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十四話 歳月を重ねて

 いつの間にか、空が白み始めていた。


 気づかないうちにそんなに時間が過ぎていたらしい。

 眠気は感じなかったが、荒っぽいことの連続で身体のあちこちが重い。頭も少しぼんやりと霞がかっていた。


 俺は首にしがみついて離れないスラ子をあやしながら、


「カーラ。スケル、大丈夫か」

「平気、です」

「だいじょぶじゃないっすー……」


 ふらふらした足取りで二人がやってくる。


 全身が傷だらけのうえ、髪も服もボロボロになったカーラと、上着が大きく切り裂かれて、傷の消えた胸部がほとんどはだけて見えてしまっているスケル。

 どちらもひどい有り様だった。


 スラ子を止められたのは二人がいたおかげだ。お疲れ様と慰労したいところだが――それより先に、すませておかないといけないことがある。

 今回の件は、まだなにも解決していなかった。


 覚悟を決める。

 残るもう一人に視線をむけた。


「お疲れ様」


 少し離れた場所で、それまで黙って俺たちのやりとりを見守っていたルヴェが、にこりと微笑んだ。


「じゃ、返してくれる?」


 俺がスラ子から渡された赤ん坊を迎えるように腕をのばす。

 相手の表情をじっと見つめて、俺はゆっくりと首を振った。


「……駄目だ」

「今度は、あたしとマギでケンカ?」


 からかうような口調。


 だが、俺にはとてもそれに笑って返せそうにもなかった。

 これからの話によっては、本当にそうする必要があるかもしれない。


「渡す前に。説明してくれ。――この赤ん坊は、いったいなんだ」


 違和感の固まりを胸に抱きながら、


「この子は普通じゃない。下の町の連中のありさまにどう関わってる。この赤ん坊は、町に……俺たちに今、いったいなにをしでかしてる?」


 それを聞くまでは、渡せない。

 この赤ん坊には、スラ子があんなにも必死になった理由があるはずだ。たとえ、先走った行為の根底には、俺に認められたいって欲求があったとしても。


 それに、もしかしたら。そうしたスラ子の行動さえ、この赤ん坊の手の内なのかもしれない。


 さっきあった違和感。

 そのしこりは、赤子を抱いている今もずっと残ったままだ。


 スラ子が俺に語ったこの赤ん坊の危険性について、俺はまだ理解できていない。

 それでもかろうじてわかる。


 ――きっと、この赤ん坊は他者の感情や思考に影響をあたえている。


 それは強いとか弱いとかいうのとは別次元の話だ。

 ほとんど反則じみている。


 自分自身を自己と認識できなければ、行動の主体性は確立されない。


 やっているのか、やらされているのか。

 どんな行為も、感情も、見えない操り糸に後ろからあやつられているだけなのかもしれないのだから。


 それと似たような認識障害を起こす魔法なら存在する。

 妖精族が得意とする幻惑の類だ。


 だが、スラ子は赤ん坊のやっていることを、そうした魔法とも異なるものだといった。


 なら、いったいそれはなんだ。

 なにより、こんなにも目の前の存在の異常性が俺には認識できているっていうのに――いったいどうして、いまだに俺はこの相手に敵意を抱かないんだ?


「いったいこの赤ん坊はなんなんだ」

「あたしにも、よくわかんないんだよ」


 がしがしと頭をかく。昔からの彼女の癖だった。


「怒んないでね。ほんとに、嘘はいってないんだから。あたしにもわからないの。わかんないけど、こういうことなんじゃないかなってのはあるから、それでいいなら話せるけど」

「それでいい。話してくれ」


 うなずいてから、ルヴェはなにかを思い出すように軽く空をみあげて、


「拾ったとき、その子は一人だったの。まわりには本当に、誰もいなかった。孤児なんて、魔物に襲われた集落とかにいくらでもいるけど。遺跡の近くに赤ん坊が落っこちてるなんて、その時点でおかしいでしょ。けど、あたしはその時、そんなことをちっともおかしいと思わなかった」


