三話 夢見る蜥蜴と見守る蜥蜴。魚人はあくまで公平に
その日の夜にならないうちに、ルクレティアは洞窟へやってきた。
「早かったな。悪い、町は大丈夫なのか」
「ええ。ひとまず必要なことは済ませておきました。雑務の類はまだいくらでもありますが……とりあえず報告は紙面に残されていますから、目を通すのはどこでも出来ますわ」
相手の持参した書類の束に目をやって、俺は率直な感想をのべた。
「随分と多いな」
「きちんと読み書きのできる相手がまず限られていますから」
ルクレティアが肩をすくめる。
「そこでさらに要点をついた報告など期待してはおりません。よかれと思って省かれるより、こちらで精査する方がましでしょう。書かれていないことを周辺情報から推察するのは面倒ですし、限界もあります」
「あとで手伝うよ。区分わけくらいは俺にもできるだろ」
「助かります。いずれにせよ、すぐにお耳にいれておきたいことはこちらにもありました。……それで、まずは彼らのことからですか」
ルクレティアが目をやった先には、二人の蜥蜴人。
一人は見るからに屈強な肉体をもった、身体をおおう鱗の色つやにも鈍い年季の色がうかがえる、リザードマンの族長。
そしてもう一人が、そのなかでしばらく俺たちと行動を共にしている若いリザードマン――リザードレディの、リーザ。
二人の年齢差は、そのまま二人がこの場所にいるそれぞれの立場でもあった。
「地下から、地上への移住願いですか。将来的にはあることだと思っていましたけれど」
この洞窟の地下には、主にふたつの勢力が存在する。
ひとつは、いつからかはしらないがかなり昔からそこを縄張りとしてきた蜥蜴人族。
もうひとつは少し前に元いた場所を追われてここに流れてきた、魚人族だ。
両者は自分たちの生存をかけて争っていたが、この山のことなら地上でも地下だろうとあたしがルール、と黄金竜ストロフライが強引にその争いをやめさせて、仲良く共存することになった。
仲良く、とはいったが、今の今まで争ってきた憎い相手だ。
仇もいれば恨みもある。そんな連中とすぐに手をとりあって輪になって、なんてできたら世の中からはとっくに争いごとなんてなくなってる。
彼らはただ、そうしなければ殺されるというだけなのだから。
だから、どちらの種族にも鬱屈した思いは当然あって、特に“侵略された側”である蜥蜴人族たちにはそれが顕著だった。
不平や不満はあるが、竜であるストロフライに逆らおうなんてことは、実力的にも、精神的にも彼らにとってはありえない。
なにかの欲求が満たされない場合、その代わりとなる代償をもとめるのは人間によくある精神活動だが、それはなにも人間だけにみられるわけではなかった。
蜥蜴人たちの場合、それは自分たちの群れにおける年齢層の対立、若手と大人の主導権争いという形で表面化した。
もともと、リーザが俺たちと行動をともにするようになったのも、そうした「若手過激派」が衝動的な行動に走らないように、という長老の申し出があってのことだ。
若手のまとめ役であるリーザが御輿として扱われるのをふせぎつつ、時間をかけて沈静化をまつ。
よくある手だが、よくあるってことは効果も一般的に認められてるってことでもあるんだろう。
世の中、時間が解決してくれることってのは思っている以上におおい。
時間が解決してくれない、あるいはもっとややこしいことになるってケースも相応におおいというだけで。
その蜥蜴人族の若手集団が、地下から地上の外の世界への居住を願いでてきたのは、意外ではあったけどたしかに予想していたことではあった。
ここの地下は、ふたつの種族が生活するには食糧事情なんかの問題点があった。それを解決する手段として蜥蜴人たちの移住という手段も当然考えられたからだ。
だが、新しい居住者がでてきたからって、もともと住んでいた連中にでていけなんていうのは筋がちがう。
だからこそ、地下の生活空間をひろげようという意味で地下の掘削作業をはじめたのだから。
「ご主人様はどのようにお考えでいらっしゃいますか」
ルクレティアがたずねてきた。
その場にあつまった全員から視線があつまる。
人間族にエルフに妖精。魚人に蜥蜴人。種族的にはなんといえばいいかわからない相手からの眼差しに、俺はこくりとうなずいて、
「……基本的には、悪くないんじゃないか。ずっと地下で生活してきたリザードマンたちが、地上にでて外に住んでみたい、って思ったんなら、そうさせてやりたいとは思う」
