十四話 教授による、スライム核の魔法生体に対する考察
蜘蛛糸のようなものに包まれたスラ子と、その前にたつ見知った相手。
ここは俺の知ってるアカデミーじゃないってことはもうわかってる。だからこそ、俺は目の前の状況に戸惑った。
どうして先生がここに? 息をととのえながら考える。
……可能性はふたつだ。
ひとつは、目の前にいる先生が黒スラ子につくられた、あるいはその精神操作を受けている場合。
その場合、スラ子は見た目通りに黒スラ子に捕らえられていて、先生はそれを監視か、研究対象としてみるためにここにいるということになる。
もうひとつは、先生が俺の知っている先生という場合。
そのときは、ツェツィーリャとはぐれた先生が、なんとかここまでやってきたということになるんだろうが、じゃあこの繭糸はいったい誰が?
――いや。
もうひとつ残された可能性を頭に思い浮かべながら、俺はゆっくりと口をひらいた。
「先生」
「んー? なに、マギくん」
「ルヴェは。来てませんか」
この黒スラ子のつくった世界で、俺がどういう立場にいるのかはわからない。
だけど、先生が俺のことを知っているのなら、きっとその下で助手みたいなことをやっているんじゃないだろうか。
そして、そこには恐らくルヴェだっているはず。
ルヴェが俺と同じようにアカデミーに在籍しているというのは、さっきカーラから聞かされたばかりだ。
黒スラ子が実際のアカデミーと空想上の世界を整合させようとするなら。その世界の先生が、ルヴェのことを知らないはずがない。
「ルヴェくんなら、ちょっとお使いをたのんだとこだよ」
「……そう、ですか」
慎重に息をはく。
「なにか用事でもあった?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
にやりと先生が人のわるい笑みをうかべて、
「なんだ、デートでも誘うのかと思ったのに」
「いやいや」
「君もいい加減に態度をきめたほうがいいんじゃないの。カーラくんにルヴェくん。どっちも入校してからの付き合いだってのはわかるけどね。ただでさえ君のまわりには異性が多いんだ、せめて誰が本命かくらいの意思表示は必要だろう」
どうやら、このアカデミーでの俺はずいぶん贅沢な立ち位置らしい。
当たり前か。
この世界は黒スラ子がつくったんだから、なにもかもが俺に都合よく出来ているんだろう。
スケルがいったように、ここのアカデミーでの日々は、とても楽しいんだろうと思った。
たくさんの仲間にかこまれて。
人間だ、無能だって揶揄されることもなく、研究室に閉じこもったりもしない。
学生時代、何度も夢見たような学園生活。
シィがいる、ドラ子がいる。カーラがいる。スケルがいる。ルヴェがいる。多分ルクレティアもいて、マーメイドのエリアルや、蜥蜴人族のリーザだっているのかもしれない。
もちろん、スラ子も俺のそばで微笑んでくれている。
ただし――そのスラ子はきっと、黒いのだろう。
目の前で繭になって包まれる薄青いスラ子をみつめてから、それを興味深そうに眺める先生に視線をうつして、
「先生」
「ん?」
「ルヴェ、今日は赤ちゃんをつれてましたか」
「――いや。一人だったよ」
「そうですか」
沈黙。
動いたのは、互いにほとんど同時だった。
先生につかみかかろうとした俺の手は一歩とどかず、逆に先生の吐きだした糸にからみとられてしまう。
「くそっ……!」
あわてて糸から逃れようとするが、間に合わない。
粘着質の蜘蛛糸が全身にからまり、あれよあれよという間に俺は身動きひとつとれなくなってしまった。
がんじがらめにされ、ラッピングの仕上げとばかりに手荒く吹き飛ばされる。
飛ばされた先にはられた蜘蛛の巣が衝撃を吸収してくれたが、頭だけがくんがくん揺さぶられて吐きそうだった。
「困ったな」
視界のなか、本当に困ったように顔をしかめた先生がいった。
「今のは引っかけ? それともルヴェくん、本当に子どもができたの? マギくん、君が父親ってわけじゃないよね。それならそれでおめでとうって言わせてもらうけどさ」
「違います。……ルヴェに子どもがいるのは、本当ですけど」
このアカデミーが現実との整合性をとってつくられているなら、このあいだ、ばったり再会したルヴェの連れた子どもの存在だってそこには含まれるはず。
もちろん、だからといって必ずあの赤子が存在するって決まったわけじゃない。
あの赤ん坊は普通じゃない、とスラ子はいった。
水も食事もとらず、そばにいる相手の年齢を吸いとるように生きる――マナという、この世界を構成する大元の名前をつけられた、不思議な赤子。
あるいはあれは、今のスラ子や黒スラ子の力さえ及ばない生き物かもしれない。
じゃあ、スラ子がつくったこの世界のなかで、果たしてスラ子はあの赤ん坊の偽者をつくることができるのか?
