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十三話 理想の在り方

「たよれ、だって?」

「はい」


 黒スラ子は自信満々に、


「私なら、マスターのためになんでもしてあげられます。対価なんかいりません。それでマスターが幸せなら、ずっとマスターの側にいさせてもらえるなら、それだけでいいんです」


 別れ際にルクレティアがいった。

 自分には黒スラ子とスラ子のあいだに違いを感じることができなかったと――それは、つまりこうした発言こそがルクレティアにとっての“スラ子”ということだ。


 ……スラ子が俺に依存しているのは間違いない。

 先生からきかされたように、それにはスラ子の生まれや、在り方そのものの問題が関わってるんだろう。


 なら、俺にとっては? 目の前にいるこのスラ子は、俺にとってもスラ子なのか?


 ――ちがう。

 絶対に、ちがう。


「……お前はスラ子じゃない」

「いいえ。私はスラ子です、マスター」

「いいや、ちがう」


 昨日の夜、スラ子は泣いていた。

 不安だと。ずっと一緒にいてくださいといって震えていた。


 昨日だけじゃない。

 ギーツでも、ギーツへむかう途中でよった村でもそうだ。その前から、ずっとスラ子は悩んでいた。少なくとも俺は、俺だけはそのことを知っている。


 でも、目の前の黒スラ子にはそれがない。

 だから――こいつは、ちがう。


「お前はスラ子じゃない。スラ子はどこにいる」

「……本当に、マスターは優しいですね」


 黒スラ子がうっとりと息を吐いた。


「そんなに姉さんのことを気にしてくれるなんて。でも、いいんです」

「どういう意味だ」

「マスターには、私がついています。だから姉さんはもう必要ありません。――あんな役立たず」

「役立たず?」

「だってそうじゃないですか」


 にっこりと微笑んで、


「せっかくマスターのためになんでもできる力があるっていうのに、それをろくに使いもしないで、思い悩んで。それで一人でメソメソ泣いたりして。ほんと、愚かな姉さん」


 自分とおなじ名前、おなじ容姿の存在をせせら笑う姿に、俺は確信した。

 やっぱりこの黒いスラ子は、スラ子とは違う存在なのだと。


「それで、あのエキドナの口車にのせられて、こんなことをしでかしたってのか」

「エキドナさんです?」


 ああ、と黒スラ子は肩をすくめた。


「あの人は便利そうなので、自由にさせてあげてるだけです。組織管理だとか、細々とした運営だなんて、そういう面倒なことにマスターの手をわずらわせるわけにはいきませんから。大丈夫ですっ。なにか不手際があればすぐに殺しますし、それに」


