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十七話 小物な主人公とチートなスライム

 再び目を覚ますと、今度のそこはベッドのうえ。

 ふかふかの布団につつまれて、まるでそこに縛られたように身動きがとれない。


 実際、俺の身体は縛りつけられていた。――身体だけ。

 全身をグルグル巻きにしているのは先生の糸かと一瞬思ったけれど、顔に何重に巻かれているそれに気づいて違うとわかった。包帯だ。


 視界にかかる白色を確認してから、その周囲に焦点をあわせると、いくつもの眼差しが心配そうにこちらをみつめている。


「……ふぉは」


 しゃべろうとして、顔中にまかれた包帯のせいでおかしな声にしかならなかった。


「ふぉはほぅ」


 ひどい発音をきいた全員の顔がゆがんで、


「――マスターの、ばか!」


 ものすごい雷がおちた。


 短い髪を逆立てるような勢いでカーラがにらみつけてくる。

 目にはいっぱいに涙がたまっていた。


「死ぬとこだったんだよ! 見つけたとき、すごい怪我だったんだから! 全身大やけどで、顔色だってすっごく悪くって。両手なんか形が残ってたのが奇跡なくらいで! どうしてそんな……ばか! 大バカ!」


 すごい剣幕に俺がびっくりしていると、


「まあまあ、カーラさん」


 カーラの隣にたつスケルが、やんわりと肩に手をおいた。


「多分、ご主人はあっしのカタキをとろうと頑張ってくださったんでしょうから――もっと言ってやってください。もっとこうっ、傷口に捻じりこむように」

「ほふぁえ……」

「は? なんですかい、このダメご主人」


 スケルをにらみつけてやると、それに倍する目つきでにらみかえされた。


「カタキをとってくれるのはいいっすけどね、それで自分が死にかけてどうすんですかい。なんすか、満足げに横たわるご主人の前で、感謝しながらわんわん大泣きでもしろってんですか」


 け、と吐き捨てられる。


「しゃらくせえってんですよ。かたき討ちなんてのは、カタキを討ってかたき討ちのカタキを討ちにやってきたかたきかたき討ちをけちょんけちょんに返り討ちにしてやって、そのあとしっかり人生謳歌してなんぼでしょう。カタキを討ったくらいで満足されちゃあ困るんです」

「……ほふぁ、ほうふぁいふふぇふぇほ」

「なに言ってるかわかりゃしませんよ。ちゃんとしゃべってください」


 しゃべれないんだよ。

 哀願するように目でうったえかけるが、スケルは口元だけは柔和な笑みをうかべたまま、


「ほとんど死にかけてたご主人をみっけて、大急ぎで運んで治癒魔法をかけてもらって。ご主人が目を覚ますまで丸三日、誰が寝ないで番をしてたと思います? ちょっとくらい詰られたっていいでしょうよ」


 静かに燃え上がる怒りの気配に、俺はそっと視線をそらした。怖い。


 そらした先でルクレティアと目があう。

 長髪の令嬢は肩をすくめて、


「私は休ませていただきました。おかげさまで、快適な眠りでしたわ」


 ああそうかい。


「マギは馬鹿だなー」


 お前は黙ってろ、タイリン。


「まあまあ、マギさんもこうして無事だったわけですし……」

「はッ。そのままおっ死んじまえばよかったんだ」


 ありがとう姉エルフ。呪われろ妹。


 この場にいるのはそれで全員だった。

 洞窟で留守番しているシィやドラ子はもちろん、――もう一人の姿がたりない。


 それを確認してから、俺は息をはいて、


「……ほふぇん」

「わかりません」

「ふぁらふぉれほおにふぁひろっへ!」


 ……包帯の位置をずらしてもらい、あらためて口をひらく。


「――悪かった」


 その場にいる全員から盛大なため息をつかれた。


「なんだよ」

「本当に悪いと思ってんなら、もう二度とやらないでもらえませんかねぇ。せめて、やるんなら自分らのそばで死にかけてくださいな」


 代表して口をひらき、がりがりと頭をかいたスケルが、


「……誰もいないとこで死ぬのも、死なれるのも。ごめんですぜ」


 洞窟で頭蓋を割られて転がっていた姿をおもいだして、俺は顔をしかめた。


「……わかった。そうする」

「どうするんで?」


 半眼のスケルに、


「これからは、お前らの前で。……死にかける」

「死にかけないでよ」


 くしゃくしゃの泣き顔でカーラがいった。


「マスターになにかあったら、ボクたち。……そんなの、嫌だよ」

「仕方ありませんわ、カーラ」


 ルクレティアが冷ややかにさげすんでくる。


「そこのご主人様は、ご自身の無能を無茶と無謀で補うしかないと考えていらっしゃるようですからね。それで周りにどれだけ迷惑と心配をかけるのかわかっていないのです」

「心配してくれたのか」


 俺の一言に、ルクレティアの表情が完全に氷のそれに変化した。


「――しないとでも思いましたか?」

「……すみません」


 極寒の眼差しにつらぬかれ、俺は亀みたく身をちぢみこまるしかない。


 ため息をついた令嬢が、


「せめてご自分の身くらいはまもっていただけるようにならなければ困りますわ。……カーラ、貴女が体術。私が魔道。このお馬鹿様の身体が治ったら、それぞれみっちりと叩き込んでさしあげましょう」