そんな事情、もちろん先生には知るはずもないことだ。
ルヴェが子どもを連れていることだって知らなくたっておかしくないし、だからこそ、それをきいたときの反応でわかることがある。
目の前にいる先生が黒スラ子の影響下にあれば――あの赤子がこの世界に存在するにせよ、いないにせよ、それを当然のものとして受け入れているはず。
逆に、もし先生が俺の知っている先生なら、子どもなんて初耳だって素直に驚いてみせるだけだろう。
じゃあ、それ以外の場合。
知らなかったことを隠して演技をしようとしたり、不自然な反応をした場合。
……それが、残るもうひとつの可能性だ。
俺の知っている先生だけど、そうではないように装った。そして、そんなことをする理由なんてひとつしか思い浮かばない。
「そっか。けっこう自然に返せたと思ったんだけどな。知ったかぶりなんてしなきゃよかったか……でも、そうしたら君がこのスラ子ちゃんを助け出そうとするのを手伝わないわけにはいかなくなるし。さすがにそれは怒られちゃうだろうしね」
蜘蛛人族の女性は、ほがらかに笑って小首をかしげてみせた。
「ね、いったいいつから気づいてたんだい。私が君たちの敵側に通じてるって、どうしてわかったの?」
あっさりと告げる。
「教えてよ。そういうのって、すごく気になるじゃないか。これでも頑張って演技してたつもりだったんだよ」
先生の表情にはまるで悪びれた様子はない。
俺は糸から逃れようと暴れるのをあきらめて、おおきく息をはきだした。
「……先生。俺のだした手紙を読んでないっていいましたよね」
種というほどでもない種明かしをしてみせる。
「うん。言ったね」
「でも、先生いったじゃないですか。竜のことは俺ならよく知ってるはずだろうって。俺の住んでる近くに竜がいて、それと俺が顔見知りだなんて、どうして先生が知ってるんです」
「あー……」
先生が顔をしかめた。
「そんな最初のほうでポカやっちゃってたのか。なんだ、つまらない」
出来の悪い舞台にケチをつけるようにいう。
たしかに、俺からだした手紙には、自分の近況報告とともにストロフライのことについても触れていた。
先生が手紙を読んでもいないのにそれを知っているなら、手紙以外からそのことをきかされたからだろう。
――たとえばそれは、エキドナから。
ふむ、と顎に手をあてた先生が、
「でもさ。それって私が手紙を読んだことを忘れてただけかもしれないよね。それをその時すぐに確認しなかったのは、あとから気づいたから? それとも」
先生が面白そうに目をほそめた。
「はじめから、それなりに疑ってたってことかな。そうだよね」
「……先生だけじゃ、ありませんよ」
俺はこたえた。
「ここに戻ってくるとき、アカデミーにいるあいだは誰も信用しないって決めてました。それだけです」
あのエキドナが誰と通じているかなんてわからない。
なら、接する全員を疑ってかかるべきだ。たとえ、それが昔どれだけお世話になった恩人だって。
先生が目をまるめた。
しばらくしてから、くすりと破顔する。
「慣れない演技をしてたのはお互い様だったわけだ。疑念があっても、それを隠してこっちの腹を探ろうとしてたのか。ホント、大人になったね」
先生の言い方は皮肉っぽくはなかったけれど、胸にちくりとしたものをおぼえた。
「ってことは、私の家にまたやってきたのも、他に逃げ込む先がなかったからだけじゃなかったわけだ。もちろん、私が好奇心に流されるって読みはあったんだろうけど」
「……あの時点で、エキドナや黒スラ子に繋がりそうなのは先生くらいしか思いつきませんでしたから」
すくなくとも、先生のスラ子への関心には嘘がなかった。そう思えた。
なら、たとえ先生がエキドナに通じていたって、自分の好奇心のために俺たちへの協力を了承してくれる可能性はあった。
研究者っていうのはそういうものだ。
