十五話 青いスラ子と黒いスラ子
「う……ぁあ――」
声。
耳にさわるうめきに俺は目をさました。
まぶたをあげた先は、――黒。
「ファイア」
反射的に灯りをつくろうとマナを放出するが、手元からたしかに送り出したはずの力に、マナが反応しない。
いや、手ごたえはあった。手応えだけは。ということは。
「……闇か」
タイリンのつくるような。光のない状態をいうのではなく――実際に存在して、すべてを覆うモノ。
周囲に広がる闇は深く、その果ては感じられない。
視界のどこかに切れ間でもないかとじっと闇を凝視してみて、くらりと目まいをおぼえてよろめきかける。それではじめて自分が突っ立っていることに気づいた。
息をはく。
これじゃ目をとじてるのと変わらない。足元どころか、自分の手さえ見ることができないのじゃ、まともに歩けるはずがなかった。
「そうだ。ストロフライの――」
胸元に目をおとすと、そこには黄金色の淡い輝きが服のしたからうっすらと発光している。
「さすがすぎるぜ、親分」
苦笑しながら取り出してみる。
袋にいれて胸からさげた黄金竜の鱗は、まるで周囲を照らしてくれるほどの光量ではなかったけれど。その淡い輝きは、今の俺にとっては光明そのものだった。
闇と同化しないための。
唯一の光源である鱗入りの袋を前方につきだして、俺は慎重に、闇にとざされた空間の探索をはじめた。
……さっき、声がしたはずだ。
声の大きさと響き具合からして、そんなに遠いとは思えない。
そう見当をつけてあたりを探してみるが、声の主どころか、壁も、そのあたりに転がっている物さえ見つからなかった。
地面にはただただまっすぐ平坦な床が続いているだけで、傾斜すらない。
だいたい、俺はいったいどこに立ってるんだ?
かがみこんで地面に触れてみて、ぎょっと飛びあがった。
手に触れた床は生温かかった。
硬さはなく、いくらか力をこめれば沈み込んでいきそうな感触。手への付着物や匂いはない。
「なんだ――ここ」
嫌な気配だった。
不快ではないが、ひどく息が詰まる。空気の重々しさが狭苦しい室内を思わせた。
洞窟の奥底のように沈殿した閉じた空間。
……そうか。
自分の連想に、俺は確信して周囲をみまわした。
……ここは、スラ子のなかなのか。
黒スラ子がつくりだした世界。
ここにいればなんの不安もない。外敵のない安全な場所。生まれる赤子にとっての母胎のように、自分を守ってくれる存在。
つい昨日、それと似たような話をきいたばかりだった。
愛着という生まれたばかりの幼児が近しい相手にいだく感情。
なら、これは黒いスラ子にとっての愛着行動なのか。高い知性と果てのない能力をもった幼子が、周囲にむけて当然おこなうべき欲求活動。
「……どこだ、スラ子」
呼びかけに答えはない。
かわりに、目の前の暗闇にうっすらとなにかが浮かび上がった。
スラ子ではなかった。
目の前にあらわれたのは銀髪のエルフ、ツェツィーリャだった。
「う――」
朦朧とした声がもれる。
暗闇のなか、ツェツィーリャの表情は意識が混濁しているように焦点があっていなかった。その周囲には個体とも液体ともつかないものが全身にまとわりついている。
「ひぁ」
とらえた獲物を捕食しているような不定形のモノがうごめくのに反応して、それにつつまれたツェツィーリャがかすれた嬌声をあげた。
いつもの口の悪い、気丈なエルフからすれば想像ができない声色。俺は顔をしかめて、エルフの周囲の不定形にむけて呼びかけた。
「スラ子。お前か」
「――ふふー」
ツェツィーリャにからみつく不定形からどろりと盛り上がり、形をなす。
人型をとった妖艶な美女が微笑んだ。
「はい、マスター。かくれんぼ、見つかっちゃいましたっ」
「なにやってるんだ」
「なにって――」
邪気のない、悪意にみちた笑みで小首をかしげる。
「躾けですよ。このエルフさんは、ずーっとマスターに失礼な言葉遣いでしたから。いろんなオモチャがあっていいとはいえ、やっぱり大切なことは教えておいてあげないとダメです」
