八話 ルクレティアの遥かな野望
それから数日もしないうちに、メジハに数台の馬車がやってきた。
精悍な男たちが荷をおろしにかかる、それに指示をだしているのはまだ三十にも届いていなさそうな若い男の商人。
こちらに気づいてさわやかに微笑んでくる。
「お久しぶりです、ルクレティア様。それにマギさんも。といっても、皆様がギーツをお発ちになられてからまだ十日程度のことではありますが」
ディルク・スウェッダ。
バーデンゲン商会の若い商人がやってきたことが意外で、俺はたずねた。
「あんたが出向いてくるとは思わなかった。てっきり、今ごろはアカデミーにむかってるのかと」
ギーツとアカデミーのやりとりで、ギーツ側の立場で指揮をとっているのはルクレティアだが、バーデンゲンはその指示をうけて動いている中心的な商会だ。
ルクレティアがギーツをはなれている今、その重要性はさらに増している。こんな田舎町にわざわざやってくる暇はないはずだが、
「そちらの案件については商会長が出張っておりまして。なにしろ、魔物との正規の取引を行おうなどというのは、少なくとも我が国では初めてのことです。そうした発想を受け入れる組織が魔物という存在に存在したということも驚きではありますが――ともかく、その先陣を切るということで、商会中が興奮しきっているのですよ」
その分、色々とピリピリしておりましてね。
肩をすくめる商人に、眉をもちあげたルクレティアがたずねた。
「上役に手柄をとられましたか」
遠慮のない言葉をうけた男が苦笑する。
「まあ、ありていに言ってしまえば。しかしながら、それで腐っているわけではありません。この町との商いを取り付けたのは私です。この町との商いを大事にすることは、私自身の将来にとって決して損にはならないと思っていますから」
「前向きでいらっしゃいますわ」
「商人の勘でもございます。今回、運んできた荷のことを思えば、あるいはもっとお役に立てることがあるのではないかとも考えましたので」
バーデンゲンの馬車が運んできたのは、メジハで使われる建材の類だ。
この冬が来る前に、竜騒動と妖精の薬草を売却して得た利益を投じて、ルクレティアはメジハに家畜用の越冬小屋をつくらせていた。
他にも来年以降の農牧収穫量を改善させるための作業はいろいろと試されはじめていて、今度の荷もそういったなにかに使われるのだろう、という表情で町人たちは荷卸しをみまもっている。
実際、それは間違いじゃない。
だが町におろされる積荷の量は、馬車に積載できるスペースからするとあまりに少なかった。四台もの馬車がやってきているが、一台ですむだろうというくらいだ。
もちろん、一度に詰め込んだ荷をすべてひとつの町に下ろさなきゃいけないという理由はない。
なら、残りの荷はいったいどこでおろされるのか――という話だ。
意味ありげな台詞にルクレティアは動じた様子もなく、
「商人というものは、必要とされるものを用立てることが仕事であって、それをどう使うかまで思い巡らすのは職分を超えていらっしゃるのではありませんかしら」
「お客様が次に何を求められるかまで考えられて、ようやく一人前の商人と申します。冬用の毛皮を売ったあとには春先の布地を用意しておくべきであり、辛味の強い特産物を持参する場合には、爽やかな果汁を備えておくべきでしょう」
商人らしい口回しでディルク男はきりかえした。
じっと商人をみつめたルクレティアが、あくまで世間話のような口調でたずねた。
「そうですか。――将来は独立するお考えを?」
「幸運と、私自身にその機会を逃さないだけの才がありましたら」
不敵な微笑でこたえる男に、ルクレティアはわずかに口元をほころばせた。
こちらをみる。
その眼差しの意味をさっして、うなずいた。
「……けっこうですわ。貴方のご判断は損にはならないでしょう。今の商会で人脈と、ご経験をお積みになることをお勧めします。遠からず機会は巡ってくるはずです」
「ありがとうございます」
鷹揚な女主人にかしずくように、ディルクは頭をさげた。
「よろしければお茶でもいかがですか。荷を下ろすまで、少しは時間もあるでしょう」
「喜んでお受けいたします」