 深く長いため息をついて、 


「その時から。多分もうあたしは、その子の影響を受けてたんだろうね」

「……周囲への干渉。異常なことを異常と思わせない?」

「スラ子ちゃんの言い方じゃ、それともちょっと違うのかなって思ったけどね。けど、強引に他人の悪意を消し去っちゃう。保護欲をおこす。そういうものなんじゃないのかな」


 保護欲。


 つまり、


「生きるのに便利な誰かを得るために」

「多分」


 ルヴェがうなずいた。


 ――たしかに、それがこの赤ん坊に必要なものだとするなら、目的はそれしか考えられない。

 飲まず食わずで生きられたって、それだけで赤ん坊がたった一人で生活するのは無理がある。


 外敵に襲われることは、その不可思議な能力で防げるかもしれない。なら、それをそのまま、誰かを自分の手足にしてしまうことにまで考えがいったっておかしくないだろう。


 自分を守り、育ててくれる庇護者。

 “親”だ。


「まったく無関係の相手に、自分の親役をつとめさせる。托卵、とはちょっと違うか」

「似たような話なら、幻惑の得意な種族の話とかで聞いたりするよね。ほら、妖精の人惑いとかさ」

「でも、この子は妖精じゃない」


 ルヴェは苦笑して首を振った。


「その子がなんなのかは、あたしにもわかんない。でも、なにかの子どもなんだと思う」

「……誰かじゃなくて?」

「うん。“なに”か」


 含んだ言い方が、少し気になった。


「町の連中が暴れだしたり、俺たちが気分が悪かったりしたのは? ただの偶然にしちゃ、タイミングが出来すぎてる」

「そっちはもっと個人的な意見だけど、い?」

「ああ」

「瘴気じゃないかな。ここの町の土とか、水とか食べ物。瘴気まじりなのを嫌がって、拒否反応がでたんだと思う」 


 瘴気は循環しない魔力、穢れた成れの果てだ。

 それに敏感な反応を起こすのなら、この赤ん坊もそうしたものに近い存在だからなのだろう。


 だが、それだけではまだこの赤ん坊の正体はつかめない。


「他には?」

「あたしにわかるのは、そんなとこ」

「結局。謎の赤ん坊ってことか」

「そうなんだよ」


 申し訳なさそうに肩をすくめる相手に、俺は目を閉じて。


「――なら、君は?」


 暗い視界のなかで、


「ルヴェ。君はいったい、何者だ」


 アカデミーにいた頃とまったく変わらない相手へ、その正体を問いかけた。


 返答を聞くときに姿を見れば、それに惑わされるかもしれない。

 目をとじて相手からの答えを待って、いつまでたっても相手からの声がやってこないのに、ちらと目をあけると。


「そんなの、あたしはあたしに決まってるじゃん!」


 五年前の姿をした彼女が、五年前とおんなじ笑顔で笑っていた。

 明るく、自信に満ちた表情で俺を堂々とみすえて、


「一緒にアラーネ先生のとこでお世話になってたルヴェだよ。それ以外に見える?」


 だからこそ。

 そのとおりにしか見えないからこそ、この場合は問題だった。


「若く見えるったって無理があるよな」

「まぁね」


 ルヴェは困ったように鼻をかいて、


「その子の近くにいると、ちょっとずつそうなるっぽくて」


 俺は一瞬、眉をひそめてから。

 ぞっと全身から血の気がひくのがわかった。


「他人の年齢を、食う?」


 困ったような、笑っているような。

 あいまいな表情で答えない、ルヴェのその沈黙が俺への回答になっていた。


 ――なにも食べず、なにも飲まない生き物なんていません。


 そうスラ子は断言した。


 なら、この赤ん坊は“なに”を食べてるんだ?