 笑顔のまま口にする。


「マスターがあの方を気に入らないというのなら、今すぐにでも殺します。そうしますか? マスター」


 きっとその言葉は嘘じゃない。

 背中にひやりとしたものをおぼえて、俺は唾をのみこんだ。


「……自分をつくった相手に、ずいぶんと冷淡だな」

「つくった?」


 黒スラ子が目をまるめる。


「ふふ。そんなわけないじゃないですかぁ」

「違うのか」

「もちろんです。“私”をつくったのは世界でただ一人、マスターだけです。だから、私のマスターも、マスターだけです」

「悪いが、俺にはそんなおぼえはない。俺がつくったスラ子は一人だけだ。そしてそれはお前じゃない」


 俺は目の前の不定形をはっきりとみすえて、


「……俺はお前を認めない。お前がなにをいったって。お前を、否定してやる」


 黒スラ子が目をみひらく。

 それまでなにをいわれても動じなかった表情がはじめてこわばった。黒スラ子がなにかをいおうとした、その瞬間。


「――――」


 いったいどうやってそこに出現したのか。

 視界にみえていたはずの俺にもまったくわからない唐突さで、銀髪のエルフが黒スラ子の頭上にあらわれた。


 自然落下にまかせ、両手ににぎった弓を一気にふりおろす。


「――ッ」


 精霊の加護をうけた木製の鈍器に全身を真っ二つにされるまで、黒スラ子は一言も声をだす暇もあたえられなかった。


「あなたは――」


 痛みに顔をゆがめることなく、うしろをふりむこうとする。

 しかし、その時には弓を放りだしたツェツィーリャはすでに、左右の手にそれぞれ一本ずつの矢をみじかく握り込んでいて、


「死ねよ、バケモノ!」


 込められたマナが励起する。


 黒スラ子の縦に裂かれた断面、その両方に突き立てられた矢じりが、凝縮された風を一気に膨張させて――黒スラ子の全身が爆散した。


 スライム質の身体が細かく砕けて周囲一帯に飛び散る。

 その中心でツェツィーリャが会心の笑みを浮かべる前に、動く影。


「……!」


 低く疾走したのはカーラだった。


 草原を駆ける獣のようなスピードで、一気にツェツィーリャとの距離をつめようとする。

 気づいたツェツィーリャが弓をひろい、ろくに狙いもつけずに矢をはなつ。放たれた矢はほとんど偶然、まっすぐにカーラの眉間へとむかったが、


「やっ!」


 一喝の気合とともにカーラが声を吐くと、その気合いに屈したように矢は弾かれてしまっていた。


「なんだそりゃ!」


 後ろにひくのが間に合わず、ツェツィーリャがあわてて両手に弓をかまえる。

 風精霊の力で強化され、打撃武器としても十分な殺傷能力をもった古木の弓は、おそらく盾のようにつかっても十分な耐久性があったはず。


 接近したカーラは無言のまま、それにむかって拳を振り上げて、


「――!」


 一撃で、その弓を精霊の加護ごと叩き折った。


「がっ……!」


 なんとか拳の直撃はふせげたが、勢いまではふせげず、後ろに吹き飛ばされるツェツィーリャ。


「お、おい。大丈夫かっ」


 俺はあわててエルフのそばに駆け寄って、


「……クソ!」


 助け起こそうとしたエルフに胸ぐらをつかまれて引っ張り込まれ、おもいっきり盾のように前面に突き出された。


「人が心配してやったのに、最悪だなお前!」

「うるせえ! なんだあの女、前はあんなデタラメに強くなかったぞ!」


 ――たしかに。


 背中のエルフへの文句を中断して、俺は油断なく拳をかまえるカーラをみた。


 カーラの戦闘力、とくにその潜在能力は折り紙つきだ。

 なにしろあの生屍竜さえ、正面から拳一発で尻もちをつかせるくらいなんだから。だけど、今の一連の動きは、俺が知るカーラより格段に上のものだった。


 俺への呼びかけ方といい、今のやりとりといい。

 それに――


「じっとしてて。今、ボクが助けるから」


 まっすぐに俺をみる眼差しには、静かな自信が満ちあふれていた。

 ワーウルフとの混血だからと町の人間から冷遇され、どこか怯えるようだった魔物見習いの姿はそこにはない。


 どういうことだ?