「……わかった」


 顔をくしゃりとゆがめたままのカーラがうなずく。

 スケルが首をかしげた。


「でも、ご主人にそういう才能は皆無っすよ? そりゃあもう、感動的なくらいに」

「ご心配なく」


 ルクレティアが冷たく微笑んだ。


「馬鹿には馬鹿への躾け方が、無能には無能なりへの指導というものがあります。少なくとも、嫌というほど痛みを身体に叩き込めば、自分から自分の身体を痛めるような愚かな行動だけはとらなくなるでしょう。痛みに慣れさせない方法など、いくらでもありますわ」


 躾って。

 ていうか、さらっとなんか恐ろしいこといってないか。


「……うん、わかったよ。ルクレティア」

「わかっちゃ駄目だろ!?」


 ぎょっとしてカーラをみる。

 それでようやく、目を赤くはらしたカーラはちいさく微笑んでくれた。


「だから、早く元気になって。――なってください、マスター」


 呼びかける口調は敬語で、名前でも呼んではくれない。


 一瞬、目の前の相手にちがう世界で出会ったときの面影がかさなって。俺はそれをふりはらうように目をとじた。


 ――ああであってほしいなら。目の前の相手とああいう関係になりたいなら、自分からそれを目指せばいい。

 与えられるのではなく。努力すればいいだけだ。


 気分をひきしめて、俺はルクレティアにたずねた。


「アカデミーは? 話し合いはどうなってる」

「ご報告します」


 うなずいたルクレティアが、


「現在、状況は概ね順調です。今回の騒動でいくらか死傷者は出ていますが、数人といったところです」

「数人?」


 黒スラ子が、いやスラ子があれだけ暴れて、たった数人ですんだってのか。


「はい。黒スラ子さんが打ち倒した魔物たちは無事です。ばらばらに破壊された門番の石像にも、傷一つありません。私達が見たあれは夢か幻――いえ、まったく似た世界で行われた別の出来事、というふうに認識するべきなのかもしれません」


 いいながら、ルクレティアはなにかを察した眼差しをむけてきている。


「……もちろん、全員がというわけではありません。寡頭制を仕切る長老たちや、それの護衛についていた相手には死者がでています。殺された時間や場所、下手人は様々ですが、それらに共通することは」

「――エキドナか、あいつの息がかかった連中にやられた、か」

「はい」


 ルクレティアがうなずいた。


「エキドナさんが現体制の転覆を図ったというのは、彼女に与した生き残りからの証言で確認がとれています。アカデミー側は大騒動です。もっとも、人間に倣っただけあって、すぐに反体制派の燻りだし、責任の押し付け合い。互いの派閥同士の牽制にと忙しくされていますけれど」

「なら、こっちとの話し合いはしばらくお預けか?」

「はい。しかし、こちらにとって不都合ではありません。アカデミーで主導権をとりたい連中は、こぞって私達に接触してきています。人間との商いは金になりますから。我々は相手の出方を見定めて、それなりに優秀で、大いに利用できそうな相手を見つけて手を組めばよろしいでしょう。今後の交渉でも、随分とよい条件をひきだせるはずですわ」


 ルクレティアはひどく悪い人相で微笑んだ。

 ヴァルトルーテが、嫌そうな表情でそれをみている。


 潔癖なところがあるエルフがそういう反応をみせるのは性格的なものだろう。だが、俺も彼女とおなじような顔になっているのは、それとはまったく違う理由だった。


「……黒い、スラ子のことは」

「ご主人様の知人のアラーネさんをはじめ、彼女達の証言でだいたいの辻褄はあわせられています」


 微妙な表現だった。

 俺の感想を表情からよみとったらしいルクレティアが補足してくる。


「……黒いスラ子さんを目撃したという証言は多く出ていますが、それに自分は殺された、などという輩が大半なので、証言を聞く側も困惑しているというのが実情です。なにしろ証言者自身が生きているのですから。エキドナさんの手のものが、外からの犯行とみせかけて大規模範囲でしかけた幻覚攻撃――ということにしておくべきでしょう。あれはこことは違う世界の出来事だ、などと言ったところで、普通は理解できません。余計な混乱と疑いを招くだけです」


 俺は沈黙した。


 スラ子のつくった別の世界。

 いったいそれがいつからあって、自分たちがいつからそこに迷いこんでいたのかはわからない。


 あの黒いスラ子が俺の前にあらわれたとき、そこはもう違う世界にすりかわっていたのかもしれず。それを夢や幻のようなものだとするのなら――そこであった出来事や、そこでやってしまったこともなかったことになるのだろうか。