自宅へと歩き出すルクレティアにとりあえず俺もつづいて。
頭をさげたままの商人と目があった。片目をつぶってくる。
もう一歩、深くまで商売相手として認められたことがよほど嬉しかったらしい。
俺は苦笑して、肩をすくめてみせた。
そのディルク・スウェッダも、ルクレティアから残りの荷の用途について教えられたときは、さすがにしばらく言葉がなかった。
竜を守護するダンジョンをつくる。
――まあ、普通に考えればそういう反応になるだろう。
それが冗談だと思える相手なら笑えばいいだけだが、優雅にティーカップをかたむけるルクレティアは澄ました顔のまま。
困惑した表情でこちらをみる商人に、どんな顔をすればいいかわからず、とりあえず笑ってみる。
相手もひきつった笑みをうかべて、
「……冗談。と、言うわけではないのでしょうね」
「私、こうした冗談はあまり好みません」
「ルクレティア様のお人柄については存じているつもりではおりますが――」
動揺をおちつけるように目の前のカップをもちあげて、一口する。
無理やりにため息をはきだした。
「……なにか砦じみた代物をお建てになるのだろう、とは予想しておりました。魔物対策、あるいは他国や自国相手の、来るべき時に備えた防衛拠点ということまでは考えましたが」
「最近の、王都や近隣国の動きを知っていれば、そう考えるのが当然でしょう」
「あくまで凡人の発想でしかないということでもあります。……これでは、どのような幸運に恵まれようと何事も成せるはずがありませんね」
「卑下される必要はありません。私も、ディルクさんの立場と知り得る情報から、このような夢想じみたことを思いつけはしませんわ。聞いたところで、馬鹿馬鹿しいと一笑して終わるでしょう」
ルクレティアは同情のつもりでいったのではないだろうが、ディルクがうけた衝撃から回復するのにはさらにしばらくの時間が必要だった。
「……なるほど」
人生に苦悶するような重い沈黙のあとに、言葉をおしだす。
「領主様方と、魔物との秘密裏の取引。それを暴いたどころか、さらにはそれを利用して他国にない人と魔との取引まで企もうとなさる。いったいどのような鬼才の主であれば、そのような発想に至ることができるものかと日々思い悩みましたが……そのような理由があったのですね」
自分自身を納得させようと何度かうなずいて、若い商人は無理につくったような笑いをうかべた。
「竜の山の麓に住まう魔物とすでに親交をお持ちでいらっしゃったとは。魔物を従えていらっしゃるなら、アカデミーとの繋がりを持ち得ることも可能というわけですか」
「ああ、それは少し違いますわ」
ルクレティアがいう。
「違う?」
「私が魔物を従えているのではありません。私が、従えられているのです」
「……は?」
「私のご主人様がこちらにいらっしゃいます」
ルクレティアがさした方角に商人の目がうごく。
そこにいるのは、どこからどうみても三下っぽい格好の貧相な魔法使い。
男の目が、俺をみて、ルクレティアをみて。
また俺をみてから、
「……どちらに?」
「ですから、こちらに」
あくまで冷ややかなルクレティアの言葉に、今度こそすべての思考を放棄したように若い商人の全身がかたまった。
なんだろう。申し訳なくていたたまれなくなってきた。
「――わかりました」
「わかっていただけましたか」
「はい。世の中には、私程度には理解できないことがいくらでもあるということが。……恐らく、私はこの先の人生でどのような事件に遭遇しても、今日ほどの驚きを得ることはないでしょう」
なにかをさとったように、商人はつぶやいた。
「どのような状況でも冷静さをたもてるということは、素晴らしいことですわ」
淡々とルクレティアはこたえた。
苦笑した商人が、
「そうですね。……動揺を落ち着かせるのにしばらく時間がかかりそうですが。しかし、そうした重大なことを打ち明けていただけたということは、私にもそれなりの信用をいただけているものと考えてよろしいのでしょうか」
「もちろん。町の権力者と魔物が通じているなど、公にできることではありません。外部の人間としては、貴方がはじめてです。ディルクさん」
俺は顔をしかめそうになるのをあわてて自制した。
……はじめて?