エキドナの予期しない先生の行動がなにか反撃の糸口になるなら――それを利用しない手はない。
「アカデミーの体制なんてどうでもいい。あれは先生の本心でしょう。だったら、先生がエキドナのためだけになんか動くはずがない。エキドナに恩を着せながら、同時に自分の欲求も満たそうとするはずです」
「そうだね。上手いことやったつもりだけど、逆に上手いこと利用されちゃってたか。なんだか頼もしくなって、嬉しいけどちょっと複雑だな。こういうのも親心って言うのかしら」
首をひねった先生が、ふうっと息をはいた。
「悔しいっていったほうが正しいのかな。私には、これを作れなかったわけなんだから」
視線が、繭のなかのスラ子にむけられる。
「……スライム核の魔法生体。最初に話を聞いたときは、本当にそんなものが実在するなんて信じられなかったけど。壊れたスケルトンをとりこんで別の生命をつくりだすなんて、冗談だとしか思えなかったしね」
今のスケルが生まれたその場に、あのエキドナは居合わせていた。
その後、スラ子に興味をもったエキドナが、アカデミーに戻って先生のもとをたずねるのは不思議でもなんでもない。スラ子の謎をとこうとすれば、まずは俺がアカデミーでやっていた研究や、かかわった人物をさぐってみるだろう。
エキドナとアラーネ先生はそこで接触した。
話に興味をもった先生は、すぐにスライム核に当たりをつけたのかもしれない。
そして、その製造にとりかかって――上手くいかなかった。
先生が黒スラ子の製造者じゃないだろうってことは、俺にも予想ができていた。もしそうなら、俺がスラ子の話をしたときにあんなに食いついてくるはずがない。
問題は。
じゃあ、いったいあの黒スラ子をつくったのは誰だ?
俺が先生のことを半ば疑いながら、わざわざ同行を求めたのはそのためだ。
黒スラ子をつくったのは先生でなくとも、誰がつくったのかを知っている可能性はある。
そして、先生が黒スラ子やスライム核の秘密を知らない以上、きっと先生は俺を利用することでその謎を知ろうとするだろう。
知りたがらなければ気がすまない、研究者としてのエゴ。プライド。
それを利用しようとしていたのだから、俺にだって先生を非難する資格なんかありはしない。
「――教えてください。先生。あの黒スラ子は、いったい誰がつくったんですか」
「作った?」
先生は顔を驚かせて振り返った。
凝視するようにこちらを見つめて、
「なんだ、マギくん。君、まだ気づいてなかったのかい」
「どういうことですか」
先生はおおきく唇をねじまげた。
「“誰か”なんていないよ」
……いない?
「そうとも。誰もあの黒スラ子ちゃんなんて作っていない。スラ子ちゃんを作ったのはたった一人、君だけだ」
「そんな馬鹿な。だったら、あの黒スラ子はいったいなんなんですか」
「だから言ってるじゃない。作ったのは君だけだって」
先生は繰り返した。
相手のいいたいことを察した俺は、目の前の相手をにらみつけて、
「……俺には、そんな覚えはありません」
言葉をしぼりだした。
「なら、他に誰がいるんだい? いったいどこの誰が、どういう理由で君のつくった魔法生体とおなじ外見、おなじ名前をつけなきゃいけないのさ。それに、黒スラ子ちゃんからは聞かなかったの? マスターは君だってね。私は本人からそう聞いたけど」
「それは、」
たしかに、黒スラ子はそういっていたけれど。
だからって、自分に身に覚えがないのも間違いなかった。
「別に君が自分でつくったかどうかは関係ないさ。あの黒スラ子ちゃんが存在するという事象の根本に君という存在があるのは間違いない。だって、あの黒スラ子ちゃんは、“君がこのアカデミーにやってくるのと同時”に現れたんだからね」
「……なんですって?」
どういうことだ。
なら、エキドナが前々から計画していただろう企みと、あの黒スラ子は関係ないってことか?