 黒スラ子になにかされたからか、それとも目の前にいるのがカーラの偽者だからなのか。


「……まあいい。不意打ちは完全に決まったからな。さっきのは手応えがあった。これでダメなら、本格的にお手上げだが――」


 ツェツィーリャがつぶやく。

 すぐに、はっ、と諦めまじりの吐息をもらした。


「まったくバケモノにも程がありやがる。前みたいに身代わりだけ残して地下に逃げてたってわけでもないだろうによ……」


 周囲にばら撒かれた黒スラ子の破片。

 それがまるで命があるように、するすると壁をおり、床をはって集合していく。


 そして、またたく間にひとつの固まりになって、


「ふふー」


 何事もなかったように黒スラ子が姿をあらわした。


 ダメージを引きずっている様子はない。

 それどころか、一撃の瞬間にも痛みさえ覚えていないような、そんな気配だった。


「……全身を微塵に吹っ飛ばしてやれば、さすがにどこにあっても巻き込めると思ったんだがな。いったい手前の核はどうなってやがる」

「いい奇襲だったと思いますよ。びっくりしました」


 黒スラ子がにっこりと微笑んで、


「でも残念。マスターが傍にいてくださる限り、なにがあったって私は死にません。それに、さっき言いましたよね。――許してあげるのは今回だけだって」


 笑顔のまま、その表情が寒気がするほどの迫力をたたえる。


「おっと、いいのかよ。その手前の大事なマスターがどうなっても知らねえぜ」

「本当に外道だな、お前」

「……うるせえ。黙ってろ」


 耳元でささやくエルフの声がわずかに震えていることに、俺はきづいた。


「大丈夫ですよ、マスター」


 黒スラ子がいった。


「もしそのエルフになにをされても、すぐに私が蘇生しますから。もちろん、その時には痛かった記憶も、怖かった記憶も全部なくしておきます。マスターはなにも気づきません。マスターをそんな目に遭わせた相手は、私がしっかりこらしめておきますし――ええ、生きてきたことをどれだけ後悔してもし足りないくらい、延々とイジめぬいてあげます」


 その言葉をむけられているのは自分じゃないってわかってても、ぞっとする。

 俺はごくりと唾をのみこんで、


「……なあ、おい。やめとかないか」

「今さら命乞いか? 情けねえぞ、ぼんくら」

「そうじゃない。――俺はあいつに蘇生させられるわけにはいかないんだよ」


 ちらりとエルフの横目が俺をみて、


「どういう意味だ、そりゃ」

「……多分、あいつに蘇生させられたら、そのときの俺はもう俺じゃなくなってる。それじゃ、あいつを止められない」


 視線を黒スラ子以外の四人にむける。

 きっとこのカーラたちみたいに、スラ子の影響をうけてしまうから。他からの精神操作をふせいでくれるストロフライの加護だって、死んでしまったら効果はないだろう。


 ツェツィーリャが目をほそめて、


「それをオレに信じろってのか? 手前があいつを殺せるのを? 冗談だろ」

「俺を殺して、それですべてが丸く収まるって思うんなら、……そうすりゃいいだろう。俺には、とてもそんなふうには思えないけどな」


 うしろからきつく襟首を絞められながら、言葉をはきだす。


 ちっとツェツィーリャが舌を打った。

 しばらく沈黙してから、


「いいか、ぼんくら。よく聞け――」


 ぼそりとつぶやいて、俺がそれに耳をかたむけようとした瞬間、背中をおもいっきり蹴り飛ばされた。

 悲鳴もあげられずたたらを踏んで、バランスを崩して転びそうになったところをやわらかく受け止められる。


 俺を受け止めてくれたカーラの胸元から顔をあげて、


「――スラ子! 待て!」


 俺を蹴り飛ばした隙に、脱兎のごとく逃げ出しにかかるツェツィーリャの後をおいかけようとしていたスラ子に叫んだ。

 こちらを振り返った黒スラ子が、


「わかってます。マスター」


 にっこりと微笑んだ。


「殺したりなんかしません。この世界のものは全部、マスターのものですし――あのくらいやんちゃなほうが、オモチャとしては楽しめますもんね。あの人にはきちんと、あの人のまま、マスターに屈服して従属してもらわないといけませんから」


 ふふー、と無邪気な微笑をのこして、建物の床にとけこむ。


「いいコにして待っていてくださいね? マスターへのお土産を捕まえて、すぐに持って帰ってきますから――」


 とぷん、とその姿がきえた。


「おい、待てって……! クソ、肝心なところで全然話を聞きやしない!」


 おもいっきり毒づいてから、顔をあげる。


「大丈夫?」


 至近距離で、心配そうにこっちを見つめるカーラと目があった。


「あ、ああ。受け止めてくれて助かった」

「うん。怪我がなくてよかった」


 にこりと笑う。

 カーラの笑顔は魅力的だといつも思っているけれど、今回の笑顔はそれにも増してどきりとするような表情だった。


 俺の知ってるカーラより、大人っぽいからか?