「ご懸念は?」
「二つ、……いや三つだな。まずはリザードマンたちの内部の問題。分かれて生活するってのが、ようするに喧嘩わかれなのか、場所は違えども仲良くやっていこうって意味なのか。そこらへんを確認する必要があるだろう。あとで争いごとの火種になってもあれだからな」
年のちがう蜥蜴人を等分にみながら、続ける。
「二つ目は、周辺環境への影響が心配だ。外の森は妖精族の縄張りだし、それ以外に生息してる魔物や動物だってたくさんいる。許可っていうならまず妖精連中に折衝してみるべきだろうし、連中がオーケーだからって他との軋轢はでる。メジハの件もあるしな」
「残るもう一つはなんでしょう」
「そりゃもちろん。竜だ」
俺は肩をすくめた。
「蜥蜴人族も魚人族も俺も、そろってストロフライの手下なわけだからな。どんな理由があろうと、あの黄金竜がダメっていったらその時点でなにがあってもダメだ。否か死か、だろう」
「結構ですわ」
生徒の解答をまつような表情だったルクレティアがうなずいた。
「ご主人様がお持ちの懸念は、私のものと大筋で変わりません。つまりは当事者、第三者、そして決定権をもつ絶対者。この三つとなります」
なんとか及第点はもらえたらしい。
どうぞお続けになってください、と視線でつげてくる令嬢に肩をすくめて、
「それで、長。実際のところはどうなんだ? こっちの都合でしばらく留守にしてたからな。今、そっちがどういう雰囲気だっていうのをわかってないんだ」
スラ子の通訳をうけて、長老がしゅしゅしゅと蜥蜴語でこたえてくる。
「……若い連中が外の世界に憧れをもつことは、やむを得ないことだと思っていると。若者だけでなく、十分に年を重ねたリザードマンにも賛同者はいる。ただ、同じように今までの生活を好み、現状のまま穏やかに過ごしたいと願っている者も多く、また種族が分かれることに漠然とした不安を抱いている者もいる、とのことです」
長老自身も悩んでいる様子が、スラ子の口から語られた。
うーん、と腕をくんだスケルが、
「ここの地下と地上の森ってことですと、まったく別々の生き方になっちゃうってことですからねぇ。生活する場所が変われば、考えだって変わって当然でしょうし。色々と摩擦は起こっちゃいそうですが」
「特に、今回のきっかけに木材って資材のことがあるからな。若い連中が外にでたがってる理由のひとつはそれなんだろうし。自分たちですぐに伐採できる立場と、多少とはいえ距離を歩かなきゃいけない立場じゃ、意識の格差は当然あるだろう。権利云々はおいといてもな」
「でも、それは仕方ないっちゃ仕方ないような気もしますけどねぇ。それで外にでた方々が調子づいちゃったら、ストロフライの姉御からのよーしゃない制裁が落ちるでしょうし」
「まあな。便利な場所のために外にでるわけだから、そりゃ利便性に差がでるのは当たり前なんだが」
だが、その程度のことが将来の禍根になりえるというのも事実だ。
それがどうしようもないことだとしても、考えておくべきことではある。
「そのことで、少し面白い話があります」
ルクレティアがいった。
「皆様、蜥蜴人の方々が木材遊びをされていることはご存知ですね」
「ああ。今日もお土産にいくつかもらったぞ。ほら、ここにある」
といって、俺はリーザたちから受け取った木材の切れ端をテーブルにおいた。
シィの手のひらにはあまるくらいの大きさのそれは、切れ端というか工芸品といっていいのかもしれない。
なにかの形をかたどった木彫りの置物。モデルにされているのは、彼らが神と崇める存在、つまり竜だった。多分ストロフライのつもりなのだろう。
「はい。その作品もそうですが、彼らのつくるものがどれも全体が黒ずんでいる理由がおわかりになりますか」
「いや。地下に木材をおいてると湿気でこうなるんだろうとか思ってたが。違うのか」
「逆です。それは湿気止めのためになされているものですわ」
俺はまじまじと目の前の作品を手にとってみた。
「……表面になにか塗ってあるのか」
いわれてみれば、木材が自然変化したわけではなさそうな手触りにも思える。光沢があるのは、よほど磨きあげられたのだろうと思っていたが、
「それは瀝青です」
「瀝青? 瀝青っていうと、あれか。前に洞窟の奥に湧いた、あの。黒くて臭くてドロドロしたヤツ」
おおっ、とスケルがうなずいた。
「あっしとご主人を汚しに汚しまくってくれた憎いヤツっすね」