 俺は両手をにぎりこんだ。

 ほとんど動かないうえに、ちょっと動かそうとしただけで死ぬほど痛い。痛みがあることにほっとしながら、実感する。


 ――夢じゃない。

 その痛みも、そこに残る生々しい感触も。


「……エキドナは、死んだんだな」

「はい。死体を確認しました。“抜け殻”の類でもありません。恐らく、先ほどの死傷者例のなかでは唯一の例外でしょう」


 答えたルクレティアが、少しの間をおいてから続けた。


「――たとえ殺した相手を全て生き返らせたとしても。殺したという事実は消えません。罪というなら、それで十分だと私は思います。なにより彼女は、自分のなさったことを決して忘れたりはしないでしょう」

「……わかった」


 俺はゆっくりと息をはいて、


「これから先の展望は?」


 先をうながした。

 意外そうにちいさく目をみひらいたルクレティアが目をふせる。口元にほんの少しだけ微笑があった。


「……アカデミーの騒ぎはしばらく続くでしょう。こちらとしてもあっさり落ち着いてもらっては困りますし、アカデミーの長老達もこの際に膿を出しきってしまおうと考えているようです。もちろん、現体制へ不満を抱くものが全てエキドナさんに与していたわけではありませんから、反発は必至でしょう。微妙なバランスでどうにか成り立っていたアカデミーの内部で、これからひどい勢力争いが起こります」

「長引きそうだな」

「それもこちらの手のうちですわ、ご主人様」


 ルクレティアは微笑んだ。


「二か月。大勢が決するまでならおよそ一月といったところでしょうか。我々とアカデミー側が本来の協定について話し合えるのはそれからになりますが、中身の骨子は事前に取り決めておきますから、その時に必要なのは形式だけということになります。ちょうどご主人様が出立できる程度には動けるようになる頃、全ては片付いているでしょう。いいえ、それに合わせて片づけてご覧に入れますわ」