 いや、それとも自信のせいだろうか。カーラの一挙手一投足にある、自信――決して出しゃばらず、控え目なまま、自分のなかにしっかりと動じない芯をもっている。

 そういう感じが、今のカーラの態度からは随所にうかがえた。


「……なあ。カーラは、どのくらいアカデミーにいる?」


 カーラがまばたきした。


「いきなりどうしたの?」

「いや、ちょっと気になって。洞窟からいつやってきたんだったかなって」

「なに言ってるのさ」


 あははと快活に笑って、


「――と一緒にアカデミーに入ったのに、忘れたの?」

「一緒に?」 

「うん。まさか本当に忘れたなんて言わないよね。ボクとルヴェと、三人であの正門前のガーゴイルで死にそうになったじゃないか」


 カーラの表情は、冗談をいっているにはみえなかった。


 正門前のガーゴイル。

 俺が、アカデミーを訪れようとする相手に対する最初の試練で死にそうになったのはたしかに間違いない。というかほとんどルヴェのせいではあったけど、それはそれとして。


 今もはっきりとあるその思い出にはしかし、カーラも一緒だったという記憶は当然のようになかった。


「……スケル。お前は、どうだ。いつからその姿なんだ」

「いつからもなにも。ご主人とスラ姐と一緒につくってくださったんじゃないっすか。最初っから、あっしはこの姿っすよ」


 肩をすくめる白色の魔物少女から目をうつして、


「シィ。お前は? 妖精の森の仲間はどうしたんだ。なんでこんなところにいる?」


 ドラ子をのせたシィは、困惑したような顔でとつとつと答えてくれた。


「……マスターが、助けてくれた。から、です」

「助けた? 俺が捕まえたからじゃないのか? ひどいことしたよな。ほら、スラ子の魔力の補充にって――」


 顔をしかめて、シィはふるふると頭をふった。


「なんのことだか。わかりません……」


 心配そうに俺をみる三人を、ぽかんと見てから。


 ――そういうことか。


 不意に俺は悟った。

 ……ここは、そういう世界なのか。


 あの黒いスラ子は、ここを新しいアカデミーだといった。

 だからここは、俺の知ってるアカデミーじゃない。俺が知っているアカデミーに、都合のいい人物をくわえて、都合の悪い事実を抹消した――まったく別の現実。


 そこでは俺は、アカデミーに残れず辺境の洞窟に赴任するようなこともなく。

 森で行き倒れたシィは俺に捕まらず、留守番をしていたスケルは何者かに頭蓋を割られて壊されず。カーラは、町で他の人間にいじめられたりせず、アカデミーで伸び伸びと充実した日々を過ごしている。