 いったいどこから。いや、“誰”から。


 腕のなかで眠る赤ん坊に目をやって、


「マギ、やめて」


 やんわりと制止された。

 強張った顔を上げると、ルヴェは落ち着いた表情で微笑んでいる。


 彼女がどうしてそんな顔をしていられるのか、俺には理解できなかった。


「……ルヴェ。この子は危険すぎる」

「そうだね」

「食われてるんだろう。これからもそばにいれば、食われ続けるんだろ」

「うん、わかってる」

「だったら。どうして――」


 平然とうなずく、彼女が俺には理解できない。


 いや、多分ルヴェは今この時も、赤ん坊にあやつられているんだろう。

 そうじゃなきゃ、こんなふうに落ち着いていられるはずがない。


 本当に目の前にいるルヴェが俺の知っているルーヴェ・ラナセで、この赤子のせいで少しずつ確実に若返り続けてるっていうんなら。

 その終着にあるのは、死よりもっとひどいことになる。


「操られてるんだな」


 ルヴェはにっこりと笑って、


「違うよ」

「自分の意志だってのか?」

「どうすれば自分の意志なんて、証明できるかわかんないよ」


 冷静な指摘に唇をかみつぶす。


 たしかに、ルヴェがいったとおり、そんなものの証明は不可能だ。

 彼女が魔法であやつられているだけなら、それを解いてしまえばいい。


 しかし、魔法を使われている痕跡がない。少なくともスラ子に気づけない以上、他の俺たちがそれに気づけるはずがない。


「――殺すべきだ」

「絶対ダメ。たとえマギだって、許さないから」

「どうして」

「拾ったから」


 ルヴェはいった。


「拾っちゃった以上、あたしがその子が親だもん。操られてるとかどうとか関係ない。その子の責任は、あたしがとる」


 ちらりと俺の胸元のスラ子に目を落として、彼女は笑った。


「マギだって。そうでしょ?」


 さらりと告げられた台詞に、息がつまった。


 スラ子はエルフや竜から危険な存在だと言われ続けている。

 だからって、俺にスラ子を殺したりできるか?