「……誰もそんなこと頼んでないぞ」
「はい、そうです」
黒スラ子は自信満々にうなずいた。
「私が、そうするべきだろうって思ってやっているんです。私はマスターの望みを叶えるんですから」
「俺の望み?」
「そうですよ」
黒スラ子は妖しく微笑んで、自分のからめとったエルフの肢体にそっと顔を近づけた。首筋を這うように舌をすべらせる。
「ぁ……っ」
捕らわれたエルフがびくりと身体を跳ね上げらせた。
「ふふー。可愛いでしょう? いつもはあんなに偉そうにしておいて、こんなにいい声をだしてくれるんです。ちょこっと時間の流れは変えましたけど、まだ五日もたっていないのに……。ふふ、ルクレティアさんよりは素直ですね」
黒スラ子が身体をまさぐる度に、ツェツィーリャは過敏な反応をしめしてそれに応えている。
ひどく淫猥な光景に目をそらしかけるのをこらえて、奥歯をかみしめる。その奥から絞りだすように、声をうならせた。
「スラ子、やめろ」
「どうしてですか?」
黒スラ子は不思議そうに、
「こんなに悦んでいるのに。マスター、もっと近づいて顔を見てあげてください。ほら、だらしない表情でしょう? 視覚を閉じてあげただけでこうなんですよ。誰の目にも見えないからって、安心して蕩けていられるんです」
「お前がそうさせてるんだろう」
「はい。でもマスター、私はただ彼女を素直にしてあげているだけです」
傲慢そのものの物言いに、頭がかっとなった。
「なんでそんなことがわかる!」
「私だから、わかるんです」
黒スラ子はいった。おだやかに。
「聞こえるんです。その人の思考、生い立ち。“なにもかも”。……エルフのはずれ者。孤高を気取って、里を出て。自分は連中と違う、あいつらを見返してやるんだ――そう息巻いて、変わり者の精霊だけを友にして。ふふ、そんなことを思うこと自体、自分が寂しがりやだからだってわからなかったんですね。いいえ、本当はわかってるんです。でも、そんなことを認めたら今までの自分を否定してしまうから……」
慈しむように慎ましい胸元をなぞりながら、
「だからこそ、奥底ではずっと待ってるんです。そんな自分を無理やりに変えてくれるなにかを。強引に自分を引き入れてくれる誰かを。ふふー。乙女ですね」
いい子いい子をするように頭をなでてみせる。それだけの行為も耐えがたい刺激であるように、ツェツィーリャは目をみひらいて背筋をのけぞらせた。
「ホント、可愛いです。ちょっと前にドラちゃんの件で、私が嬲ってあげたことがあったじゃないですか。彼女、その時にとっても喜んだんです。圧倒的な力で支配されるのが嬉しかったんですよ。そうすれば、もう強がらないですむから」
だから、とスラ子がこちらをみた。
周囲の闇よりなお昏い眼差しでのぞきこんで、
「マスターが支配してあげてください。組み伏せてあげてください。そうすることが、彼女にとっての幸せなんです」
ツェツィーリャの姿勢がかわる。
黒スラ子に誘導されて、仰向けになって足をひらく。迎え入れるようにこちらを見上げるツェツィーリャのうつろな眼差しは、媚びるような上目。
俺は黙ってそちらに近寄って。
ツェツィーリャの細い肩をつかむと、おもいっきりひっぱりあげた。
からみつく黒スラ子をひっぺがえして、
「おい、ツェツィーリャ。……おい、大丈夫か」
頬を叩きながら呼びかけるが、もうろうとしたまま応えない。仕方なく、近くに横たえさせてから視線をもどすと、
「どうしてですか、マスター」
黒スラ子が不満そうに頬をふくらませている。その表情は、オモチャをとりあげられた子どもそのものだった。
「……あのな、スラ子」
俺はため息をついて、
「性癖なんて誰にだってある。支配されたい、怠けたいだなんて誰だって思ったりするもんだろう」
だからって、本当に支配されたいと思ってるわけじゃない。
支配されたい、でもされたくない。怠けたいけど、なにかやりたい。自分を変えてほしいけど、変えてほしくない。