黒スラ子という破格の切り札を手に入れたからこそ、エキドナは俺がやってきた機をはかって、今回のクーデターに踏み切ったんじゃないのか。
「間違ってはないけど、正確でもないな。ルクレティアだった? あの勘のいい子が見抜いていた通りだよ。今回の企みは、とても事前の計画通りに進んでなんかいないってことさ」
「……エキドナは、目の前にあらわれた黒スラ子に合わせて、自分の計画を上乗せしただけってことですか」
「元々、彼女の計画には竜やそれに比するだけの存在が必須だ」
先生はいった。
「それに君のスラ子ちゃんのような存在を使いたいと思ったが、つくるのは無理だった。なら、君を口説くかどうにかして、スラ子ちゃんを利用するしかない――なんて悪だくみをして君のことを待ち構えていたら、目の前にいきなりあの黒いスラ子ちゃんが現れた。そりゃ誰だって驚くし、慌てもする。ちょっとくらい浮かれて、計画を変更しようってなっても不思議じゃないだろう? 黒スラ子ちゃんの力は圧倒的だ。竜にだって負けないくらい、もう無茶苦茶にね。あの存在の前じゃあ、多少、計画の完成度を練りまわしたところでなんの意味もない。なにせ、世界のひとつだって軽々と創造してしまうくらいなんだから」
肩をすくめる。
「ま、そのあたりの話はどうでもいいさ。私にとって興味があるのは、そんなことじゃない。わかるだろう。私とおなじ研究者である君にならさ。マギくん」
目を細めた先生がこちらをみすえた。
流し目の奥に、ちらりと濃いエゴの炎が渦を巻いているのがみえた。
「……スラ子のことですか」
「そう。スライム核の魔法生体。精霊をとりこんだ経緯や、その無茶を安定させるのに妖精族の助けが必要だってことはわかった。けど、君は肝心かなめのところだけはいまだに隠したままだ。スライム核という根本についてはね」
「俺が、それをいうと思いますか?」
「まさか」
先生はにこりと微笑んだ。
「君がそれを私に話さなかったのは、私が敵方に通じているかもしれないって疑惑があったからかもしれない。でも、たとえそう思っていなかったとしても、きっと君は口外なんてしなかっただろう?」
俺はあえて答えなかったが、先生はそれを気にもせず、
「それは研究者の姿勢としては当たり前のことだ。自分の成果を表にだすなら、適切な時と場所というものがある。剽窃なんていくらでもある。力こそが常に最終解決手法である我々のあいだではなおのこと」
だけど、と首をかしげる。
「君が頑としてそれを口にしないのは、本当にそれだけかな?」
「……なにが。いいたいんです」
「素直に疑問なのさ。マギくん。君がそれを公表しようとしないのは、不当に評価されないことを恐れているから? もしかしたら竜族さえ凌駕するほどの危険性を秘めた、自分の研究成果が与える影響を恐れているから? 違うでしょう? 私には、君がもっと違うものを恐れているように思えるよ」
覗き込むような眼差しで、
「黒スラ子ちゃんと会って、君とスラ子ちゃんについて話してみて、ある仮説をたてたんだよ。スライム核についてね。不定形性状という、本来であれば魔法生体の核としては成りえないモノを核として成り立たせている要素とはなにか」
他人の隠した秘密を探り当てた会心の表情で笑う。
「――それは多分、“君への想い”だ。そうだろう?」
沈黙。
「あははははははははは!」
先生が爆笑した。
「あはは! ははっ! こいつは傑作だ! 想いが力になり、奇跡を生む。いかにも人間やエルフが好みそうな文言だが、これこそまさに奇跡じゃないか!」
ほとんど笑いころげるくらいの勢いで、涙をながしながらこちらをみて、
「スライムというのはもっともシンプルなマナの物質化だ。大気中に無数に分布するマナの一粒一粒と、その原形質ともいえるスライムとを縒り合わせて、思いを吹き込む。想いが想いに繋がり、連動して循環して確立する回路となるまで。砂粒で家を建てるようなものだね。そんな途方もない作業をたった五年とはいえ――いや、年数の問題じゃないか。いったいどれくらいの執念で為しとげたのか。才能でもない。努力でもない。うん、まさに執念と言うしかない」