 ――できるわけがない。


 ルヴェにとってこの赤ん坊が、俺にとってのスラ子だっていうのなら――たしかに、彼女のいうとおり、俺にはこの赤ん坊を殺すようなことはできなかった。


「……もし」

「なに?」

「もし――この子が」


 そう聞いてしまったのは、きっと俺の甘えだろう。

 自分とおんなじ境遇の、自分よりはるかに立派な相手に、聞いてみたかったのだ。


「将来、とんでもないことをしでかしそうになったら。どうするんだ?」


 俺の首にしがみついたスラ子が、びくりと震えた。 

 顔をあげられずに震えているスラ子をみてから、俺に視線を戻して。


「そんなの、決まってるよ」


 ルヴェの表情は変わらない。

 堂々とした笑顔のまま、


「子どもが粗相をしたら、叱ろうよ。間違ったことをしそうなら怒って、間違ったことをしないようちゃんと躾けてあげなきゃ」

「叱れるのか?」


 操られているのかもしれないのに。


 だが、ルヴェはそんなこと一切関係ないといった態度で胸をはり、


「叱れるよ。だって、あたしはその子の親なんだから」


 自信満々にいいきった。

 その姿は間違いなく、俺が知るルーヴェ・ラナセだった。


 五年前と変わらないのは外見だけではなく、その考え方も、無茶な理屈も変わらない。

 俺が憧れていた、彼女のままだ。 


「一緒にいたら、死んじゃうのに」

「誰だっていつかは死ぬし、親は子どもより先に死ぬもんでしょ」


 あっけらかんとした回答に、俺はそれ以上の口論をあきらめて。

 黙って赤ん坊を差し出した。


「ありがと」


 やわらかく受け止めたルヴェが、布にくるまれた赤ん坊を覗き込む。

 そして、


「こら。迷惑かけちゃダメじゃないか」


 小さな小さな額に、そっと触れるだけのようなデコピンを一発。じっと眼をひらいていた赤ん坊が、ふぎゃあふぎゃあと泣き出した。


 得意げな表情で俺を見るルヴェ。

 それに、俺は苦笑をかえすしかなかった。



「お話は、おすみになりましたか」


 振り返ると、ルクレティアとタイリンが歩いてやってきていた。


「……なんとかな。そっちは。首尾はどうだ」

「それなりに。帳簿などの類まではさすがに持ち出せませんでしたが――おおむね、予想通りといったところかと」

「そうだろうな」


 そして、気づく。

 ルクレティアたちの背後から離れて、コーズウェルを筆頭にした集落の連中の姿があった。


「わざわざあいつらまで、一緒に連れてきたのか」

「どうせなら一度におしまいにしたほうが、面倒も少ないかと思いまして」


 ルクレティアとタイリンが組んで、尾行に気づかないなんて間抜けをするわけがない。

 悪びれもしない態度のルクレティアに、俺はため息をついて、


「いいけどな。話はお前がやれよ」

「それは、私の好きにやらせていただいてもよろしいということですか?」


 いちいち挑発するような物言いに、うんざりしながらうなずいた。


「好きにしろ。邪魔はしない。責任は、俺がとるさ」

「けっこう。そのお言葉をお忘れなく」


 ルクレティアがわずかに口元をほころばせた。


 一同をひきつれたコーズウェルがやってくる。

 近づいたその表情は、なぜかはっきりとした怒気にまみれていた。


「――やってくれましたな」


 隠しきれない感情をにじませた口調。


 なんのことかわからないので、俺はルクレティアをみた。

 金髪の令嬢は冷ややかな微笑を浮かべている。


「なんのことでしょう」

「なにを。よもや、あの惨状をご存じないなどと」

「一体なんのことかわかりませんけれど」


 怒りに顔を染めて詰め寄る男に、あくまで平然としたままルクレティアがこたえる。

 コーズウェルは肩を震わせ、山手の一方を指差して、


「山畑が燃えています。周りにまで燃え移らないよう、まるでそこだけを狙い済ましたかのような燃え方で。そちらの仕業でないと、しらを切るおつもりか」


 うわ、と思わず声にでそうになった。


 山畑というのは、ハシーナを栽培していたあそこのことだろう。

 そこが火事に?


 スラ子とルヴェのおっかけっこに巻き込まれでもしたのか。

 集落からこっち、色んなところではた迷惑なことをしでかしていたから、偶然、流れ魔法が着弾したって不思議はないかもしれないが――そんな考えは、ルクレティアの横顔をみればいっぺんに吹き飛んだ。