生き物っていうのは、そういうめんどくさい矛盾した感情を内包しているものだ。
どっちが正解でもない。
本音と建て前なんかじゃなくて、どっちも本音なんだ。
人の内心に絶対なんてあるわけない。そんなもの、育った環境や境遇、出会った人々やその時々でいくらでも変わる。変わるべきだ。
普通はそうだ。
だから――そういうのを無視して思い込めるというのは、きっと強いんだろう。
信念で人を殺せる強さ。それが相手にとっての幸福だと他人を支配できる強さ。
それは強さだ。
たとえそれがただの鈍感がなさるものだとしたって、強いことには変わりはない。
そして、俺は弱っちい人間だ。
信念で人を殺すどころか、誰かを奴隷のようにあつかうのだって尻込みしてしまうくらい、ヘタれな男だ。
それが俺だ。
自分の器がその程度だってわかってるのに、今さらそれを繰り返してどうするってんだ。
「もしツェツィーリャがそういう性癖なら。それに合う相手をみつけてよろしくやればいい。俺のしったことか。俺は駄目だ。想像するだけならすげえ興奮するけどな。どうも自分がやるってなると――」
いいかけた途中で、自分がいったいなにをいいかけているんだと我にかえって、口をつぐむ。
「マスター?」
続きをききたそうにこちらをみる黒スラ子に俺は渋面になって、
「……萎えるんだ」
きょとんと、黒スラ子が目をまばたかせた。
くすりと微笑む。
「……そうでしたね。マスターは、責められるほうがイイんですもんね」
「その言い方には誤解と語弊があるぞ」
ひかえめな反論に、黒スラ子はくすくすと肩をゆらせて、
「わかりました。――じゃあ、こういう趣向はどうですか?」
周囲からいくつもの不定形がもりあがる。
すぐに人型をとる。それらはすべて、俺の知る相手だった。
ルクレティアにヴァルトルーテ。カーラにスケル、シィとドラ子や、タイリン。ルヴェにエリアルにリーザまで。アラーネ先生にエキドナなんていう、俺の記憶にある限りの無数の相手が、身につけた服装をあらわに現れていた。
それぞれが魅惑的な微笑をたたえて近づいてくる。
「マスターさえ望めば、より取り見取りです。豊満なの、慎ましいの。若い実、熟した実。手慣れた相手、ぎこちない相手。全員がマスターにご奉仕しますよ。ここにいる全員、いいえ、世界中がマスターのものなんですから」
女たちが手をのばす。
エルフの姉妹が両側から耳に息をふきかける。
豪奢な金髪の令嬢が胸を寄せ上げて、短髪の少女が日焼けの境界線をみせながら押しつけてくる。
真っ白い魔物少女が足元にかしずいて太ももをなめあげ、妖精とその肩に座ったちんまい生き物が、そろって指先を口にふくんで舌先でころがせる。
全身をくまなく溶かされるような快楽に、俺はそれに抗おうとせず、女たちの向こうでこちらを見守るように微笑んでいる相手にといかけた。
「――スラ子。お前は、なにがしたいんだ」
ぴたりと女たちの動きがとまった。
「……マスター?」
「お前はいったな。自分以外の女なんていらないって。なら、なんでこんなものを俺にあてがう。お前はいったいなにがしたい?」
「なにがしたいかなんて」
黒スラ子はやんわりと微笑んだ。
「私は、マスターに尽くしたいだけです。オモチャが何人いようと気にしません。マスターのためになら、いくらでも捕まえてきます」
そうだ、とぽんと手をうって、
「もっとたくさんのオモチャを捕まえにいきましょう。異国にはいろんなオモチャがいるはずです。種族、髪色、目肌の色。感じ方や壊れ方だってきっと違うはずです。世界中をまわって集めましょう。もちろん、それと一緒に、マスターの大好きなスライムたちも集めるんです。きっと楽しいですよ。ああ、楽しみ――」
自分の想像にうっとりと頬をゆるませる。
「マスターを愉しませるオモチャはたくさんあるべきです。世界はマスターのオモチャ箱なんですから。世界中のオモチャに飽きたら、別の世界にでも渡ってみましょうか? きっとそこにも、面白いたくさんのオモチャがあるはずですよ」
別の世界?