 そういう、俺にとって耳触りのよい出来事だけを周囲に塗り固めた、虚飾の世界。


 理想郷のような世界を、あの黒スラ子はつくりあげた。

 ストロフライの鱗をもっている俺には、自分の力が効かないから――なら、世界そのものを変容させればいいと。


 世界をつくりあげる。

 そんなものさえやってのける黒スラ子の圧倒的な力にぞっとするのと同時、とてつもなく強い衝動をおぼえて、拳をにぎりこんだ。


 腹がたっていた。

 ものすごく腹がたっていた。


 相手は、他の誰でもない。あの黒スラ子にだ。

 憤然と立ち上がろうとしたところに、


「まあまあ、ちょっと落ち着いてくださいな。ご主人」


 スケルがいった。


「そんなに怒るようなことじゃありません。スラ姐は全部、ご主人のことを思ってやってんですから」


 俺はぼさぼさ頭の相手をにらみつけて、ふと気づいた。


「……スケル。お前、わかるのか? 俺がなんで怒ってるのか」


 それは、今の状態がおかしいってことを認識しているということだ。


 ひょいと肩をすくめたスケルが、


「あっしは元々、スラ姐につくられたモノですしね。おぼえてない振りを通しててもよかったんですが、ご主人が無茶をやりそうなんで、止めないわけにもいきませんや」

「止める? なんで止めるんだよ。スケル、お前はこんなこと放っておいていいと思ってるのか?」


 信じられない。

 頭をふる俺におっとりとした眼差しで、


「逆にお聞きしましょう。どうして、駄目なんです?」


 スケルがいった。


「このアカデミーはいいところっすよ。そりゃ騒々しくはありますが、どんな問題だって最後にはまるっと上手く収まっちまう。裏でネチネチとか、陰謀とかそういうこともありゃしませんしね。ご主人がそういうの好きじゃないでしょう。だから、スラ姐が絶対にそんなものを許さないんです」


 もちろん、と肩をすくめて、


「ご主人がそういうのを望めば、いくらでも血生臭くだってなるでしょうが。でも、ご主人がそれを望まない限り、ここは平和です。スラ姐が見守ってくれてますからね」


 は、と俺は笑った。


「あのスラ子が、ここの神サマってことか。いや、創造主か」

「そうです」


 スケルは真剣な顔でうなずいた。


「そして、その神様に唯一意見できるのがご主人ってことです。だから、ご主人さえ滅多なことを考えなきゃ、なんの問題もありはしません」


 問題ありまくりだ。

 自分だけが神様にいうことをきかせられるなんて、俺がどんな暴走をするかわかったもんじゃない。


「いやいや。ご主人にそんな大それたことなんか、出来っこありゃしません。褒めてるんですぜ? 少なくとも、自分の趣味の範囲で終わっちまいますって。ご主人の悪だくみなんてね」


 スケルは意地悪っぽく笑ってから、


「そんなご主人を利用しようなんて輩がでてくることも、ありえません。スラ姐が見過ごしませんから」


 ふう、と息をはいた。


「……だからご主人。問題なんてないんですよ。だから、スラ姐の好きにさせてやっちゃあくれませんかね」

「あれは……スラ子じゃないだろう」

「あれもスラ姐っすよ。自分の願望を押し殺そうとしてないってだけの、素直なスラ姐です」

「願望?」

「ええ。ご主人とずっと一緒にいたいっていうね。どっちのスラ姐だって、要はそれだけなんですよ。ホントに」


 ――一緒にいてください。


 たしかに、それは昨夜スラ子からきかされた望みだった。


「どうか、その願いを叶えてやっちゃくれませんかね。このとおり――お願いします」


 スケルが頭をさげた。


 スケルは壊れたスケルトンの残骸から、スラ子によってつくられた。

 厳密にいえば、今のスケルのマスターはスラ子で、だからきっと、スラ子の心情もよく理解できるんだろう。


 俺はその姿をじっと見つめてから、


「――なあ、スケル。ここは洞窟だな」


 眉をひそめる白色の少女に、


「……薄暗くて、あったかい。外敵のない、洞窟だ。引きこもるにはもってこいだな」


 望めばなんでも手にはいる。

 外敵は、誰かがなんとかしてくれる。


「でも、俺はそれじゃ駄目だろうって思ったから、アカデミーなんかにまで来たんだ」

「……ご主人が頑張る必要なんてないんですよ」


 スケルがいった。


「ご主人のそばにはスラ姐がいるんです。なんでもスラ姐に委ねて、任せっちまえばいいんです。それでなにもかも、上手くいくんです」

「……それでも、駄目だ」

「どうしてですかい? ここにはなんでもあるっていうのに。ご主人のことを大好きな相手、ご主人を認めてくれる仲間。ご主人に嫌な思いをさせることなんて、なに一つもないんですぜ」


 優しい口調であやすように、


「洞窟で辛かったことなんて、ここじゃなかったことにできるんです。一人ぼっちで孤独だったことも、なかったことにできるんですよ。きっとスラ姐に頼めば、やり直すことだって。カーラさんや、シィさん、ドラ子さん、ルクレティアさんに、ルヴェさん。ご主人が望む出会い方で、もう一度なにもかもやりなおすことだってできます――ご主人が、それを渡してくれれば」


