十六話 精霊の呪い
洞窟のなかは、少し前までとまったく様子がことなっていた。
全てが凍りつき、一切の生き物が生きることを許されないような極寒の世界。
その中央にたたずむのは、半透明の姿で冷ややかに笑う水の精霊、をかたどった不定形のスライム。
一歩、足を踏みだすたびに。冷気が、暴風が強さを増す。
シィがアンチマジックを全力で張ってくれているというのに、この寒さだ。呼吸さえ困難になりながら、少しずつにじみよった。
俺たちに気づいたスラ子が、地面に丸まってもう身動きすらしなくなった冒険者の少女から視線をうつして、
「誰だ。お前たち」
冗談のような台詞を真顔でいわれた。
シィの言葉を思い出す。
意識が完全に精霊になっている。それは、スラ子のなかに残っていた精霊が意識をのっとっているのか、それとも――
思考にはいろうとする自分をいましめる。そんなのは後だ。
「覚えてないのか?」
スラ子にいう。がちがちと震えた口からは、震えた声しかでなかった。
「覚えてない」
精霊の顔をしたスラ子がいう。
「人間の顔など区別はつかない。どちらにせよ、死にたくないならここから失せろ。ここはわたしの領域だ。勝手に足を踏み入れられるのは不快だ」
俺のことをしらないという。ここを自分の管理地と思っている。
後々の考察に使えそうなところだけを記憶にとどめて、しかめっ面をつくってやる。
「俺だって凍死なんてしたくないさ。だが、そういうわけにもいかないんだ。そっちは覚えてなくても、こっちは覚えてるんだからな」
「なんだと?」
綺麗な眉毛をひそめる相手に、最後の一歩で近づいて。俺はその細い肩をつかんだ。
「おい、なれなれしく触るな」
「俺は覚えてるんだ」
「……なにをだ」
精霊スラ子が、わずかに戸惑いの様子を見せる。
さあ、ここからだ。
これから許されるチャンスは一度のみ。
いまこのときもあたりの吹雪はいっこうに収まらず、それを起こしている張本人の目の前で、俺はさっそく手がかじかんでいて、それどころか全身の感覚がなくなってきている。
眠さに似た疲労感が意識を侵食して、口をかみしみてそれに耐えて。考えた。
ある意味、シチュエーションはわかりやすい。
絶望的な状況。
男と女。……女? 男とスライム。
相手の肩を抱いて、それからいったいなにをするべきか。
さすがにそのくらいのことは、俺にだってわかった。
こちらの言葉を待っているかのように見上げるスラ子の瞳を見つめ、覚悟を決めて。
「しゃあこらー!」
ぼっち力の全てを込めて、俺は容赦なく張り手を飛ばした。
ぱぁん、と軽い音。
頬を張られて目を見開いたスラ子の切れ長の瞳が、すぐに憎々しげに細められる。
「貴様ッ、誰に向かって――」
「お前は、スラ子だろうが!」
相手の言葉を無視するように。叫んだ。
「なにとち狂ってんだ、さっさと正気に戻れ! 主人を凍えさせるやつがどこにいる! 凍傷になるわ! エロなしに無駄にエロく全身でエロ湯たんぽにすっぞ!」
「なにを――」
「よっく周りをみろ! お前の無差別な魔法のおかげで、俺の可愛いスライムちゃんたちがみんな凍えてるんだよ! なに自分の仲間を凍らせて悦にいってんだ、お前は! 妖精の悪戯と一緒か! 相手を選んでないだけ妖精よりなお悪い!」
「ま……」
「いきなり範囲魔法なんざぶっ放すやつがあるかああああああああ! ろくな初等攻撃魔法も使えない俺に対するあてつけか! 呪われろ! 無自覚に周辺環境に迷惑かけるのなんざ、山のてっぺんに住むお気楽天然ヤクザだけで十分だ、まっぴらだ!」
勢いにおされて沈黙する相手の頬をつかんで、びよんと左右に伸ばしてやる。
その感触はまぎれもなくスライムのそれだった。精霊なんかじゃない。
「お前はスラ子だ。そして俺はお前のマスターだ。いい加減、元に戻れ」
ウンディーネそのものだった瞳になにかがよぎる。
「ます、たー」
半透明の瞳孔が揺れた。
「――マスター」
自分が漏らした言葉を確かめるようにつぶやく、声。
「……戻ったか?」
ほっとため息をつく。
息が白くないことで、いつの間にか吹雪がやんでいることに俺は気づいた。
「マスター、私……」
夢から醒めたような表情のスラ子が、
「――ッ!」
いきなり顔を苦悶に歪めてうずくまる。
「スラ子? おい、どうしたっ」
声をかける。苦しげに身悶えるスラ子の全身が、ぶれた。
思わずあとずさる。
人型のスラ子の身体が膨張して、収縮していた。
蠕動。かと思うと大きくたわむ。
波打って、それを抑えるように硬直する。そしてまた、徐々に震えだしていく。
それはまるで。
スラ子の体内でなにかが暴れているような光景だった。
「おい、スラ子っ!」
俺の脇をぬけて、シィがスラ子に駆け寄る。
スラ子に向かって手をかざした小さな背中の羽が輝きだした。
「シィ、どういうことだ? なにが起きてる!」
「魔力が――とにかく、落ち着かせます。話は、それから……っ」