自分が一人めだという話をきかされて、ディルクは素直な驚きを顔にうかべてみせた。
「それは、光栄です。ええ、誠に」
「ですから、もしこのことが他に広まっていた場合、その話の元は貴方以外にありえない、ということになります」
「……話せば命はないということですね」
「情報の取り扱いの大切さについて、商人の方に説明するまでもないでしょう」
俺なんかよりよほど魔物らしい表情で、ルクレティアは冷たく微笑んだ。
ジクバールのことを伏せたのは脅迫のためか。
「おっしゃるとおりです」
渋面になったディルクが目をとじる。
自身のおかれた運命をのろうような沈黙のあと、目をひらく。
その表情は、たった短い時間ですべてを覚悟しきったような顔だった。すくなくとも表面だけだとしても。
「――かしこまりました。……この町で竜に関わる商いをしたいというのは、私からルクレティア様に申し出たこと。その願いを叶えていただけたのだと、そう解釈したいと思います」
「私も、打ち明けて理解を得られると思った相手でなければ、このようなお話はいたしませんわ」
それをきいたディルクはちいさく微笑んだ。
「その言葉だけで、非才な我が身への心の支えとなります。では、私どもがお持ちした荷は、その為のものなのですね」
「はい。これからもメジハを経由してお願いすることがあるでしょう。補強材に、いくらか用意に時間がかかりそうな品々については、先だってお願いしていたはずですが」
「結晶石ですね。まだ数が揃ってはおりませんが、ご用意できております。……数カ月も前から既にこのようなことをお考えだったということに驚きますが」
それについてはまったく同感だった。
商会に注文をしても、それを運んでくるのに日数がかかるのはもちろん、まずその在庫があるか、なければ他のところから調達するのに時間がかかる。
ありふれた資材ならそれでいいが、貴重な鉱石や魔法道具だとそうもいかない。
貴重なものは、まず市場にでてくることだって少ないのだから。
ルクレティアは、地下の掘削拡張がはじまる時点でそうした用意に時間がかかると思われるものの注文をすませておいたというのだ。
それから四か月たってまだすべてが揃っていないというのだから、今から注文なんてしていたらどうなっていたのかなんて考えるまでもない。
「今現在、メジハに届いている分と未納分については確認しました。残りと追加の注文分についても、可能な限り早急に手配をお願いします。せめて、最低限必要な項目類だけでも」
「……いつ事態が急なことになるかわかりませんからね」
「その通りです。運搬は、これまで同様にメジハを経由する形でお願いします」
「かしこまりました」
うなずいたディルクが、迷うような数瞬をおいてから、
「――ルクレティア様。お聞きしてもよろしいでしょうか」
真剣な口調で口をひらいた。
「なんでしょう」
「私自身の思いは、先程に述べさせていただきました通り。今までにない商いができるという一事で、どのような悪行にも身を染める覚悟でおります。ですから、これは怖気から訊ねるのではなく――いえ、申し訳ありません。やはり怖気づいているのでしょう。しかし、今さら後には引けないからこそ、この場でお聞きしておきます」
「はい」
一旦、言葉をきってから、
「つまり人間の敵をなさる、ということですね。御用聞きとして、ルクレティア様と、……ルクレティア様を従えていらっしゃる方の立場を確認したいのですが」
返答をまつ商人の表情は怖いくらい思いつめたものだった。
王都に動きがあるという話は、バーデンゲンからのものだとルクレティアはいった。
つまりディルクは、この国で王と名乗る勢力が、この地にいる竜を狙って行動をおこすかもしれないことを知ったうえできいてきているのだ。
そうして、言下に確認している――王に、反旗をひるがえすのかと。
ルクレティアがちらりとこちらをみてから、口をひらいた。
「いいえ。違います」
ディルクが眉をひそめた。
「違う……?」
「はい。我々は人間の敵“も”します。それに限定はいたしませんし、別に魔物の味方をするわけでもありません」
ディルクが目をむいた。
「つまり、人間と魔物のどちらにも敵対すると?」
「より正確には、竜を狙う全ての勢力と、ですわね。竜は人でもなく魔でもない。そして我々は竜の恐ろしさを知っています。竜は世俗にまみれるべきではありません。二度と魔王竜グゥイリエンの厄災を起こさないために――なにより、竜の麓に生きる自分自身達の平穏のために、竜を狙おうとする全てを排除するのです」