 手を伸ばす。

 その先にあるのは――、淡い、黄金色の光。


「ご主人には、そんなものは必要ありません。なにもかも、スラ姐が護ってくれるんですから」


 スケルの表情は、いつの間にか黒スラ子のそれと重なって見えた。


「……さあ。それを渡してください。そうすれば、ご主人が迷うことなんてなくなります。それだけで嫌なことをさっぱり忘れて、なんの不安もない、安心した日々を送れるんですよ――」


 ストロフライの加護がなくなった瞬間、俺は黒スラ子の魔法にかかってしまうだろう。

 そうしたら、終わりだ。


 それを選ぶことも俺にはできる。

 多分、そういうのも含めて、ストロフライはこれを渡してくれたのだろう――決断するのは、俺自身だ。


 わざわざそんな余地をのこしてくれたストロフライの意図はわからない。

 興味本位。あるいはただの気まぐれ、退屈しのぎなのかもしれない。


 ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。


 ――あの黄金竜は、きっと俺を試している。


「……俺は。忘れないぞ」


 スケルの動きがとまった。


「スケル、お前が洞窟の隅っこで壊れてたときのことを。俺がシィや、ルクレティアにやってきたことも。そんなことを都合よく忘れて、楽しくやってく自分なんか、想像するだけで反吐がでる」


 白いボサボサの魔物少女の向こう側にいる、黒スラ子をにらみつけて、


「自分のしでかしてきたことを投げ捨ててやり直すなんてごめんだ。なにもかも許される世界なんて、クソ喰らえだ。そんなのより、俺は自分がどれくらいダメかわかるほうがずっといい。……俺は俺のまま、後悔と反省でグチグチ悩みながら、これから先もみじめに生きてやる」

「……ご主人」


 まじまじとこちらを見つめたスケルが、ふうっと息をはきだして、


「――仕方ないっすねぇ」


 ひょいと肩をすくめた。


「正直、ここで甘えちゃったほうがご主人のためなんじゃないかと思うんすけどねえ。わざわざしんどい目にあいたいってんなら、しょうがありませんや」

「……いいのか?」


 てっきり、黒スラ子から俺の足止めとか、ストロフライの鱗を取り上げるよう指示がでてるのかと思ったが、


「ま、問題ないでしょう。スラ姐ならどこにいたって状況の把握くらいできてるでしょうし。……もう一人のスラ姐を探してるんでしたら、二階へ。スラ姐ならそこの一室にいますぜ」

「――わかった」


 うなずいて、駆け出しかけてから、立ち止まる。


 振り返るとカーラとスケル、シィとドラ子がこちらを見つめていた。

 スケルは苦笑まじりで、残りの三人は困惑顔。


 黒いスラ子のつくった世界の、かけがえのない仲間たち。

 俺の、あるいは彼女たち自身の願望が形となった人影に対して、口をひらきかけて――結局、たいした言葉も思い浮かばず、


「すぐに、迎えにいく!」


 せめてそう大声で約束をつげてから、走りはじめた。



 一気に階段をかけあがり、廊下をみわたす。


 ――どれがスケルのいった部屋なのか、不思議とわかるような気分で、俺は身近な一部屋の扉に手をかけた。

 思いっきり横にひいて、室内にふみこむ。


 蜘蛛の巣。

 部屋にはいった俺の視界にとびこんだのは、それだった。


 縦横無尽にはりめぐらされた白糸の固まり。

 その中央、八方から糸に包まれるようにして浮かぶ球状の繭の隙間から、見覚えのある姿がのぞいている。


「スラ子!」


 呼びかけに、繭のなかのスラ子は目を閉じたまま気づいた様子もなく。

 かわりに反応したのは繭の前にたつ相手だった。


「おや、マギくん」


 白衣をだらしなく着崩した、見知った顔の女性――蜘蛛人族のアラーネ先生が、意外そうな顔でこちらを振り返った。




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