「俺が汚れたのは完全にお前のせいだけどな。……そういや、いってたな。なにかに使えるかもしれないって。防腐剤になるのか」
「はい。他にも接着剤ですとか。――瀝青は長い時間をかけて地下でつくられるものです。ここの洞窟には、どこか別の主蓄源から流れてきたものが掘削時に表出したようですが。いずれにしろ、色々と用途の考えられる代物です」
「つまり、“資源”ってわけだ」
重要な地下資源です。とルクレティアはうなずいた。
「地上の木材、地下の瀝青。蜥蜴人たちが分かれたとしても、このふたつがあればまったく一方的な優位性という事態にはなりません。互いに協力するべき事柄があるなら、交渉ができます。交渉ができるということは、平和に似た状況も努力次第で作り得るということです」
「なるほど」
俺はうなずいて、スラ子をみた。
首肯したスラ子がリザードマンの長に通訳する。それをきいた長老は、黙ったまま思案深げに首をうなずかせた。
「……リーザ。お前はどうだ。外にでるってことは面倒が増えるってことだ。前みたいに、他の魔物との縄張り争いだっておきる。それでも、地上にでたいのか?」
たずねられた若いリザードレディは、うっすらと目をほそめて、
「外、知っタ。教エた。皆、望んダ。我々、――変わる。竜ヲ目指す」
リザードマンがいつか竜になるという伝承。
そんなことが可能かどうかはともかく。たしかに、地下にこもっていては為し得ないことはあるはずだった。
「わかった。シィ。妖精族はどうだろう。森に新しい住民がふえるんだ。迷惑にならないわけがないと思うが」
ドラ子を膝においたシィは、たずねられて考えるように眉をひそめてから、
「……リーザさんは、女王様とも会ったこと、ありますから。水辺も、あるし。大丈夫だと、思います。……きちんと話、したらですけど」
「森の防衛、という意味では妖精族にとっても益があるかもしれません」
ルクレティアがいった。
「今後、メジハ周辺にはどうしても人の影が増えます。森に手が入ることはご主人様がお望みでないでしょうし、無制限な開拓など元よりするつもりもございませんが、竜騒動の時のように不埒な連中が増えることは考えられます。しかも、今度は一時的にでなく。妖精族の幻惑魔法は強力ですが、いざというときの打撃力はあってよろしいでしょう。我々だけで手がまわらないという事態は十分にあり得ることですから」
「森の用心棒ってわけだ。共生だな。……それができれば一番なんだが」
「いいっすねえ。そのうち、リザードマンさん方のつくる工芸品が売り物になったりとか! メジハの町と交易がはじまったりなんかしたら楽しそうですねぇ」
「……うん。そうなれたら、いいけど」
スケルに同意を求められたカーラが、控え目に微笑んだ。
「残念ですが、難しいでしょうね」
ルクレティアがいった。
「アカデミーとギーツで、人と魔の商いをやろうとしているのです。メジハでもそれが叶えば大変に有意義なことですが。……メジハは閉鎖的な町ですから」
「うん。そうだよね」
カーラが寂しそうに目線をおとす。
メジハはもともとよそ者にたいして厳しい集落だし、ルクレティアの両親が犠牲になった魔物の襲撃の一件から、魔物への敵視がつよい。
魔物まじりのカーラへの偏見は、カーラ自身の努力で少しずつ改善されてきているとはいえ。魔物との交易だなんていう開明的(というか普通は気が狂ったとしか思えない)行為にでるとは思えない。
「やっぱり難しいんすかねぇ」
「異なる価値観の交感、あるいは同化というのは、やろうと決めてすぐに叶うものではありません。偏見は迫害を生み、誤解は争いを起こします。築き上げた信頼は砂のように脆く崩れ、それでもめげずに積み重ねていくしかありません。数年、数十年。あるいはもっと長く、世代を超えた努力が必要でしょう。幾代にも渡った努力がたった一人の手で壊されることもあります。それを虚しい努力と考える人もいるでしょう」
ルクレティアの眼差しがこちらをみる。
俺は肩をすくめて、
「次の世代のことは、次の世代にまかすさ。自分が生きてるあいだは、自分ができることをやる。それでいいんだろう」
「そうですわね」
ルクレティアはほとんど誰の目にもわからないくらい、かすかに微笑んだ。
「残した財産を子孫が食いつぶすことを心配しても仕方ありません。我々は精々、子孫が食いつぶせるだけの財産と、食いつぶさないよう偉そうな教えでも勿体ぶって残しておけばいいのですわ」
