八話 もう一人のスラ子
とりあえず、話し合いはまた明日。
ギーツとアカデミーのあいだに取り交わす商売上の決め事、その草案を互いに考えて議上に持ち出すということで、俺たちは部屋にもどった。
人間と魔物が正式に商取引をおこなうことになれば、恐らくそれはこの大陸でもほとんど前例がない事態になる。
もちろんそれは、互いの条件交渉から細部の調整まで、一度の話し合いでまとまるような話じゃなかった。
これから数日にわたって交渉はつづき、あるいは今回は大枠のところだけ話を詰めて、あとのことについてはまた後日ということにだってなりかねない。
それはいいのだが、こちらとしては、今回の訪問中にすくなくともたしかめておかなきゃならないことがあった。
竜について。
ストロフライをつかってなにか企んでいるような連中と、商売なんかできるわけがない。
あの奔放な黄金竜の怒りに一度ふれてしまえば、アカデミーともども即座に焼き尽くされることになるのだから。
だから、そこだけはしっかりと確認しておかなきゃならない。
洞窟にはいつ帰れるだろう。
しばらく顔をみていない洞窟の面々や、たくさんのスライムたちのことを考えながら、ふと脳裏に昨夜のことを思い出す。
……ホームシックとかじゃあないよな。あれは。
生まれてからこんなに遠い場所まできたのははじめてだから、そういうことだってあるのかもしれないけれど。
そういうのとは違って、もっと根本的な問題だ。
――一緒にいてください。
もちろんそのつもりだともさ。内心でうめく。
いわれなくたって、一緒にいるつもりだ。
ただ、それが永遠になんてことはありえないというだけで。
それをどうやって相手にわからせてやればいいか、長い廊下を歩きながら考えて、いくら考えても答えなんてでてこないので苛々と頭をかきむしった。
「なにやってやがる」
呆れたようにツェツィーリャがいった。
俺たちの少し前を歩いているルクレティアが、部屋について扉をあけ、なかをみて眉をもちあげる。
「――あら。他の皆さんはどちらへ?」
問いかけにかえってくる言葉がある前に、俺は後ろからルクレティアの肩をつかんでいた。
「ご主人様?」
こちらをふりかえるルクレティアをみず、室内を凝視する。
そこには一人がたっていた。
半透明の質感。
全身が濡れたようになめらかで、水精霊に似たその外見。
窓際にたって外をながめる、見慣れているはずの背格好のその相手にむかって、俺はじっと目をすがめて。口をひらいた。
「……誰だ?」
ゆっくりと相手がふりかえる。
「どうしたんですか?」
にこりと微笑んでくる表情は。いつも通りの笑みで、いつも通りの柔らかさで。
けれど。
俺はもう一度、くりかえした。
「――“誰だ”」
「ご主人様。先ほどからいったいなにを……」
眉をひそめたルクレティアが、こちらの表情をみて口をつぐむ。
それだけ険しい顔になっていたんだろう。
もちろん俺はふざけているわけでも、面白くもない冗談をいっているのでもなかった。
じわりと汗がうく。
どっどっど、と鼓動が高鳴っている。
自分でも、なんで身体がこんな反応をしめしているかわからない。――いや、きっと頭じゃないどこかで理解しているからなんだろう。
だから俺は。目の前のそれを信じたくなくて、三度、口をひらいた。
「お前は、誰だ」
くすり、と目の前の相手が哂った。
「ああ。なぁんだ――やっぱり、マスターにはちゃあんと、わかるんですね」
くすくすと楽しそうに肩をゆらす。
その笑い方も、やっぱり俺のよく知るそれに似ていて。
それとはどこか決定的にちがう笑い方だった。
「答えろ。お前は誰だっ……」
「――私は私、ですよ。マスター」
スラ子の姿をした何者かがいった。
甘えがかった声で、
「わかりませんか? ううん、わかってくださるでしょう? ああ、少し見分けがつきにくいというなら――こうしてみれば、姉さんとの違いがわかります?」
言葉とともに、その体の色が変じていく。
姿かたちは変わらないまま、ただ全体が黒ずんでいく。
頭のてっぺんから手足の先にいたるまで。濁った色合いをまとったその不定形の生物が、
「はじめまして。マスター。お会いできるのを楽しみにしていました」
あらためてにっこりと、微笑んだ。
「――スラ子さん?」
ルクレティアがうめく。
そちらに視線をやった黒スラ子が微笑みかける。
「はい。スラ子です。私が、“スラ子”です」
「ふざけるな」
目の前の相手をにらみつけて、俺は言葉をはきすてた。
「……スラ子はどこだ」
「ですから、マスター。私がスラ子です。ああ、姉さんもいますから、私も、というべきなんですね。すみません」