「そうです。マスター、世界なんていくらでもあるんですよ。いくらでも作れますし、壊せます。私にならできます。マスターの望みは私が叶えます。だから――オモチャじゃない他の誰かなんて、いりません」
つまり、それが目の前にならぶカーラたちの意味というわけだ。
「……そうやって、俺を支配したいのか」
「支配?」
びっくりしたように黒スラ子は目をみひらいて、すぐに表情を蕩けさせた。
「違います、マスター。私は、マスターに支配されたいんです」
胸に手をあてて、
「私の全てはマスターのものです。この身体も、思考も、過去も未来も可能性もなにもかも。全てをマスターに捧げて生きるんです。マスターが誰を、なにを愛でようがかまいません。死ねといわれれば死にます。マスターの一番に私がいればいいんです。それだけが私の幸せなんですから」
わずかな迷いもない口調で宣言した。
その言葉に俺は既視感をおぼえて、すぐに思い出した。同時に理解する。
たしかに俺の知るスラ子と似た言動をとる目の前の相手に対して、どうして俺だけは違和感があったのか。
「なあ、お前はストロフライのことを知ってたな。なら、ギーツにいく前によった開拓村のこともおぼえてるか」
ぴくりと、黒スラ子が眉をふるわせた。
「……ルヴェさんと、あのマナの子と会った村ですね。もちろん知っています。マスター、私にわからないことなんて、」
「なら。そこで俺とスラ子がかわした会話のことも、知ってるな」
答えがかえってくるのに少し間があった。
「はい。マスター」
でも、とすぐに続ける。
「そんなの関係ありません。マスターと姉さんがなにを話そうが、私には関係ありません。私は姉さんとは違います。私は迷いません――迷わないって、決めたんです」
……そういうことか。
目の前にいる、スラ子と似た、でもスラ子とは違うモノ。
その正体にようやく思い至って、俺は苦い気分で息をはきだした。
自分の察しの悪さにうんざりしながら、口をひらいた。
「……俺が死ねといったら、お前は死ぬのか?」
「はい、マスター」
「俺を殺せといったら、殺してくれるのか」
「いいえ、マスター」
黒スラ子は即答した。
「私がマスターに危害をくわえるなんてありえません。たとえマスターの命令でも、そんなことをするくらいなら死にます。死んで、マスターの心のなかで生き続けます」
にっこりと微笑む。
「私はかまいません。そうすれば、マスターと一緒にいられるんですから」
その表情も言葉にも、悪意は一かけらも含まれていなかった。
邪気もない。
先生がいったとおり、スラ子は純粋だ。
もしスラ子が狂っているというのなら――それは、つくった俺が狂っているだけだ。
――だからこそ。
「……スラ子。俺は、お前を支配なんかしない」
俺はまっすぐに相手をみて、
「この世界もいらない。世界も、カーラたちも、俺やお前のオモチャなんかじゃない。元の世界に戻してくれ」
黒スラ子は俺の言葉を黙ってきいてから、
「――どうして、私じゃあダメなんですか」
ぽつりとつぶやいた。
「私ならなんでもできます。能力があっても性格がダメだっていうなら、変えます。カーラさんみたいに健気になります。ルクレティアさんみたいに聡明に、シィやドラちゃんみたいに可愛らしくなってみせます。スケルさんみたいに親しみやすく、ルヴェさんみたいに破天荒に。マスターが乱暴にされるのがいいなら、ツェツィーリャさんみたいにだって!」
とりあえず最後のだけは絶対に間違ってると心から思ったが、
「私なら、なんにでもなれるんです! 私、なんにでもしか、なれないんです……」
すがるような表情で、黒スラ子はがっくりと肩をおとした。
「教えてください。マスター。どうすればいいんですか? ……どうすれば、」
――私を、愛してもらえますか。
痛々しいくらい目に見えて消沈するスラ子に、俺が声をかけようとする前に、
「……それとも。マスターが私を認めてくれないのは、それのせいですか?」
黒スラ子が顔をあげる。
こちらの胸元を憎々しげに睨みつけて、
「黄金竜ストロフライ。あの人の気まぐれが、マスターを縛っているんですか? そんなちっぽけな鱗のせいで。だったら、私が――!」
「……アホ。あんなお気楽竜は関係ない」
マナと憎悪をほとばしらせる黒スラ子に、俺は肩をすくめてみせた。
「この鱗は、俺を舞台にたたせてくれてるだけだ。それ以外にはなんの効果もないってお前がいっただろ。あの竜はただ楽しんでるんだよ。ちっぽけな人間が右往左往してるのを高いところから眺めてるのさ。竜なんてそんなもんだ。それでいいんだ。俺はちゃんと、俺の意思でここにいる」
「だったら!」
「俺はお前を愛してる。世界中のなにより大事だ。でも、俺がお前をどう思っているかも、今のお前には関係ないんだろう。お前にとっての敵はカーラたちなんかじゃない。だからお前は、自分のなかから不安を捨てたんだろう?」
黒スラ子の全身がゆらいだ。
俺はその肩をつかんで、