あるいは、と続ける。
「それほどの長い年月をかけて、多くの種族の血がいりじまってもはや判別すらできない程になって、はじめて誰も彼もが互いに共感可能になることかもしれません。いずれにせよ、何事も第一歩がなければ始まりません」
「随分と頼りない最初の一歩になりそうっすね。ね、ご主人っ」
にやにやと片目をつぶる魔物少女に、俺は鼻をならしてこたえた。
「俺の踏みつけが足りないぶんは、お前らが後ろから押してくれよ。こっちがつぶれない程度にな」
「そのためにも、もう少し足腰を鍛えてもらいところっすねぇ」
「いってろ」
話がずれてしまった。
俺は咳をついて、まだ話にくわわっていないマーメイドに視線をむけた。
「エリアル。っていうような話なんだが、魚人族の意見はどうだ」
「異論はない。若い蜥蜴人たちの決断が、我々の存在に要因があることを思えば心苦しくはあるが。だからこそ、彼らの決定に文句をつける筋合いではないだろう」
肩がけを揺すらせて、エリアルがこたえる。
「なにか我々に手伝えることがあれば、地上にでる若い蜥蜴人、地下に残る蜥蜴人の双方に協力は惜しまない。地下に居住を許してもらった恩を我々は忘れない」
俺はうなずいて、他に意見をきいていない誰かがいないか周囲に視線をくばった。あ、タイリン寝てやがる。
「ツェツィーリャ、なにかあるか」
「ねーよ。知るか」
スラ子と目があう。
にっこりと微笑んで、うなずかれた。
「……よし。じゃあ、リザードマンの若手連中の移住は基本、承諾の方向性ってことでいこう」
ここに至って方向性なんて結論になってしまうのは三つの懸念、その最後の問題が残っているからだ。
「はい。後はご主人様次第になるでしょう。ストロフライさんへの嘆願の程、よろしくお願いいたします」
「じゅら」
「じゅらら~」
他人事のような表情で、蜥蜴人ふたりが頭をさげた。
その夜、洞窟の地下で宴会がひらかれた。
三か月ぶりの帰宅と、ひとまず洞窟の掘削工事が完了したことのお祝い。
若い蜥蜴人たちの新たな門出、はまだストロフライにおうかがいをたててないのでお祝いするわけにはいかなかったが、許可がおりたらまたお祝いをすればいいだろう。
ルクレティアが用意した酒をかっくらい、どんちゃん騒ぎの連中にまじって大分たってから、俺は地上の自分の部屋にもどった。
宴会の雰囲気になじめなかったわけではない。決してない。
扉をたたく音に、俺は机から顔をあげた。
「どうぞ」
開いた扉から顔をみせたのはルクレティア。
「……ご主人様。まだ起きていらっしゃったのですか」
「おう。そっちこそ。悪いな、急な酒の用意に、結局むこうに帰れなくさせちゃって」
長旅から今日メジハに戻ったばかりのルクレティアは、疲れがでて自宅で休んでいる、ということになっているらしい。
話し合いのあと、帰ろうとしたところに宴会の話がでて、どうせならルクレティアさんも飲んでいきましょうよという周りからの(主にスケルの)強引な誘いに、ルクレティアは帰る時機をいっしてしまったのだった。
「いえ。持参していた雑務の類は、ブラクトさんにお酒を持って来ていただいたときに指示をだせましたから」
ブラクトというのは、以前ルクレティアの周辺をさぐっていたモグリの冒険者のことだ。
バーデンゲン商会のディルク・スウェッダとは兄弟で、今ではメジハ・ギルドにおけるルクレティアの子飼いという立場にある。
「ああ。じゃあ、地下で楽しんできたらどうだ。とはいっても、あいつらもう完全に酔っ払いだけどな」
まだ深夜にもならない時間だが、地下の宴会はひどいことになっている。
リザードマンが竜を模して踊りくるい、マーメイドが合唱で美声をかなでる。偶然、洞窟に遊びにきた妖精連中もまじって、ものすごいカオスな光景だった。
もっとも、ルクレティアはああいう騒がしいのは嫌うのだろうが、
「ご主人様は、お戻りになられないのですか」
「ん。ちょっと頭がはっきりしてるうちに考えておきたいことがあるんだ。ほら、洞窟の内装の件」
蜥蜴人族と魚人族の協力のおかげで、洞窟の地上と地下はつながった。
だが、それだけじゃただのひたすら縦に深い洞穴ってだけだ。
ダンジョンというからには、それだけではなくて内装や仕掛けについて考えないといけない。
それについてさっき宴会のなかでたずねてみると、けっこういろんな意見がでてきたから、俺はそれを紙面にまとめているところだった。