 相手の醜態を愉しんでいるような、冷ややかな笑み。


 ――間違いない。犯人はこいつだ。

 この女。騒動にまぎれて、やっかいな代物を問答無用に畑ごと燃やし尽くしやがった。


「それは――お気の毒に。大変なことになってしまいましたわね。どこぞの魔物の仕業でしょうか」

「馬鹿なことをおっしゃるな……!」


 コーズウェルが声をあららげた。


「町も、ここも。火の手があちこちと続いている。全て、貴女がたが起こしたものではありませんかっ」

「そういえば、このあたりもひどい有り様ですわね。私は、今ここに来たばかりなのでどういう事態かわかりかねますが――いったい、なにがあったのです?」


 悠然とした態度で、ルクレティアがこちらをみる。

 なにを求められているかわかったが、そうそう上手く演技なんかできやしない。


 あわてて俺が口をひらく前に、


「実は、ひどい魔物に襲われてしまって」


 集落連中がやってきたのがみえたあたりで、また人肌の色合いを擬態していたスラ子がいった。


「私たち、必死に戦ったんですけれど、追い返すのがやっとで――」


 憂いの表情で首をふれば、


「いやぁ、強敵でしたねぇ。もしかしてあれが、『けるべろす』ってヤツだったのかもしれません。おぞましいほどの猛者でした……」


 すかさずお芝居に乗ったスケルが、うんうんとうなずいてみせる。


「ねえ、カーラさん。ヤバかったっすよね?」

「へ? ――あ、うんっ。ヤバかった! もう、――ヤバかったよねっ」


 カーラの態度は、いかにも慣れていなくてわざとらしいの一言につきた。


「やあ。強かったねー。まさか伝説の『けるべろす』にこんなところで会うなんて、思いもしなかったよ!」


 ――やったのお前じゃねえか。


 ちゃっかり芝居にのっかってみせたルヴェに、ものすごくツッコミをいれたくてたまらなかったが、俺はぐっと我慢した。


 もちろん。ケルベロスなんて魔物、こんな辺鄙な場所にあらわれるはずがない。

 そんなことはコーズウェルだってわかりきっていることで、そのうえでそんな子どもでもつかない嘘をいっている俺たちを唖然としたあと、


「ふざけたことを――」


 いよいよ我慢ならなくなったとばかりに吐き捨ててから、全身の力を脱力しきったため息をついた。


「……いったいなにをしでかしたのか、おわかりか」


 哀れむような眼差しでルクレティアをみる。


「いくら貴女がメジハの町長の身内であり、やんごとない血筋の方であろうと――お嬢様のわがままなどではすみませんぞ。領主様が黙っておられると思われますか」 

「そちらの話をするのには、いささか人の耳が近くはありませんかしら?」


 からかうようにいわれ、コーズウェルは顔をしかめて自分の背後をふりかえり、


「下がれ。十歩ひいて、輪で囲め」


 俺たちをこの場所から逃がす気はない、という命令だった。

 集落の連中がさがったのを確認してから、改めてコーズウェルが口を開く。


「いったいなにをお考えか、ミス・イミテーゼル」

「簡単なことですわ。簡単な疑問です」


 ルクレティアがいった。


「ハシーナという瘴気性植物。そんなものの大量栽培が、個人の範囲でおこなわれるわけがありません。ならばコーズウェル様、貴方の後ろにいるのはどなたなのでしょう」


 眉をしかめる相手に薄く微笑みかけて、


「もちろん、第一に領主様という可能性が浮かびますが、そうとばかりとも限りません。瘴気をうみだす作物を育てているなどと、まず余所者に知られたくないはず。では、それをどうして、メジハの近くの開拓村などでしているのか。不自然なのはそこです」


 コーズウェルは黙ったままだ。

 ルクレティアが続ける。


「瘴気を自らの生活圏から遠ざける、ということは心情的に理解できます。押し付けられる方は不快ですが。しかし、現実に私どもに知られてしまっているように、余所の近くに場所をおくことにはリスクがあります。ならばその理由は? 考えられる一つは、メジハの近くでそれをやる理由があった。あるいは、栽培が、この集落を興そうという事業に途中からのっかったものであること――」


 コーズウェルの眉間に深い皺が寄った。それでも沈黙を続ける相手に、


「領主様以外の思惑が含まれている可能性があるということです。コーズウェル様、貴方はどうして私どもが領主様にお話にいかれるわけにはいかない、などとおっしゃられたのでしょう」


 ルクレティアが言葉を突きつける。

 男からの答えはない。


 苦渋にしかめられた中年の男を冷笑で撫でて、ルクレティアは金髪を揺らした。


「気になることは他にもあります。そもそも、ハシーナなどという代物をいったいどこから手に入れたのか。私は王都で魔道を学んでおりましたが、そんなものが流通しているどころか、その存在さえ聞いたことがありませんでした。裏道であれば手に入る、というものでもないはずです」


 視線がちらりと俺を見て、


「人間社会にはその存在さえ知られていない。ならば考えられるのは、それ以外の相手との口利きでしょう。コーズウェル様。貴方がたは、魔物との取引をなさっていますわね」


 コーズウェルが、観念したように頭を振った。

 まったく立場も生き方も違う相手に、俺は共感する気分で息を吐いた。


 人間と魔物との取引というのは、昔からないわけではない。

 エルフなどのように、昔は友好的な関係を築いていた種族もいるし、今でもそういった関わりが続いているものもある。


 だが、それは大抵の場合、個人範囲での話だったり、その場限りのものだったりだ。

 その大きな理由の一つは、間違いなく社会体系の差。


 強さこそが全てという共通概念が認められた魔物社会では、友好的な交換という制度が成り立ちにくい。欲しいなら奪え、だ。


 だが、俺は知っている。

 そうした弱肉強食を是とする魔物社会のなかで、人間のような社会体系の構築を模索しているような一団が存在していることを知っている。


 それは多種多様な魔物たちのなかに存在する、ほとんど唯一の共同体組織。


 アカデミー。


 ――コーズウェルとその背後にいる誰かと、アカデミーが繋がっている?