「不安でいいんだ。間違ったっていいんだ。ブレたっていいじゃないか。絶対に正しいことなんてあるもんか。お前は、なんにでもだってなれるんだから」
「やめてください!」
黒スラ子が悲鳴をあげた。
「そんなことを言わないでください。なんにでもなれるなんて、そんな――」
耳をふさぎ、顔をそむけようとする黒スラ子の異常にきづいて、俺はあわてて黒スラ子の顔をのぞきこんだ。
息をのむ。
そこにあったのは――無貌の顔だった。
目もない。鼻もない。口もない。
表情どころか、顔そのものが消え失せた――まっさらな面。
「みないで、ください……」
顔をなくした黒スラ子がつぶやく。さめざめと泣くように。
「結局――私は、なんでもないんです。形だって借り物で。なんでもできるけど、なんにもできない。前、竜の人に言われたとおり、今のマスターにとってはそばにいる意味もないんです。私なんかがいなくたって、マスターにはもうたくさんの仲間がいるんですから」
黒スラ子の肩がどろりと崩れおちた。
形をたもっていた不定形が、その輪郭をなくしていく。――自らが選んだ死にむかうように。
氷のように溶けて消えようとする相手の全身をつかんで、俺は強引にひきよせた。
「スラ子、こっちをみろ」
「イヤです……」
「いいからみろ!」
黒スラ子の顔をふりむかせる。
そこには目がないから、涙もながれてはいない。
感情をあらわさない顔にむかって、
「俺の目をみてみろ。そこにうつるお前をみろ。――そこにはなにもないか? 俺にはちゃんと見えてるぞ。お前の目が。顔が」
無貌の不定形に対して、ほらをふいた。
「お前はスラ子だ。たとえお前が自分をみうしなったって、どれだけ迷ったって、俺がそれを教えてやる。お前はスラ子だ」
「……マスター」
「俺はお前を支配しないし、お前にも支配されない。俺とお前は一緒に生きるんだ。前にいったろう。俺とお前は見つめあうんじゃなくて、一緒の方向をみるんだって。それで不安になったら、ちらっと隣を横目で盗み見てみろ。そこにはいつだってアホ面があるはずだ。俺がいることが、お前がいることの証明だ。お前が生きてる意味なんざ俺がいくらでもつくってやる」
「だったら」
震える声で、黒スラ子がいった。
「私も――一緒に、死なせてください。マスターがいない世界なんて、生きてる意味がありません……」
「それは駄目だ」
「どうしてですかっ」
「俺が生きててほしいからだ」
「そんなの」
黒スラ子の顔がくしゃりとゆがむ。
その表情はいつのまにか、いつものように目鼻をとりもどしている。アカデミー時代の知り合いに似た、でもまるで似ていない、たった一人の顔立ち。
「そんなの……勝手です。ずるいです。マスターは、卑怯小物です」
「ああ、そうだ。そんなのは、ただの俺の身勝手だ。だから、俺の勝手な希望にお前がしたがう必要なんてない」
俺はうなずいた。
「したがえないなら、それでいいんだ。お前はお前の好きにしていいんだ。お前は俺から生まれた。けど、俺なんかにこだわる必要はない」
「そんなの――」
「俺の意見にしたがいたくないなら、反対していいんだ。不満があるなら、無理に押し殺さないでそれをいえばいいんだ。……妹なんてつくらずに」
黒スラ子の――いや、スラ子の顔がこわばった。
その肌色は、いつのまにか黒くなくなっている。
黒いスラ子をつくったのは誰か。
アカデミーにそれをつくったのはいない。そして、俺自身にももちろんそんなおぼえはない。
なら、残るのは一人しかいない。
――スラ子は、なんでもできる。
その気になれば世界だって丸ごとつくってしまうくらいなんだから、自分自身をつくりだすなんて造作もないだろう。
いや、厳密にいえば、それはスラ子がつくったというより、俺がつくらせたようなものだ。
俺のいいつけをまもりたいという意思と、まもりたくないという意思。
本音と建て前。理性と感情、意識と無意識。なんでもいい。
そうした相反した情動が、恐らくはスラ子の意図しないところでもう一人の自分、黒スラ子をつくりだした。
自分が押し殺してきた、自分自身の理想を体現する存在として。
俺が、黒スラ子をみてスラ子じゃないと思ったのも当然だ。
なによりスラ子本人が、俺にスラ子ではないと思ってほしかったのだろうから。
スラ子は俺にとっていい子でなければならない。だから、自分にかわって自分の望みを叶えてくれる誰かが、スラ子には必要だったのだ。
「マスター。私、わたし、は――」
スラ子の瞳には涙がたまっている。
とっておきの嘘をあばかれてしまった子どもの表情に、俺はゆっくりとうなずいて、
「……お前は間違ってない。だから、俺はお前を否定するんだ。俺だって間違ってないと思うからな」
スラ子は鼻のあたまをくしゃりと歪めて。
泣きそうな声でささやいた。
「――それから、どうなるんですか。どっちも正しいって言うなら、どうすればいいんですか……?」
「決まってる」
俺は胸をはって、
「けんかだ。ただし口げんかでな」