「……人間だと魔物だということは全く関係ないと?」
「竜などという埒外の範疇にある存在に対するのに、人間だ魔物だという分け方は些細なことです」
ルクレティアはにこりと微笑んだ。
豪胆すぎる発言に、ディルクは毒気をぬかれたような表情でぽかんとしてから、
「――参りました。これも、立場と知り得る情報からでは決して思いつけない発想、ということでしょうか」
「少し違いますわね」
ルクレティアが肩をすくめた。
「これについては私の発想でもなければ、哲学というわけでもありません。全て別の方のお考えですから」
「それは、いったい――」
いいかけたディルクが口をとじた。
俺をみて、ルクレティアをみて。これ以上ないってくらいに、おおきく苦笑する。
「……なるほど。少し、色々なことに得心がいきました」
「けっこうなことですわ」
ルクレティアが紅茶を一口する。
自分もそれにつづいてから、ディルクがあらためて口をひらいた。
「では、ルクレティア様――いえ、お二人に、最後にもう一つだけご意見を申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
こちらに視線をむける商人に、俺も黙ってうなずく。
「ありがとうございます。お二人のお考えは理解できました。あえて竜を利用しないことで、もっとも竜にかかわる商いができる、ということも。その上で、お聞きします。――何故、この国をお取りにならないのですか」
まっすぐにルクレティアをみながら、商人はつづけた。
「私も商人です。我が国の現状も、その周囲を取り囲む状況も理解しております。竜に縋らなければならない程に古い王家が焦っていることは、このまま座して訪れる自身の命運を察しているからこそでしょう。このままではいずれ、この国は周辺国に切り取られ、呑み込まれていく未来しかありません」
「十分にありえるでしょうね」
ルクレティアはそっけなくうなずいた。
「……我々は商人です。支配する相手が如何に変わろうと、それに合わせて商いを変えていくだけのこと。しかし、変革は常に血を流します。そこにこそ商売の道が開けることも確かですが、できれば自身の血は流さずに儲ける道はないものかと考えるのが商人の業でございます。そして、それを叶える可能性がこの国にはあるはず」
「ギルドですか」
「はい」
男はうなずいて、
「この国では特に、商人や職人の自主性が重視されています。これは私自身、恥ずかしい夢物語を語るようで誰にも語ったことがないのですが――私は将来、商人や職人、農民やすべての庶民による、王族や貴族によらない国家体制というものが生まれ得るのではないかと思うことがあるのです。この国にあるのは、その萌芽ではないかと」
それと似た話を、俺はきいたおぼえがあった。
いつだったか、他でもないルクレティアが似たようなことを語ってみせたことがあったはず。
しかし、ルクレティアは平静なまま、
「萌芽はあくまで萌芽です」
そういった。
「遠い将来、そうした可能性はあるでしょう。しかし、それが叶うとしたら、それは全ての人が一定以上の識見と、それを許されるだけの経済的余裕があってこそ。飢えた子どもに勉学をすすめるより、まずは温かい粥と衣服こそが必要なはずです」
窓の外で駆ける町の子どもに目をうつして、いった。
「政治体制などというものは、その時代と必要性に応じていくらでも変遷すればよろしいのですわ。人々の在り方と求められるものに応じて。強い支配者が必要なら、支配されてしまえばよろしい。その元でこそ芽生える思想もあります。そしていつか、ディルクさんのおっしゃったような時代が来るかもしれません」
「……それを早めることはできないのでしょうか。他ならぬ貴女様の手で、です。ルクレティア様」
ディルクはいった。
その言葉は間違いようもなく、この国を支配してしまえと目の前の相手に進言しているようなものだった。
それをうけたルクレティアは、静かな眼差しでそれをみかえしてから。
ちらりとこちらに視線をむけた。
だまったまま、まっすぐな視線をかえす。
――正直、俺もこの若い商人と同意見だった。
俺は実際に王様なんて人種や、そういった偉い連中に会ったことはない。ないけれど、そういった人々に、目の前のこの金髪の令嬢が劣っているとは思えない。
俺なんかとちがって、一国を統治する器量がルクレティアにはあると思っていた。もしかしたら、一国なんて数じゃすまないくらい。