アルコールで自分の記憶をすっとばすわけにはいかない。
多分、いった連中はほとんど明日にはおぼえていないことになっているだろうからだ。
「……そのようなもの、明日でもよろしいでしょう。所詮は酔っ払いの戯言です。ほとんどが実現性のない代物ばかりだったではありませんか」
「いや、意外と面白そうなのもあったぞ。――まあ、ほとんどは無理だろうけど」
そのあたりに書き連ねたアイデア、とはとてもいえない酔っ払いの戯言に苦笑しながら、
「無駄かもしらんが、使えるものがあるかもしれん。集めて一になるかもしれないなら、メモっといて損はないだろう」
ベッドに視線をやると、そこにはかすかな寝息をたてて眠るシィとタイリン、そして水槽に浮かぶドラ子の姿がある。その様子を、そばでスラ子がおだやかに見守っていた。
「下だって、俺が抜けたくらいじゃ平気だよ。スケルが盛り上げてくれてるし、酒もはいってる」
俺がいないことさえ気づかれてないかもしれない。ありえる。
「それとも、小賢しいか? こういう風に影でこそこそやってるのは」
「……いえ。人の上に立つ者は人より苦労すべきです。部下に殺させる指揮官は、殺される以上の努力を為さるべきでしょう」
「そうだろう」
ルクレティアが嘆息した。
「わかりました。……お茶はおありですか」
「ああ。さっき、カーラがもってきてくれた。みんなによろしく」
「はい。それでは」
ぱたん、と扉がしまる。
俺は机に視線をもどしたまま、もう一人にむかって声をかけた。
「スラ子。お前もいってきていいぞ。シィたちの様子は俺が見てる」
そろって慣れない酒をのんでダウンしている二人だった。
「はい。もう少しマスター成分を補充したら、戻ります」
「どのくらいで補充できるんだ」
「見てるだけだから時間がかかりますっ」
「なんだそりゃ」
ふりかえると、おだやかに微笑むスラ子と目があった。
その表情は話し合いのときから変わらない。
――親が子を見守るような。
先生や誰かがいった、未熟な母性。グレイトマザーというのとは違う、圧迫感のない気配に、俺は少し戸惑った。
「ふふー。補充完了しましたっ」
スラ子がにっこりと微笑む。
「下の皆さんになにか伝言はありませんか?」
「いや――ああ、ツェツィーリャが周りとうちとけられてるか、ちょっと心配だな。うちとけようとなんざしてないんだろうが。できたら気をつけてやってくれ」
「わかりました。スケルさんやカーラさんがいれば、大丈夫だと思いますっ」
「そうだな。あとは、ない。あんまり飲みすぎないように。終わってからエリアルあたりが苦労することになりそうだ」
「りょーかいですっ。では――いってきます」
「ああ」
とぷり、とスラ子が姿をけす。
一人分の気配がなくなった室内で、俺は机のうえのメモ書きに視線をもどした。
頭をかく。
なにかがひっかかっていた。
それは、たった今スラ子がみせた表情のことで。あるいは、夕方の話し合いでルクレティアがいった台詞や、さみしげなカーラの横顔のことだった。
「長い年月をかけて、多くの種族の血がいりじまってもはや判別すらできない程になって――か」
それは絶対にありえない将来ではない。
この世界にはマナがある。
その不思議な力は生き物に超常の力をあたえ、あまりにかけはなれた生命同士でも、子どもをつくることを可能にしていた。
カーラのように。人間とウェアウルフというだけでなく――それは、どういうことなのだろう。
他種族との交配は、基本的にどこでも忌避されるものだ。
それは恐らくは、自分たちの種の形質がうしなわれることへの本能的な恐怖なのだろうといわれている。
ほとんどの種族ではそうだし、エルフでもそうだ。
エルフがそうだということは、エルフに教えを授けた精霊もそうなのだろう。
――なら、どうしてマナにはそんなことができるんだ。
精霊とマナは必ずしもイコールではないと、アカデミーでヴァルトルーテからきいた。
精霊も何者かからつくられた。
そして、マナとは恐ろしいものなのだと。
なら、精霊をつくった何者とやらは、いったいなんのためにマナなんてものをつくったんだ。
精霊。マナ。創造主……絶対者。竜。――スラ子。
……少し、下でのんだ酒が残っているのかもしれない。
頭のなかでぐるぐるとまわる単語をふりはらうために、俺はそばにおかれたコップをつかんで一気にのどにあおった。