 大勢を意のままに操ってみせる器量の表情で、夕食のメニューについて口にするようにいってみせる。


 つくづく怖い女だ。

 本当に敵のままじゃなくてよかった。もう一回なんてとても勝てる気がしない。


「アカデミーの主導権をとった勢力と、手をむすぶ。それから協定。ギーツとアカデミー、それにメジハ。……人間と魔物との正式な商い、か」


 そうなったら、ハシーナなんて物騒な代物を取り扱わなくても、きっと莫大な富をもたらすことになるだろう。


 人間にしかないもの、魔物にしかないもの。

 それらを互いに行き渡しすることで、今までにない発展の可能性の道をひく――そして、その両者を仲介する存在としてメジハは重要な立ち位置にたつことになる。


 それが、メジハを発展させようとするルクレティアの計画なのだろう。


 まったく。

 人間と魔物の橋渡しをしようだなんて、壮大すぎて呆れるしかない。魔族がどうとかいってたエキドナといい勝負だ。


「なにかご懸念がございますか、ご主人様」


 ルクレティアがきいてくる。


「……竜は、駄目だ」


 俺はいった。


「ギーツで誰かがいってた竜貨とか、エキドナの企んでた竜を頂点に据えるだとか。そういうのは絶対に駄目だ」

「竜の怒りに触れてしまうから、ですか?」

「違う」


 頭をふって、


「竜なんて気まぐれだ。理由があろうとなかろうと殺すときは殺すし、滅ぼすときは滅ぼしにくる。そんなもん、口実なんてなくても一緒だろうさ」


 だけど、


「口実がないほうが、こっちだって正々堂々と文句がいえる。ふざけんな竜かえれ、って胸をはって罵倒してやれるからな」

「それは」


 ルクレティアが一瞬、言葉をうしなって。

 くすりと微笑む。


「随分と威勢がよろしいことですわね」

「おう、俺を誰だと思ってやがる」

「そうですか」


 ルクレティアは淡泊にうなずいた。


「でしたら、ストロフライさんの鱗が落ちていたのを拾っておきましたけれど、捨ててしまってもかまいませんかしら」

「おうスケル大切な鱗様に傷ひとつついてないだろうな、よっく磨いておけよこの野郎」

「そんなの自分でやりやがってくださいよ、ご主人この野郎」


 真っ白い魔物少女とがるると視線をたたかわせてから、息をはく。


「……竜を利用しようとする連中もだ。人間だろうと、魔物だろうと、そういう連中がやってきたら叩きだす。ストロフライは利用しないし、利用させない」


 じっとこちらを見据えたルクレティアが、面白がるように瞳をかがやかせた。


「それはつまり、貴方様が竜域の守護者となる覚悟をお決めになられたということでしょうか」


 俺はおもいっきり顔をしかめた。


「そんなもん誰がなるか」


 ただし、とつづける。


「周りの連中からどう思われようが関係ない。俺は、俺の近くにいる誰かがよろしくやっていくのを邪魔されたくないってだけだ」


 そのためなら、なんてよばれようがかまわないし、高慢な令嬢の一兵卒にだってなったっていい。

 こんな俺にできることならなんだってやって、作りあげてやる。――あいつが、安心して悩んで生きられる場所を。


「竜という絶対的な存在の力も、威光さえつかわず。周囲のいかなる相手にも劣らない、謀略や侵攻を跳ね返すだけの勢力を作り上げてみせろとおっしゃいますか」


 呆れたようにルクレティアがいった。

 愉快そうに口元をつりあげて、


「ご主人様、貴方は随分と強欲でいらっしゃいますわ」

「ああ。自分でもひくぐらいにな」


 苦々しくうなずいてから、俺はまっすぐに相手をみつめた。


「……できるか?」


 ルクレティアが目をほそめて、ささやくようにたずねてくる。


「それはご命令ですか?」


 それがこちらを挑発するのではなく、なにかをたしかめる声だったから、俺は首をふった。


「違う」


 ルクレティアの胸にある呪印は、もう俺の命令をきくことはない。

 だから、これは命令じゃない。


「命令じゃない。俺はお前に頼んでるんだ、ルクレティア」


 ルクレティアはしばらく沈黙してから――ふっと頬をゆるめた。

 この誇り高い令嬢が滅多にみせない素直な、見惚れるような表情で微笑んで、


「それでしたら、恐れながらご主人様。できる、できないではありません。やるのです。必ず成し遂げるのです。貴方と私、――私達で」


 俺はだまってうなずいて、周囲をみまわした。


 カーラにスケル、絶対に話がわかっていないタイリンはおいておくとして。

 力強くうなずきかえしてきてくれる仲間に、もう一度うなずいてみせる。


 俺は弱っちい、雑魚の魔法使いだ。

 いまだにそれはそのまま、ぼっちだったアカデミーや洞窟でひきこもっていたころと変わらない。


 違うことといったら、スラ子や、スラ子がきっかけになってくれた仲間がいてくれるってことくらい。


 だから、


「――頼む。みんなの力を貸してくれ」



「では、私はアカデミーとの折衝にいってまいります」


 それからいくつかの打ち合わせをしてから、その場は解散という流れになった。


「ご主人様は、まずはお身体を治されることに専念してくださいませ。ああ、治癒の魔法は必要最低限に留めておいてもらっています。きちんと身体が動かなくなるかもしれませんから、くれぐれもリハビリはお怠けにならないようにご注意を」

「鬼か」


 ルクレティアは冷ややかに微笑んで、


「これも躾の一環ですわ。男を躾けるのは女の役目だと、あるご年配から聞いたことがあります」


 リリアーヌの婆さんかよ。

 ……そういや、元気にしてるかな。年なんだから無茶してないといいが。


 洞窟をでてすでに一か月。

 帰れるのはさらに二か月近くは先になりそうだ。


 シィやドラ子の顔が頭にうかんだ。むこうの世界でちょっと会えたとはいえ――いや、会えたせいでさらになつかしさを強く感じた。


 洞窟のスライムたちはどうしてるだろう。

 妖精連中にイジメられたりしてないだろうか。そんなことになったら、シィが助けてくれるとはおもうが。


 リザードマンやマーメイドたちのことも心配だ。なにか面倒なんて起こしてないといいが――


「あの、マギさん」


 懐郷心にしんみりしていると、ヴァルトルーテから声がかかった。


「ああ、なにか?」

「ちょっとお話が……」


 真剣な表情。


「……わかった。聞くよ」

「すみません。マギさんお一人にだけ、お話したいのですけれど」


 ヴァルトルーテがいう。

 俺はだまってカーラとスケルに視線をむけた。ひょいと肩をすくめたスケルが、


「んーじゃ、ちょっくらアカデミー見学にでもいってきますかね。カーラさん、タイリンさんもご一緒にいかがです?」

「いく!」

「えっと。うん」


 カーラは少し心配そうだったが、俺は安心させるように大きくうなずいておいた。


「ご主人」


 部屋を出る間際、こちらをふりかえったスケルがぐっと親指をつきたてた。


「やったぜ」

「やったぜ」


 俺もぐっと親指でこたえる。


 三人が部屋をでていって、ぱたんと扉がしまってから、


「……話ってのは?」


 こくりとうなずいたヴァルトルーテが口をひらいた。


「――精霊と、マナについてです」

「精霊?」

「はい」


 ちらと後ろをふりかえる。


 壁によりかかったツェツィーリャは、そっぽをむいてこちらをみようともしない。

 そっと息をはいたヴァルトルーテが話をはじめた。


「蜘蛛人の方のお宅で、少しお話ししましたよね。この世界の成り立ちについて」

「ああ。あったな」


 思い出すのにちょっと時間がかかったが。

 スラ子のことについて相談にいったとき、すこし話が脱線してそういう話になったと思う。


「私たちエルフの一族に伝わる話があります。この世界をつくったのは精霊ではない、という話です」


 ――なんだって?