「ふざけるなっ! スラ子はどこにいる。他の連中は!」
思わず怒鳴りつけてしまう。
部屋には一人以外、誰にもいない。
話し合いのあいだ、待機していたはずのカーラやスケル、タイリン。そしてスラ子の姿はどこにもなかった。
突然の剣幕にびっくりしたように俺をみて、黒いスラ子が眉をひそめた。
「マスター。どうしたんですか? どうしてそんなに怒ってるんです? 私、なにかいけないことしちゃいましたか?」
しゅんとした表情は、その黒ずんだ肌色以外はまったく見知ったもののそれで、思わずひるんでしまいそうになる。
落ち着け、と自分にいいきかせて、
「――ここにいた連中が、どこにいるか知ってるか?」
「スラ子」
「……なんだって?」
黒スラ子は、いたずらっぽく小首をかしげてみせた。
「スラ子、って呼んでください。じゃないと、答えてあげません」
「お前――」
にらみつけるが、相手はゆらゆらと微笑んだまま。
息をはいて、
「……スラ子」
「はい。マスター。――ああ、幸せ」
うっとりと、とろけるように目をほそめる。
「マスターに名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいだなんて。姉さんったらずるい。ずっと、自分だけ独占してきて……」
身悶えるように身体をくねらせる相手に、俺は思わずぞっとするものをおぼえていた。
なんだ、こいつは。
スラ子のような姿をして、スラ子のような声をだして。しゃべり方までスラ子にそっくりの、色以外はスラ子に瓜二つとしか思えない相手。
だが、目の前の相手がスラ子とはまったく違う相手であることを、俺は肌で理解していた。
これはスラ子じゃない。
スラ子じゃなくて、――もっと違う誰かだ。
「……答えろ。ここの連中を、どこにやった」
俺からかけられた声に、ようやく我にかえった黒スラ子が、
「秘密です」
人差し指をたてて片目をとじた。
「お前!」
今度こそ声をあらげかける俺にくすくすと笑って、
「ふふー。冗談ですよ。ここにいた人たちなら、たしかにどこにいってしまったか知っていますけれど――」
そこで首をかしげた。
「どこにいってしまったって、どうでもよくありませんか?」
「なに……?」
「だって。マスターには、私がいるじゃないですか」
胸に手をあてて誇るように、黒スラ子がいう。
「すぐに我をうしなって暴走しちゃう狼女だとか。いくら怪我したって平気だっていうだけの元スケルトンだとか。少しくらい珍しい属性魔法の使い手だなんて、そんなの私にでもいくらだって使えます。あんな人たちは全員、マスターには必要ありませんよ」
ああ、とすっと目をほそめて、俺の隣にたつルクレティアをみる。
「そこにも。もう一人、いらない人がいますね――」
ぱぁん、っとその顔がはじけた。
ぎょっとして目をむけると、いつのまにか弓をかまえたツェツィーリャが、するどい眼差しを送りつけていた。
「ツェツィーリャ、お前!」
「うっせえ。……死んでねえよ。見ろ」
あごでしゃくられた先をみる。
魔力を込められた矢の一撃をうけて頭部を破裂させた黒スラ子が、そのままの姿勢でくすくすと笑っていた。
鼻から上部分をほとんどうしなった状態で平然と、
「ひどいことするんですね。お話の途中なのに。マスターとおしゃべりできなくなったら、どうしてくれるんですか?」
「うるせえよ、化物。手前が何者だろうが、ここにいた連中がどうなろうが、どうでもいい。手前は化物だ。化物は殺す、今ここでな」
「……“化物”?」
にんまりと口だけが笑った。
「私は化物なんかじゃありませんよ。“私の全てはマスターのもの”、です」
「なら、そのマスターごと殺してやるよ……!」
ツェツィーリャが吠えた。
流れるような動作で新しい矢をつがえる。
俺が止める間もなく、素早く引き絞られた弦から矢が放たれた。
「あははははははは!」
黒スラ子が笑う。
撃たれた矢を紙一重のところでかわし、その直後、矢が込められた魔力ごと炸裂する。
至近距離でそれを受けたスラ子が吹き飛ばされ、それに追撃をかけようとさらにツェツィーリャが次の矢をつがえようとする――その手を、弓から生えた黒い手がおさえこんでいた。
「ッ……!?」
驚愕にゆがむツェツィーリャをつかみ、そのまま振り回す。
人形でもそうするかのように投げ飛ばされ、壁に叩きつけられかけるツェツィーリャをすんでのところで、不意に巻き起こった風が包み込んだ。
風とともに精霊シルフィリアが、ツェツィーリャを抱きかかえてあらわれる。
「ツェツィ!」
「シル! 全開だ!」
宣言したツェツィーリャの周囲に、莫大なマナの気配がつどう。