ルクレティアがメジハを大事にしていることはしっているし、こだわっていることもわかる。
ルクレティアはもっと違う場所で自分の才能を発揮するべきなんじゃないか。
メジハよりギーツ。街より国。
間違いなく、この相手にはそれだけの才能があるのだから。
「昔、私が王都の学士院にいた頃のことです」
しばらく沈黙してから、ルクレティアは口をひらいた。
「とある国の、王侯のお方とお話しする機会がありました。若いとはいえ、実に堂々とした方で、傲岸不遜な物言いをなさる方でした。他所の国にきて、いつかこの国も他の諸国と同様、自分が征服してみせる、などと公言なさるのですから相当です」
「……それは。よほどの大器か、愚か者ですね」
「ええ。私は訊ねました。どうしてそんなにも征服をなさりたいのですかと。その御仁は答えました。理由などない。自分は、自らの持つ大陸地図を、すべて自分の国の色に染め上げたいだけだと。――実に幼稚な、馬鹿馬鹿しい理由です」
けれど、と口元をほころばせる。
「どこか清々しさのあるお方ではありました。いつか誰かに仕えるなら、このような御仁の元がよいとも思いました」
あれ、と俺は眉をひそめた。
この流れはなんだかよろしくない気がする。
「――しかし、実際に私を従えたお方は、まるで逆。大志もなければ野望もない、実に凡庸な殿方でした」
やっぱりだー。
渋面になる俺に冷ややかな笑みをむけてから、ルクレティアがつづける。
「才もなければ、器量もない。手に入れた力に暴走する可愛げもない。ただただ無難に、安寧に余生を消費していこうというような志向に、私は憤りました。よりによって、何故――と」
「……つまり、」
顔をしかめたディルクが、こちらを気にするようにしながら、
「そのどなたかがいらっしゃるから、ルクレティア様は思うがままになされないと。そういうことなのですか」
はっきり言うなあ、おい。
「違います」
ちがうのかよ。
ルクレティアは意地悪い笑みをうかべて、
「ディルクさん。もしこの国を支配したとして、それが何年続くと思いますか。あるいは他国まで征服することができたとして」
商人は眉をひそめた。
「それは……。状況次第としか。他国や、魔物たちの襲撃もあるでしょうし。名君が続くかもわかりません」
「その通りですわ」
ルクレティアはうなずいた。
「百年の帝国なら作れましょう。それが三百年続けば稀有な、千年続けば史上に類をみない偉業となりましょう。――しかし、そのようなことは実はどうでもよろしいのです」
……どうでもいい?
「国などいつか滅びます。しかし、国が滅びても残るものがあります。それこそが価値。異国の歴史、教え。文化。技術に信仰。それは戦利品という形で、あるいは交易という形で繋がり、残ります。様々な人の営みが重なり、そして新しいなにかを生み出していくのです」
俺はディルクと目をあわせた。
よかった。話についていけなくなりかけているのは自分だけじゃないらしい。
「場所を超え、時代を超えて生き方や感じ方、思考と思想を残すこと。私が知る限り、これをもっとも壮大になそうとしている殿方が、私の目の前にいらっしゃいます」
金髪の令嬢にみつめられて、俺は仰天した。
初耳だ、なんだそれ。
「人と人の戦争など、所詮は似通った価値感の話でしかありません。人間が人間の国を攻めるのは、価値が似ているからです。統治、略奪、接収、その全てに旨みがあるからです。険しく未開の地と既に開かれた豊かな土地があれば、まずは後者を選ぶのが当然のこと――ですが、私の仕えるそのお方はそうした効率を度外視して、人間や魔物を問わずなさろうとしていらっしゃいます。しかも、戦争という明快な手法さえとらず」
「それは……」
ディルクが絶句した。
「これほど愉快な話がありますか。覇気も才覚もない凡庸なる男が、ただ自分にとって大切な一人の居場所をつくりたいというたったそれだけの為に、人やエルフや魔物の区別なく、竜の麓でまったく混沌とした価値観を世に残そうとしているのです。悪行というならこれ以上の悪行はありません」
ルクレティアが笑った。
まったく傲岸不遜という他ない、世界を征服しようという――いや、支配しつづけてやろうという笑みだった。
「ならば私はそれを成しましょう。千年を超え、二千年を超え、さらに長きに渡ってこの大陸の根底に横たわる混沌とした価値観を築き上げてみせましょう。それに比べれば――この大陸中をたった一時だけ支配することなど、実にちっぽけなことではありませんか」