首をかしげてみせる。
「狂じるような暗闇で、君がそこに込めた思いはいったいなんだい? 寂しい? 側にいて欲しい? その願いの結晶がスラ子ちゃんなら、まさに彼女は君の望み通りの存在というわけだ。君だけを愛し、君だけに尽くす。君を護り、君を覆い尽くす――息を詰める未熟な母性、グレイトマザーか。スラ子ちゃんも、黒スラ子ちゃんも変わらない。彼女たちにとっては、君を想うことこそが生きることそのものなんだからね」
「……俺は、」
「そう。君は、だからスライム核なんてものを誇る気になれないんだ。スラ子ちゃんが、自分の浅ましさの作り出した存在だってわかっているから。彼女は歪んでいるんじゃない。彼女はただ純粋なだけだ。歪んでいたのは、それを作り出した方――マギくん、君なんだからね」
俺は答えなかった。
沈黙の返答に、先生は満足そうに頬をゆるめて、
「君の抱える歪みは、もう一つある。君を想わなければ生きていけないスラ子ちゃんに、君は自分以外を想って生きる術を見つけてほしいと願っている。矛盾だよね。どちらかといえば、こっちの方がよほど酷い話だろうと私は思うよ」
憐れむように繭のなかのスラ子をみて、
「君のために生きるな、なんていうのは、彼女にとっては自分の生まれた意味を否定されるようなものだ。自分の生きる意味を奪われるようなものだよ。君が自分の過去を恥じるのも、過去の行いを否定したがるのもいい。だけど、だからってスラ子ちゃんそのものまで否定しなくてもいいでしょう?」
いいじゃない、と先生はささやいた。
「認めてしまえば。君のやったことも、スラ子ちゃんのことも。彼女は現実に存在して、強大無比な力をもっている。それを生み出したのは君だ。マギくん、君はもっとそれを誇っていいんだよ。はじめの動機がなんにせよ、精霊や妖精の介入があったにせよ、今の彼女が在るのは間違いなく君の功績なんだから。だから、君は安心して、自分のつくりだした傑作に対して胸をはるべきなんだ。そうすれば、君は世界の全てを手に入れられるんだから」
先生の瞳がぎらりと光った。
「そう、世界の全て。彼女の力があれば、この世界を構築するマナや精霊、その他のどんな謎だって思いのままだ。君はあの竜族たちのように、世界の原初とその深淵にさえ手が届く立場にいるんだよ? 全ての疑問。全ての回答。全ての知識。一生の時間を費やしてもまだ足りない、ああ、その一生さえ彼女に望めば無限に伸ばしてくれるのかもしれないっていうのに。――研究者としては垂涎どころじゃない。マギくん。私は君が羨ましくてたまらないよ。はっきり言って、憎らしいくらいだ」
恩師である相手から、対等な目線ではじめてむけられた嫉妬の眼差し。
その悪意の感情にあてられて身体が石になる。
「……研究者を志していたくせに、自分のエゴも貫けない。やっぱり君がアカデミーに残らなかったのは、正しかったんだろうね」
失望したように息をはく恩師にむかって、
「――俺は、スラ子が生まれたことを否定なんかしません」
眉をひそめる相手につづける。
「洞窟にひきこもってなにもしてこなかった昔の自分なんて、死ぬほど大嫌いです。でも、そんな俺がスラ子をつくってくれたんだから、それだけは感謝してます。目の前にいたら、感謝のキスのひとつだってしてやりたいくらいだ。俺が最低のクズ野郎ってことと、スラ子の存在を否定することはまったくの別でしょう。……でも。だから、俺は、あいつに委ねるわけにはいかない。俺は俺で、あいつはあいつなんだから。俺の情けない過去についてまで、スラ子に世話してもらうわけにはいかないんです」
「……ごめん。なんの話?」
「ただの確認です」
困惑した様子をみせる相手を静かにみすえて、
「黒スラ子をつくったヤツはいない。先生、さっきそういいましたよね」
「だから――」
「いえ、それだけで十分です」
先生の言葉をさえぎった。
「あとの話はまた今度にしましょう。これがすんだあと、もろもろの謝罪もふくめて、ゆっくりと」
おおきく息をすいこんで。
吠える。
「――シルフィリア!」
風が吹いた。