「お、おい! 待て、こんなところで……!」
脳裏によぎる記憶に頬がひきつる。
以前、竜の遺体騒ぎで森にはいり、そこで遭遇したツェツィーリャと戦ったときに彼女がスラ子にむけて放った全力射。
森の一角をそのまま消し飛ばしたあんな大威力の一撃をこんな室内でぶっ放されたら、近くの俺たちだってただではすまない。
「ツェツィ、待ちなさい!」
ヴァルトルーテも止めにかかるが、すでに遅かった。
「シ、ネ――!」
矢が放たれる。
部屋中のすべてをかき乱すように荒れ狂う暴風とともに、絶大な威力をともなった一撃が直進する。
俺はあわてて隣のルクレティアを抱きかかえて、床にへばりつくように姿勢を低くする。
少し気を抜けば首ごともっていかれそうな暴風域にまきこまれ、歯を食いしばりながらそれに耐えた。
広めの部屋とはいえ、矢の射程をかんがえればほとんど至近ともいっていい距離からそれをむかえうつ黒スラ子は、それに対してなんらかの手段をこうじる暇さえあたえられず。
――いや、そうしようとする素振りさえ、みせなかった。
かわりにとばかり、上頭部をうしなったままの口をあける。
あんぐりと開けられたその口内に、まるで迎え入れるような体勢で黒スラ子は微動だにせず――猛烈な音と風を巻き上げて直進する矢が、そこに至る。
そして。
矢は、するんと、まるで流れるように魔力ごとその内部に吸い込まれていった。
「んだとッ!?」
思わず目をみひらくツェツィーリャ。
全力全開の一撃をあっさりと受け流された――いや、喰われてしまったエルフに、にんまりと不定形が笑った。
「その程度でおしまいですか?」
くすくすと顔の下半分だけで、
「――だったら。貴女も、食べてしまいますよ?」
黒スラ子が駆けた。
「ちぃ!」
ツェツィーリャが矢をつがえるが、間に合わない。
先端を鋭利に変化させた抜き手の一撃が、エルフの身体をまっすぐに貫こうとしたその刹那、
「ヴィダス!」
「ロックボール!」
横合いから魔法攻撃がふりそそぐ。
黒スラ子はそれをかわそうともせず、実際にダメージを受けた様子もなかったが。だが硬化して伸ばした腕に魔法を受けて、さすがにその動きがわずかに鈍った。
そのあいだになんとか身をひねったツェツィーリャが一撃をかわし、
「死にやがれ……!」
そのまま握った弓を叩きつけた。
なにかの木製だと思われるそのシンプルな作りの弓は、込められたマナに力強く輝いている。
十分な凶器と化したそれを叩きつけられた黒スラ子の身体が縦に裂かれた、が――
「ふふー」
裂かれた口でなお変わらぬ口調で、それは笑う。
「痛いじゃないですかぁ」
「ちったあ感情をこめやがれ、化物!」
頬をひきつらせたツェツィーリャがその場を離脱しようとする。
しかし、それに裂かれたままの黒スラ子がするりと身体を伸ばして、蛇のようにまきついた。
「ツェツィを離せ――!」
全身を輝かせたシルフィリアが魔力の塊をたたきつけるが、それを平然と受け流して黒スラ子は空中の精霊にも手を伸ばした。
「離せー! バカー!」
なんなく相手をからめとり、両者をゆるく巻き上げながらささやく。
「ふふー。安心してください。ちゃあんと、二人一緒に食べてあげますから――」
「――やめろ」
大きく口をあけた不定形が、失われた顔半分でこちらをみた。
「どうかしましたか? マスター」
「……二人を離してくれ。頼む」
「マスター……」
がっかりしたように、黒スラ子が肩をおとした。
「駄目ですよ。そんな言い方。私になにか言うなら、ちゃんと“命令”してください。そうしたら私、どんなことだってきいちゃいますから」
本気の声だった。
顔がないからまるで表情はわからない相手をみすえて、
「……スラ子。二人を離せ」
「はい、マスターっ」
嬉しそうに声をはずませて、黒スラ子はツェツィーリャとシルフィリアを手放した。
ほとんど原型をとどめていなかった姿がぐにゃりとまがり、元のかたちに戻っていく。
人型をとりもどした不定形が笑った。
「本当に、マスターは優しいんですね。お二人とも、マスターの世界一の優しさに感謝してくださいね?」
「ふざ、けんな……!」
咳き込みながら悪態をつくツェツィーリャにちらりと視線をおとし、油断なく身構えるルクレティアとヴァルトルーテをみやって。
黒スラ子は肩をすくめた。
「マスターに免じて、この場は見逃してあげます。だから、もう私の邪魔しないでくださいね。私、忙しいんですから」
「忙しい?」
顔をしかめた俺に、黒スラ子はにこりと微笑んで、
「はいっ。だってここには、たくさんマスターの敵がいるじゃないですか」
……敵?