必死な声でスラ子にかかるシィの後ろ姿を見ながら、俺は呆然と立ち尽くした。
いったい、なにがおきてるんだ――
俺とシィはスラ子を抱えてすぐに隠し部屋に戻った。
魔法陣のうえにスラ子を横たえる。シィがスラ子に処置をするあいだ、俺は洞窟にもどって広間の惨状を確かめた。
まだ停滞した冷気が残っているその場にいた魔物はほとんどが全滅状態で、それは作戦に参加した多くのスライムたちも同じだった。
とりあえず見込みがあるものに優先してお湯をかけて甦生処理をこころみて、連れ帰ったあとの処置はスケルトンにまかせる。
広間と隠し部屋を往復してできることを全部やってから、俺は広間の中央に丸まっているものへと近寄っていった。
全身にうっすらと霜を降らせた冒険者は、冬眠する獣のような格好でうずくまっていた。
その全身が、よく見れば細かく震えている。――まだ息がある。
いきなり暴れだされるんじゃないかとびくびくしながらそっと触れてみると、ぞっとするほど冷たくなっていた。
あごをもちあげて顔を覗き込む。
幼さの残る顔。はっきりめの眉。表情が青ざめていて、唇は紫色になっていた。一目で危険な状態だとわかる。
……ここで死なれたら作戦が台無しだ。俺は少女の軽い身体を抱きかかえて隠れ家に戻った。
洞窟ではシィが懸命にスラ子に魔法をかけていた。
なにかの回復魔法だとわかる、淡い光がスラ子の全身を包んでいる。
凍傷になりかけている少女をあたためるようスケルトンに預けてきてから、俺は邪魔にならないよう、小さく声をかけた。
「……どうだ」
シィが首を振る。表情がひどくけわしかった。
「魔力の循環が、戻りません。……抑えるので精一杯で」
スラ子は熱にうかされたような表情で息を荒くしている。
魔力の循環。俺は目を凝らして、スラ子の身体を流れる魔力の行方を見てみる。
……たしかにおかしい。本来ならスムーズに循環するはずの魔力が、どこかで逆流でもしているような状況だった。魔方陣を描くラインも、それを示すように奇妙な点滅をくりかえしている。
「ウンディーネか。スラ子のなかに、あいつの残留思念でも残ってたのか?」
外見だけでなく、口調までが水の精霊そのものだったことを思い出しながら訊ねると、
「わかりません。でも、多分……」
違います、とシィはいった。
「きっと自分から。なろうとしたんだと思います」
「なろうとした? ウンディーネに? スラ子がか」
「……多分、ですけど」
必ずしも確信があるわけではないのだろう。シィが自信なさそうにうなずく。
ふと俺はスラ子の言葉を思い出していた。
精霊を捕食しようとしていたときにいっていた台詞――「私が、貴女になっても」
俺にむかっていった台詞――「私はあなたです」「あなたが、私なんです」
がつんと、ハンマーで頭を殴られたような衝撃。
今さらのように思いつく。
スラ子は、スライムだ。
スライム。
それは魔力をもとにして生まれる不定形性状生命体のことだ。
知性をもたず、定まった形をもたない。原始的な生存本能に従って生きている。
そしてスラ子には知性がある。
形は――それは、俺が与えたものだ。
スラ子には、自分がない。
与えられた容姿と与えられた知識。
あいつはまだ生まれて一月もたっていない。確固たる自我なんてあるはずがない。
しかし、スラ子の身体はあいつの意識、そして無意識でいかようにでも変化する。変化してしまう。
なら。
そんなあやふやな自分の在り方をスラ子はどうやって。いったい誰に、求めていたのか。
――だからか。
スラ子が、あんなにも俺に懸命になって尽くしてくれていた理由。
もちろん自分をつくった創造主だからというのもあるだろう。
だが、それだけじゃない。
忠義とか忠誠とかそういったこと以前に、あいつにとっては俺という存在が全てだったのだ。なによりもまず、自分が自分であるために。
だからウンディーネのときのように、過敏に反応する。格上の相手だろうと噛みついていく。
さっきの戦闘のように、少し怪我をしただけで暴走する。相手を倒すために、どんな姿にだってなろうとする。それで自分を見失ってしまうことになってもだ。
……なんでこんなことに俺は今まで気づかなかった。
兆候ならあった。スラ子からのメッセージだってでていた。あいつが度々とってきた不自然な行動、異常なまでの執着。
そこでよくわからんで済まさず、ちょっと深く考えれてみればわかったはずだ。
――これだから俺は。
才能とか鈍感とか。そういうことじゃない。
もっと根本的なところで、駄目すぎる。
自分を殴りたくなった。こんなふうにすぐ後悔した振りをするのも、最悪だ。そんなもんはあとから一人でやってろ。今はスラ子をどうするかだ。
いつでも自分を殴れるように拳をにぎりしめて、俺は小さな妖精の背中に訊いた。
「シィ。スラ子は、助かるか?」
振り返ったシィはその質問に答えずに。
こちらを見上げた顔は、暗い顔をしていた。