「……世界は、とても小さな粒でできています。それは色であり、音であり、波であったと言います」


 いきなり俺の理解のおよばないことを、話しだされてしまった。


「ええと、あー。……属性か? 天に三属、地に六属っていう、あれのことじゃないのか」

「違います。“属性をつくるもの”のお話です」


 ……属性を、つくる?


「世界をつくる、とても小さな、とてもとても小さな粒。目にも見えない、その極小の粒が無数に集合することで、世界はできています。水の一滴を分断して、分断して、さらに分断して、無限にも近しい回数を分断したのちにできる粒の子ども。それこそが、人間もエルフも、動物も植物も、この世界にある全てに共通する構成要素です」

「ちょっと待ってくれよ」


 俺はあわてて相手の発言をさえぎって、


「……じゃあ、精霊がいってた、自分たちが世界をつくったってのはなんだよ。あれは嘘ってことか? 精霊が嘘をつくのか?」

「嘘でもあり、正しくもあります。……精霊が我々に知恵と力を与えたのは間違いありません。その精霊もまた、誰かに作られたというだけで」


 精霊の上位者。

 それをきいて頭にうかんだのは二人だった。正確には――一人と、ひとつの種族だ。


「――竜?」


 ヴァルトルーテがゆっくりと頭をふった。


「それも正しくあり、正しくありません。竜がこの世界で生まれたのは確かです。彼らはただ、自分たちをつくった存在が想像したよりはるかに強くなりすぎてしまった生き物が、種族として確立してしまっただけ。彼らは、この世界の規格外種です」

「その存在ってのは誰なんだ。竜でも精霊でもないってんなら、それこそ神ってことか」

「わかりません」


 エルフはちいさく首をふった。


「この世界と、精霊をつくった創造主。そういう意味では文字通り神のような存在ではあります」

「……続けてくれ」


 はい、とヴァルトルーテがうなずく。


「とても小さな粒の子ども。そのいくつかあるものの一つが、――マナ。我々がそう呼ぶ存在です。この世界を支配する超常の現象の要因。無限の力を生み出す素。使い方を過たれば、世界そのものを滅ぼしてしまいかねない……それを防ぐために、精霊はつくられたと言います。そう、精霊自身が語ったのです」


 精霊が語ったってことは、エルフ一族が勝手につくった創作ってわけじゃないってことか。


 もちろん、それだけでこの話が正しいなんて理屈にはならないが。

 なら、なんでそんな話がでてくる? それを今こうして俺にきかせるのはなぜだ?


「マナ。危険すぎるその力はいくつかにわけ、それぞれで管理されることになりました。それが属性。そしてそれを司るのが、精霊です。マギさん、あなたが先ほどおっしゃった――天に三属性、地に六属性という在り方がそれです」


 先生がいった。

 属性の在り方はどこか恣意的だと。


 つまりそれは、そこに何者かの意思が介在しているということだ。


 精霊の。

 それとも、精霊をつくった誰かの。


 じゃあそれは、なんのために。――誰かのため?


「……マナ」

「なんですか?」

「――いや。なんでもない」


 俺は頭をふった。


 ――マナ。


 知人の連れたあの奇妙な赤子が、もしかしたらこの話となにか関わりがあるのかもしれない。そういう予感はあった。


 だからって、いまの俺にできることはない。

 当の赤子はルヴェに抱かれて今はどこか空の下だ。


 友人が、自分が育てると胸をはって宣言したのだから。それにケチをつけてもしょうがない。


 俺にできることといえば――将来、もしもルヴェが困って助けをもとめてくるようなことがあったとき、それに全力で応えてやるってことだけだ。

 おなじ、子育てに難儀する同士として。


「それで。それがスラ子とどう繋がるんだ?」


 話の本筋をもとめて、俺は自分からそれをきりだした。

 ヴァルトルーテが顔をゆがめる。


「シルと、ツェツィから聞きました。あなたのアレは、短い間だったとはいえ、間違いなくここではない違う世界をつくりだしたと。……それは、精霊にさえ出来ないことです」


 俺は、黙って相手に先をうながした。


「アレはもう、神に近しいモノです。竜や、精霊とマナをつくった何者かのように。絶対的な創造主。それが、あなたのつくった不定形生体の成れの果てです」

「……だから殺す、か?」

「それが叶えば。喜んでそうするでしょうね」


 ヴァルトルーテは自嘲するように微笑んだ。


「アレが精霊をとりこんだことは、我々にとってはいくら憎んでも余りあります。けれど、相手が神とも等しくなった以上、もはやどうにもならないという諦観があります。竜に戦いを挑もうとするエルフはいません。理不尽に襲われて、それに抗うことはあったとしても」


