて。――わたしも、変わりたい。なのにあなただけが変わらないでいようとするのは、……卑怯です」
俺は黙ってシィの言葉を聞いた。
はじめて聞くシィの本音。床に横たわるスラ子に目を落としながら、シィからいわれた自分自身のことについて、考える。
俺が変わろうとしていない?
そんなはずがない。スラ子が生まれたとき、俺は決めたのだから。
これから変わるんだと。変えるんだと。
だから、俺は変わろうとしていたはずで。――実際はどうだっただろう。
スラ子と暮らすようになって生活は一変した。シィも一緒に、それまで暗くてじめじめしていた洞窟でひきこもっていた俺は、本当にそれからの生活が楽しくて。
――周りはそうやって変わったけれど、肝心の俺は変われていたのだろうか。
自分が変わったことなんて自分でわかるものか、なんてことを考えるのは、それこそシィのいうとおりただの卑怯だろう。
ようは俺がどう決意して、どう行動したか。
行動。
自分の責任で行動する。その結果を受け止める。そうやって、はじめて変わったということになるのなら――
顔をあげる。
まっすぐな眼差しがこっちを見上げている。
シィの瞳はいつものように落ち着いて、怒りも恥ずかしさもない。ただ眼差しの奥底に挑むような光がうかんでいた。そのさらに奥には、隠しきれない不安も。
その背中にある羽を今からむしりとって、相手のこれからを決定づける。そんなことをして、俺に責任がとれるのか。俺はシィにいったいなにがしてやれるのか。
苦笑した。そんなことはとっくの前に覚悟を決めていないといけないことだった。
今、地面に伏したスラ子をつくるときに。自分の勝手でスラ子をうみだして、これからの一生をちゃんと世話してやると。
俺はそんなことも考えず、ただ自分が寂しいからってスラ子をつくったのか?
そんなはずがない。
もし。仮にそうだったとしたって、それで自分の責任がなくなるわけでもなかった。
だったら。
どうすればいいかは、決まってる。
「本当に、いいんだな」
確かめるつもりで最後に訊いた。
「そうやって……聞くのも、卑怯です」
答える声は震えていた。
それでもう、あとの一切を頭から振り払って、俺はシィの背中に手を伸ばす。
緊張のせいでわずかに濡れたあどけない瞳にうつる自分が嫌で、
「目を閉じろ」
命令する。
「――はい、マスター」
小さな声には、他者に隷属する健気な響きがふくんであった。
結論だけをいえば。
スラ子が前にいっていたとおり。たしかにシィは、とてもいい声で鳴いた。
◇
「あースライムはかわいいスライムかわいいなあ、ほんと全員は助からなかったけどみんなだけでも助かってよかったー全滅とかになったらショックで寝込むところだったそれにしてもスライムは可愛い。スラ吉はちょっと縮んじゃったなあでもこれからまたどんどん成長すればいいよ、スラリーは肌ツヤがいいね、昨日は少し乾燥してるかもって心配してたから安心したぞ、それから――」
「掃除の邪魔です、マスター」
栽培槽にはりついて愛らしいスライムたちを鑑賞していたところに、冷ややかな声がかかる。
せっかくのリラックスタイムを邪魔された俺は、むっと不機嫌な顔で後ろを振り返った。
そこには二人の相手がいる。
呆れ顔をしたスラ子と、いつもどおり感情の見えない眼差しのシィ。
シィの背中には生えてきたばかりの真新しい羽が真っ白く輝いている。その顔つきはあまり変わっていないように思えたが、胸元がかすかに――
「セクハラはやめてください、マスター」
殴られた。
しかもかなりの本気だった。
うずくまり、痛みをこらえて顔をあげると、笑顔で怒っているスラ子が見おろしている。
シィの羽を身体のなかに取り込み、無事に魔力の変調から回復したスラ子は、あの日のおかしな出来事などまるでなかったような態度で、
「シィは性換期をむかえて、とってもナイーブになってるんです。殿方のブシツケな視線はご遠慮ください」
「待て、今のは別にそういうわけでなく、少なからずシィの変化に俺が与えた影響がある以上、なにかおかしなことがないかと見守ることもいわば務めであってだな」
「お金とりますよ」
「すみませんでしたもうしません」
頭を下げる。
後頭部に、はあっとスラ子のため息がふれた。
「……ほんとにもう。シィから話をきいたときは、これでマスターも少しはワイルドさを身につけてくれただろうって思ってたんですが。起きてみたら全然変わってないじゃないですか、いったいどういうことですか。がっかりですか」