「敵って。おい、誰のことだよ、それは」
「ふふー。待っててくださいね。マスターの邪魔をする人なんか、全部、私が綺麗にしちゃいますから。マスターの邪魔は私が、誰にも、なんにもさせません」
まっすぐに濁った眼で、こちらをみた。
「おい、スラ子。待てって――」
あわてて声をかける間もなく、とぷりと床にしずみこみ。
そのまま姿を消してしまう。
「くそ、なにが命令ならきくだ! 全然話きいてねえ!」
「ご主人様。あれは、いったい――」
顔色を青ざめさせたルクレティアがいってくるが、事態についていけてないのは俺だっておんなじだった。
「わからん。だが、スラ子じゃない。カーラたちはどこにいった? クソ……!」
混乱した頭で考える。
スラ子じゃない、もう一人のスラ子?
昨日、先生の家から帰る途中にカーラと見かけたあれか?
あれは結局スラ子じゃなかったのか。
はじめから、ここにはもう一人のスラ子がいたってことなのか。
でも、なんでこんなところにもう一人スラ子がいるんだ――そこまで考えて、脳裏に浮かんだのは、俺の洞窟をあさっていた魔物の存在だった。
「……エキドナか?」
「あの方が、スラ子さんを新しくつくったということですか? しかし、それは……」
ルクレティアがうたがわしげな視線をむける。
俺もまったく同じ感想をもって、頭をふった。
「ああ。意味がわからないな」
エキドナがあさった洞窟内の資料に、スライム核についての知識は残していなかったはずだ。
それに、もしエキドナが独力でスライム核の魔法生体製造に成功していたとしたって、それはあくまでちょっと変わった魔法生体ってだけだ。
そのうえで、精霊をその身にとりこみ、妖精の羽を使ってまで一応の安定を得てようやく、今のスラ子の状態になるのだから――だいたい、新しくつくった魔法生体なら、どうしてそれにスラ子とおなじ外見と、おんなじ名前をつけなきゃならない?
しかも、俺のことをマスターといっていた。
もちろん、俺には二人目のスラ子をつくったおぼえなんかさらさらなかった。
「……とりあえず、追いかけよう。カーラたちも心配だが、あのスラ子は放っておくとヤバい。なにをしでかすかわからない」
さっきの戦闘だけで、あの黒スラ子がスラ子と同等に近いポテンシャルをもっていることはわかった。
俺にとっての敵を消すだなんて宣言して、いったいどんな行動にでるかまるで予想できない。
「ツェツィーリャ、ヴァルトルーテ。手を貸してくれないか」
「それはかまいませんけれど……」
なにかをためらうようにヴァルトルーテが眉をひそめる。
ふらつきながら立ち上がったツェツィーリャが、姉のあとをつぐように口をひらいた。
「……手伝う? そりゃ、いったいなにを手伝えってんだ?」
敵をみるような眼差しでこちらをみすえて、
「あの化物野郎を追いかけて、手前はなにをやろうってんだ。俺の命令をきけー、とでもいうつもりか? それでアレが止まらなかったらどうする。オレ達に手伝えっていってんのは当然、手前にもその先の覚悟があるってことなんだろうな」
ドスのきいた声でいってくる、相手の意図ははっきりと理解できた。
「……わかってる」
「はっきり言いやがれ」
ツェツィーリャが吐き捨てるようにいった。
「アレがもし、二人目とかでなくてお前の知ってるやつだったとしてもだ。手前は、あいつを始末できるのかよ」
「……あれはスラ子じゃない。それに、もしスラ子でも、スラ子じゃなくても、できることはなんだってやる。それでも駄目だったときは――」
――脳裏に昨夜のスラ子の姿を浮かべる。
一晩中、泣いていた不定形の声を耳に思い出しながら、
「あいつの始末は、俺がつける」