 ――この世界には実際に神が実在している。


 竜とよばれる、圧倒的な超越種。

 それが現に存在するなら、それを恨んだところで仕方がない。


「……ただし、竜とアレは違います。一番の違いは、あなたという存在です。マギさん」


 ヴァルトルーテが厳しい眼差しをむける。


 竜は、なにものにも囚われない。

 自分の思うがままに殺し、壊しもするが、誰かのためにそれをすることはない。


 それが竜だ。


 だが――スラ子はちがう。


 神の気まぐれに滅ぼされることは仕方ないとしても。

 神を利用する、ただの人間に滅ぼされるのは我慢ならない。そういうことか。


「あなたは危険です。アレがどうにもならないのなら、あなたをどうにかするしかない。……いっそのこと殺してしまうべきかと、そうも思いました」


 ヴァルトルーテはいった。


「すぐに蘇生されてしまうかもしれません。けれど、アレがまだ神としての意識に目覚めていないうちなら――やりようはあります。……でも、マギさん。あなたは言ったそうですね。あいつを神サマなんかにしたくないと。そして貴方は、なんでも自分の思い通りになる世界を拒否して、こちらの世界を選んだ」


 静かな眼差しに、


「……俺があいつをつかって変なことはしないって、信じてくれるわけか?」


 わずかな希望をもってきいてみるが、エルフはゆっくりと首をふった。


「残念ですけれど。そうはいきません。たとえ私があなたは危険ではないと説いたところで、里の人たちは納得してくれないでしょう」


 私自身、と息をはく。


「あなたを信じていいものか、わからないんです。人間だからとかではありません。生きていれば心は変わるものです。今、あなたの決心は確かに本物でも、未来のあなたは違うかもしれない。子ができて、老いさらばえ、死を間近にしたあなたなら」


 俺はだまって相手の話をきいた。


 目の前のエルフのいっていることは、なにひとつ間違ってはいない。

 世界を滅ぼして、世界をつくりだすような力が、俺みたいなちんけな人間のそばにある。誰だって不安に思うにきまってる。


「……我々は昔、他者につきあうことに疲れ、自分たちの集落に引き篭もりました。その結果が、今です。我々がいくら精霊を尊べ、信じろといったところで誰も話をきいてくれません。それは、私たちが話し合うのを拒否してきたからです」


 ん、と俺は首をかしげた。


「話がずれちゃってないか」

「いいえ、同じですよ」


 ヴァルトルーテが頬をゆるめた。


「だから、今度はつきあおうということです。……私たちはあなたが信じられないし、かといって昔のように閉じこもるわけにはいかない。だから、あなたのそばで、あなたが変心しないか見届けようと思います」


 つまり、


「――目付け役か」

「そういうことです」


 やわらかく微笑む。


「あなた方が、アカデミーの方々と成し遂げようとしていることも。我々は、貨幣というものをよく思っていません。けれど、ルクレティアさんが言ったように、反対するなら対案をだせというのはもっともだと思いますから――だから、あなた方と一緒に、あなた方がやろうとしていることに参加させてもらえませんか?」


 その発言には、さすがに驚いた。


「……エルフが関わるっていうのか? 人間と魔物が商売しようとしてる企みに?」

「いけませんか?」


 ヴァルトルーテが首をかしげる。


「いや、いけないっていうか。――里の連中が納得しないだろう、絶対に」


 孤立主義のエルフが、他のなにかに協力しようだなんて。


 いまだに、変わり者のエルフが人間社会にでてきて教えをさずけたりしていることはあるが、あくまでそれは個人のこと。

 集団としてエルフがなにかをしようとするなんて、それこそアカデミー設立以来になるんじゃないだろうか。


「エルフにだって、いろんなエルフがいるんですよ」


 ヴァルトルーテがいった。


「若いエルフもいれば、老いたエルフもいます。自分たちはこのままじゃいけない、って思っているエルフもいるんです。少なくともここに一人います」


 豊かな胸に手をあてて、


「関係ないところで愚痴をいうより、なかにはいって徹底的に話し合うべきです。自分の意見を聞いてもらうためには、少しでも自分の意見を反映するためにはそれしかないはずです」


 ヴァルトルーテのいっていることは正論だ。

 でも、


「それはあんた一人の意見だよな。少なくとも、いまのところは」

「……はい。そうです」


 ヴァルトルーテは恥ずかしそうに頬をそめた。


「エルフの総意ではありません。だから、もし参加させてもらえるなら、里に帰ってみんなに話したいんです。もちろん、反対だってあるでしょうし、全体の同意をとりつけるかどうかはわかりませんけれど」