黒スラ子から逃走する間際、背中を蹴りつけながらツェツィーリャが預けてくれた風の精霊が、俺の身体をがんじがらめに固める蜘蛛糸のかたまりを一瞬で切り裂いた。
駆けだす。
突然の出来事に、先生は驚いて行動にでられていない。
先生は研究者だ。
戦闘なんて専門外でほとんど外にでることすら稀なくらいだ。いきなり飛びかかられるなんて突然の出来事に対応できるわけがない。
それでも、危機とさっした先生は再び俺の自由を奪おうと、自身の身体から蜘蛛糸を吐きだしてきたけれど。それも、あらかじめ予想していれば回避は可能だった。
俺は転がるように飛んでくる蜘蛛糸をよけ、その勢いのまま先生へと肉薄して。
腰袋から取り出した小袋を押しつけるように、叫んだ。
「ファイア!」
着火する寸前、自分の未熟な腕前で可能な魔法障壁を二面、展開する。
一つは自分と小袋のあいだに、もう一つは先生と小袋とのあいだに。
小袋につめられた妖精の鱗粉が燃焼反応をおこす。
決して小さくない爆発は、俺がはった魔法障壁を一瞬で砕いて、軽減できなかった火炎と衝撃が俺と先生の両方に襲いかかった。
熱と痛み。
いくら慣れても慣れない刺激に、目に水分がたまる。
だが、ほんの少しでも障壁で軽減した分、死ぬことはないはず――痛みに意識が飛びそうになりながら、舌をかみきったりしないように悲鳴をおさえこんで、すぐにおとずれるだろう床を転げまわる衝撃をまちかまえていると、
「なんかサー。いっつも自爆だよネ。それしか芸ないワケー?」
呆れたような声とともに、ふわりと風にうけとめられる。
目をあけると、姿をみせたシルフィリアが空中から呆れた眼差しでみおろしてきていた。
「……残念ながら」
「ナガラ?」
「これ以外には、芸がない……」
「ダッサーイ!」
けらけらと笑う。
「うるせ。……助かった。ありがとう」
礼をいいながら、痛みをこらえてたちあがった。
少し離れた場所に倒れた先生をみつけて、足をひきずってそちらにむかう。
鱗粉の爆発をもろにうけた先生は、気をうしなっているようだった。
火傷と擦り傷がひどいが、とりあえず命に別状はないようにみえる。
安堵していると、先生がうっすらと目をひらいた。
「……ひどい、生徒だなぁ。君は」
全身の痛みに顔をしかめながらの一言に、
「――先生。俺、エゴのかたまりですよ。……だから、あいつを神サマなんかにしたくないんです」
くっ、と先生が笑みをこぼした。呆れたように。
「親だもんねぇ」
おかしそうにかすれた声で笑って、ふっと目をとじる。
どこか安らかな寝顔が不吉で、どきりとした。
「……生きてるよな」
「生きてるネ」
よかった。
ほっと息をはいて、あばらの痛みに顔をしかめる。それを無視して、俺は先生に背中をむけて歩き出した。
部屋の中央、繭につつまれたスラ子にむかいながら、
「ツェツィーリャは?」
風精霊は不安そうに顔をゆがめた。
「わかんナイ。屋内だし、マナがもう滅茶苦茶だから。でも多分、」
そこで言葉をきり、顔をうつむかせる相手の心情を思いやって、俺はうなずいた。
「……大丈夫だ。絶対に、あの黒スラ子はなんとかする」
あのツェツィーリャが、俺を殺す機会を捨てたうえに、黒スラ子の注意までひきつけてくれたのだから。
その上、自分を守護する精霊まで俺につけてくれて――だから、絶対に。
決意をあらたにスラ子へと足をむける。
先生の口から言質はとれた。
黒スラ子をつくった誰かなんていない。あの黒スラ子がどうして生まれたのかは謎だが――すくなくとも、人為的に二人目、三人目がつくられるような事態はありえない。
なら、あとはあの黒スラ子本人をどうにかしなければ。
そのためにも、まずはスラ子を起こさなきゃならない。
スラ子と黒スラ子が同じ存在だっていうなら、あの黒スラ子をたおせる可能性があるのはスラ子だけだろう。
「……スラ子。おい、スラ子」
繭のすぐ近くまで寄って声をかけるが、スラ子からの反応はない。
表情は、ひどい悪夢でもみているように顔をしかめたままだ。
「シルフィリア。ちょっとこの糸を切ってくれないか」
そう口にした直後だった。
「――おいたは駄目ですよ、マスター?」
水に濡れたような、艶めかしい声。
世界が暗闇につつまれた。