俺は、心の底から残念そうなスラ子をせせら笑ってやった。
「ばーか。人がそんなに簡単に変わってるたまるか。俺は俺だ」
「スライムが好きで、ぼっちなトラウマを抱える小心者?」
得意げな俺に半眼になったスラ子が皮肉っぽく、
「それも俺だ」
それに対して堂々と胸を張る。スラ子が苦笑した。
「たしかに、マスターはマスターですね」
「そうだ。そして、お前はお前だ」
スラ子から伸ばされた腕をつかんで立ち上がりながら、俺は真剣な口調でいった。
目をぱちくりさせたスラ子が、
「……そうですね」
恥ずかしそうに微笑む。
その顔は、俺の昔の知り合いの表情によく似ていて、そりゃ顔のつくりが同じだからそんなことは当たり前なわけで、だけどそれだけじゃなかった。
今こんなふうに笑っているのは、スラ子だ。
元の相手は関係ない。
だから俺は、そのことをスラ子に教えてやらないといけない。
俺なんかの存在に頼らなくても自分ってものをぶれないでいられるように。それが俺の、スラ子への責任だ。
視線に気づく。静かな眼差しのシィの頭をなでる。――そしてもちろん、こっちにもおなじように責任がある。
「ふふー」
日向ぼっこの猫みたいな顔のスラ子が抱きついてくる。
やわらかくてあったかい。天然湯たんぽみたいな相手の感触を楽しみながら、そんな俺たちを無言で見つめているシィを、俺は黙って引き寄せた。
戸惑うような表情で、シィがおずおずと両腕をまわしてくる。
「そういえば、マスター。あのルーキーさん、どうしましょうね」
「ん。そうだなぁ」
スラ子と死闘を演じたあの暴走少女はいま、ベッドで寝ている。
死んでもらうわけにはいかなかったが、かといって洞窟の外に放り捨てておけばいいかも微妙だった。スラ子や俺、シィについての記憶が残っていたらやっかいだ。
「……まあ、あとで考えればいいだろ」
今はちょっとなんというか、このままでいたい気分だった。
「そうですねえ」
スラ子にも異存はないらしく、のんびり声。
シィはいつもどおり黙ったままぴたりと寄り添っている。
「これからのことも、考えないとですねー。『ドキッ。もしやば』作戦の影響とか、ダンジョンのこととか。あれでしたっけ。風俗王でしたっけ。それとも世界征服です?」
「やめろ。人の恥ずかしい発言を掘り起こすな。男の子なら誰だって一度は考えるもんなんだよ、なまあたたかく聞き流せよ」
「ふふー。いいじゃないですか。世界征服。やってしまいましょうかー」
あほか、とつぶやいて、
「そんなことより、やりたいことができた」
「なんですかー?」
「ハーレムだ」
がばっ、と。
その単語を聞いたスラ子が顔を離した。こちらを食い入るように見る目が、なんだかきらきらと輝いている。
「マスター、ついに肉食系魔法使いにクラスチェンジを――!」
「なんじゃそりゃ」
俺は肩をすくめた。ぐっと拳をにぎって、
「俺はここにスライムたちのハーレムをつくる!」
宣言した。
「スライムのスライムによるスライムのためのパラダイス。命に危機にひんしたスライムちゃんズの姿をみて俺は確信した。彼らが平和に、穏やかに過ごせるような日常をつくることが俺の使命だ。そのためなら俺は、この命をかける!」
洞窟の天井にむかって高らかに吠えて、ふと視線をさげると。
「……なんだ。文句あるか?」
「チットモアリマセン」
冷め切った声でスラ子がいった。無言のまま、シィもまったくおなじ表情をしていた。
「そんなことだろうと思ってましたけどね。マスターですもんね。マスターですもん」
ふてくされたようなスラ子に、俺は笑いかける。
「だからいってるだろうが。それが俺だ」
変化。
もちろん変化はする。
スラ子も、シィも、俺だって。
だが、別にそれは今までの自分を全部捨てることでも、見失うことでもない。
もっとゆっくり、少しずつだっていいはずだ。
天才でもなんでもない、三歩進んでは二歩さがるどころかたまに四歩いってしまうような俺だから、俺はそんな凡人の変化をこの二人に見せてやることができる。
変わることも、変わらないことも。
そのくらいのことは俺にだってできるだろう。
だから俺は二人の身体を抱き寄せて、ささやいた。
「これからよろしくな」
今さら顔を見ていうのはだいぶ恥ずかしい、そんな照れ隠しの動作でもって告げた言葉に、
「はい、マスターっ」「……はい、マスター」
両側から異なる声の異なる音階が、とても心地よい調和で俺の耳に届いた。
0章 おわり