 頭がかたいエルフのことだ。

 熱心な彼女がいくら説いたところで、頑として頭をふらないことだって十分ありえる。


 だが、実現する可能性がどれだけ低かろうと。博識なエルフたちの協力をもらえるかもしれないっていうんなら、それをわざわざ拒絶する理由はなかった。


「……わかった。ルクレティアにいってみるよ」


 なにやら相性はよろしくなさそうなヴァルトルーテとルクレティアだが、あの令嬢なら自分の個人的な感情なんかより、エルフとの協力体制で得られるもののほうを選ぶだろう。


「ありがとうございます」


 俺がうなずいてみせると、ヴァルトルーテは嬉しそうに微笑んだ。

 ちらりと口元を自身ありげに笑わせて、


「安心してください。私たちは、きっと役にたちますよ」


 その表情をみて思った。


 もしかしたら、これは彼女たちエルフのプライドなのかもしれない。


 人間と魔物がなにやら変わったことをはじめようとしている。

 精霊から知恵と教えを最初に授かった、精霊の使徒として。この世界の文明の成り立ちにおおきくかかわってきた自分たちが、それに乗り遅れてたまるものかと。


「ああ、でもさ」


 俺は眉をひそめて、声をひくめた。


「はい?」

「あっちはどうなんだよ。ほら」


 視線をむけたのは、壁によりかかったまま一言もしゃべらない、もう一人のエルフ。


「ああ」


 ヴァルトルーテがくすりと微笑んだ。


「それなら平気です」

「とてもそうはみえないんだが……」


 さっきから、絵にかいたような不機嫌なオーラだしまくってるし。


「平気なんです。マギさん。あなたをどうするか、もう少し様子をみてみたいって言いだしたの、ツェツィなんですよ」

「え?」


 またびっくりだ。


 あれだけ俺やスラ子を殺そうとしてたってのに、どんな風の吹き回しだ?


 不機嫌そうな銀髪のエルフはむこうで黙ったまま。

 それをみやって、ふふ、と口元をほころばせた姉のエルフが、


「私はここでの話し合いが終わったあと、里に戻ります。でも、ツェツィはマギさんたちと一緒に連れて帰ってあげてください」

「さっそくの監視役ってわけだ」

「護衛ですよ」

「……暗殺じゃなくて?」


 隙をみて殺しにかかってくるというほうがまだ信じられる。


「違います。マギさん、あなたはそうそう死ねないお立場です。私たちにとってもそうなりました」


 だから、とヴァルトルーテはたちあがり、こちらにむかって深々と頭をさげた。


「――妹のこと、よろしくお願いします」


 それに答えるために口をひらきかけて。


 俺はその口をとじて、全身に力をこめた。

 途端に体中に激痛がはしるが、それを無視して無理やり身体をおきあがらせる。


「マギさん、まだ無理しちゃいけませんよ……!」


 あわてて介助してくれるヴァルトルーテの手をかりて、涙目になりながらなんとか上半身をおきあがらせて。

 痛みに頬をひきつらせながら、頭をさげた。


「っ――。こっちこそ、これからよろしく頼みます」


 ヴァルトルーテがくすりと微笑んだ。


「やっぱり、話してみなければわかりませんね」

「……さあな」


 俺は苦い顔で頭をふった。


「話してみたところで小物は小物だ。それに、話したから化けの皮がはがれることだってあるだろう」


 そうですね、とヴァルトルーテはうなずいて。


「マギさん。――本当に、できると思っていますか?」


 静かな声音でいった。


「人間、魔物、エルフ。生き方も考え方もまったく異なる価値観を、悪意や欲望を、竜のような絶対的な力に頼らないでまとめあげるなんて。そんな絵空事のようなことが、実際に可能だと思います?」


 俺は相手をみかえして、


「どうだろうな」


 あっさりとつげた。


「思いつくだけなら簡単だし、誰かがちょっと思い立ってすぐ叶うんなら、世の中ってのはもうちょっといい世界になってるんじゃないか」


 いつだって理想は現実の前にやぶれるものだし、どんな崇高なお題目だって多くの悪意のまえにあっさり叩き潰されてしまうもんだろう。


 しかも、それをやろうっていうのが、なんの権力もなければ能力もない、ただの人間だっていうんだから。これはもう笑い話といっていい。


 すくなくとも、俺がどこかの酒場でこんな話をきいたら爆笑する自信があった。

 腹をかかえて大爆笑だ。


「……不可能だと知りつつ、それをやろうと? きっと周囲はあなたのことを笑いますよ」


 眉をひそめる相手に、俺は肩をすくめてみせた。


「俺は、今までなにもできなかった男だ。だから他の誰が俺を笑おうとかまいやしない。だって俺は、今までなにもしてこなかったんだからな」


 ――だけど。


「俺が死んだとき、なにかできたのか、できなかったかは。俺が生きてるあいだは誰にも笑わせない。笑いたいなら俺を殺して、俺の死体の前で笑えばいい」

「あなたの失敗が、この世界の破滅を招くとしたらどうします。あなたのことを笑える誰も残らない事態になったら」

「そのときは竜が笑うさ」


 きっと、ヤクザな黄金竜が笑いとばしてくれる。


 ヴァルトルーテは、しばらく無言のままこちらを見つめてから、


「――そうですね。本当に、話してみなければわかりません」


 室内だというのに、不意にふいた微風に俺は目をとじた。


 耳元で声。


「……あなたは素敵な小物です。マギさん」


 きつく巻かれた包帯越しに、頬にやわらかいものがふれた。



 話をおえたヴァルトルーテがアカデミーとの話し合いのためにでていって、部屋には俺とツェツィーリャがのこされた。


 会話はない。


 ……空気がおもい。

 こんな針みたいな空気にさらされてるくらいなら、さっさと寝たほうが身体によさそうだったが。


 その前に、俺にはまだやることがあった。


「あー。なあ、ツェツィーリャ」


 ぎろりと目つきのわるい眼差しがこっちをみて、


「……なんだ、ぼんくら」

「ちょっとだけ、一人にしてくれないか」

「アホか」


 とげとげしい声がつきささった。


「オレは手前の護衛だぞ。出ていってどうする。ふざけたことぬかすとぶっ殺すぞ」

「護衛が殺して、それこそどうすんだよ……」


 ため息をついて、ふとベッドの近くのテーブルに目をむける。そこに置かれたお盆のうえには、パンとスープが用意されていた。


 ……そういえば、ものすごく空腹だ。

 どうやら三日も寝てたらしいから、そりゃそうか。


「ツェツィーリャ」

「なんだっつってんだろうが」


 俺は黙って、あんぐりと口をあけてみせた。


「……そりゃ一体なんの真似だ、ぼんくら」

「腹がすいて死にそうなんだ。食べさせてくれ」


 形相だけで誰か殺せそうなくらい凶悪に、エルフが顔をゆがませた。


「ざっけんな。なんでオレがンなことを――」

「護衛だからだろ。このままじゃ俺は餓死するぞ。手はこんなだしな。それが嫌なら、誰か呼んできてくれよ」


 包帯にがんじがらめにされて自由にできない身体を目でさしながらいうと、ツェツィーリャは憎々しげな視線を投げつけて。


 無言でこちらに近づいてきた。


 ベッドの近くまできてテーブル上のパンをつかむと、背中の矢筒からとりだした矢の先にそれを突き刺して――かまえた弓矢につがえる。


「……口あけろ。食わせてやる」

「アホか!」


 ふん、と鼻をならしたツェツィーリャがパンを放り投げて、


「オレは手前のそばから離れねえ。どっかの誰かと話したいんなら、聞かない振りしててやるから好きに話しやがれ」


 不機嫌に言い捨てて、部屋のむこうに歩いていく。


 壁に背をあずけてそっぽをむくエルフに俺は息をはいて、


「――スラ子」


 ちいさく呼びかけた。

 返事はない。


「スラ子、いるんだろう」


 もう一度、声をかけると、近くの床から湧きあがるように不定形がもりあがり、すぐに見慣れた人型をとってみせる。


「よう」

「……はい、マスター」


 スラ子は元気のかけらもない様子だった。

 顔をうつむかせて、まともにこちらもみようともしない相手に笑いかけてみせる。


「顔をあげてくれよ。みてみろ。包帯だらけで笑えるぞ。多分、ミイラみたいになってるんじゃないか」

「……ゼンゼン、笑えません」


 スラ子がいった。

 顔をあげる。ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。


「辛そうなマスターなんて、見たくありません。見ているだけで、痛々しいです。こっちまで辛いです。――わたしなら。そんな怪我なんて、なかったことにできるのに」


 俺はだまってスラ子をみつめた。


 スラ子は唇をわななかせて、でも、ときつく噛みしめた。


「……わからないんです。そうしたいのに、そうしていいのか。なにをしていいのか、なにをしたらいけないのか。なんでもできるのに、わからないんです――」


 悔しそうに。悲しそうに。

 スラ子はいった。


 ――たとえばもしも俺になんでもできる力が手に入ったら、どうするだろう。


 スラ子がうまれたとき、有頂天になって口走ったように世界征服とか、それとももう少し穏便に、世界中のスライムをあつめてスライムのハーレムをつくるのか。


 それともエキドナがいったように、洞窟にひきこもってすべての可能性を腐らせてるだけか。……多分、そんなところだろう。


 俺のつくったスラ子はなんでもできる。


 でも、それはスラ子の力だ。俺の力じゃない。

 だからスラ子がどうしたいかは――スラ子自身が決めるべきだ。


 なんの疑問もなく万能の力を振るえるというのなら、それはきっと幸福なことだろう。

 スラ子にとっては俺から命令されるほうが楽だろう。


 だからこそ。


「……なあ、スラ子」


 俺は静かに泣き続ける不定形の存在に、声をかけた。


「俺はずっと、俺のままだ。……いつまでたっても情けなくて、誰かに迷惑をかけつづける。きっとお前はイライラすることばっかりで、呆れて、けんかだってこれから何度だってするはずだ」


 それでも、と続ける。


「――それでも、俺は俺のままだ。俺のまま、お前のそばにいつづける。みじめに、無様に、それで最後はお前のそばで、あっけなくくたばってやる」


 自分自身さえ定かでない不定形の生き物が、自分自身とはなにかをわかるようになるまで。


「俺は、そういうふうにお前と生きていきたい。それで、いいか」


 俺の言葉をきいたスラ子は、子どもみたいに顔をぐしゃぐしゃにして。

 半透明な全身をふるわせて、自分のなかでこみあがる情動をたたかわせるように、こらえて、のみこんで。


「……はい。マスター」


 泣きながら無理やりにつくってみせた笑顔で、うなずいた。



                                     8章 おわり


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