「魔薬と呼ばれる代物。魔性植物として有用であり、人の身体へ強い害を持つ。常習性。依存性。なるほど、一個の経済資源として、色々と興味深いところではあります」

「……ミス。貴女は本当に、色々なことをご存知のようだ」


 慎重な口調で、コーズウェルが重々しく口を開いた。


「ならばこそ、軽率な言動は慎まれるべきだった。そこまでお知りである以上、もはや退くことは叶いませんぞ」


 脅しつける表情に、ルクレティアはくすりと笑った。


「そんなつもりがなく、このようなことを軽々と口にのぼらせるとでも?」


 ちらりと視線を俺にむける。

 文句はありませんわね、と問いかける眼差しに、俺は鼻を鳴らして応えてみせた。


 わざわざルクレティアに念をおされるまでもない。

 目の前の事態は、アカデミーに所属している俺にとっても他人事ではなかった。


「ならば。やはり私は、貴女様がたをこのまま自由にはしておけません」


 コーズウェルがいった。

 周囲を取り囲む村人連中に合図を送ろうと、手をあげかけたところに、


「そうして、唯々諾々と処罰されることをお望みですか」


 ルクレティアの言葉が、その動きを止めた。


「……なんですと?」

「コーズウェル様。貴方様の預かる大切な畑は、不幸な事故により失われてしまいました。ここで私どもを捕らえようと、その失態で責任を問われることは変わりません」

「これは、また」


 男が嘲るように頬を震わせる。


「わかりやすい命乞いですな。確かに、私が咎を受けることは変わらないでしょう。だからといって、貴女がたを見逃す理由などあるはずもない」

「見逃す?」


 ルクレティアが可笑しそうに笑った。


「とんでもありません。私は、貴方を助けてさしあげますと申し上げているのですわ」


 コーズウェルの眉があがった。

 内心の動揺を隠そうとゆっくりとそれを下げながら、胡乱な眼差しになる。


「助ける、とは」

「私どもはこれからギーツに向かいます。そこでは今回の件も、もちろんそのなかで話題になるでしょう。領主様、あるいはそれ以外のどなたか。そこでの話次第では、コーズウェル様の責を問わないということも考えられるはずです」


 突然の申し出に、コーズウェルは唇を歪ませた。


「馬鹿馬鹿しい。絵空事のようなことをおっしゃるな。この場を逃れた後、私などの命を助ける理由がありますまい」

「理由はあります。こちらにくだりなさい、と申し上げているのです」


 率直な台詞。

 これにはさすがのコーズウェルも、しばらく絶句していた。 


「……いったい、なにを言っているかおわかりなのか。くだれ、などと。なにを勘違いを」

「勘違いをなさっているのはそちらですわ」


 男の言葉をさえぎり、ルクレティアが冷ややかに告げる。


「私は、お願いをしているのではありません。助かりたいならそうしろと、言っています。コーズウェル様。まさか私どもが、この場から逃げ出すこともできないと本気でお考えですかしら」

「はったりでしょう。逃げられるなら、とっくに逃げて――」

「その結果、貴方様は縛り首に。それではもったいないと、生きる機会についてお話しているつもりです」


 コーズウェルが黙り込んだ。

 ルクレティアが嘘をいっているつもりではないことは、わかるはず。


 目の前の相手の正気を探るように、


「理解できませんな。どうして、そのようなことをする必要があります」

「これからギーツに向かうにあたって、協力者がいて悪い理由はありません」

「私が裏切ることはお考えにならないのですか? 私に、貴女様を信じる理由も、助ける動機もありはしません。私一人が責を逃れるためになんとか許しを得ようと、領主様に告げ口をするに決まっているではありませんか」

「むしろ、全力でそうするべきでしょう」


 まったく平然と、ルクレティアは男に言い放った。


「私どもの行いが必ずしも実を結ぶとは限りません。貴方様は貴方様で、自分が生き残るために必要な手立てをとるべきです。そのために私たちが利用できるというなら、いくらでも利用するべきでしょう」

「命を助けておいて、裏切ってかまわないとおしゃるのですか」

「裏切りもなにもありません。これは共闘です。互いに生き残るために、互いを利用するだけですわ」


 ――うまい。


 ルクレティアの話の持っていきかたに、俺は内心で感心していた。


 このコーズウェルという男、そうそう自分の掲げる旗をかえるような人物にはみえない。

 裏切れなどといったところで、あっさりうなずいたりはしないだろう。


 だが、あくまで裏切りを前提とした薄っぺらい関係なら、コーズウェルにもそれを了承する理由がある。

 不逞な考えをいだく連中を糾弾するために、あえて話にのったという口実ができたのだから。


 一方、ルクレティアはルクレティアで、情報源とまだ見ぬ黒幕へのつながりをもったことになる。

 もちろん全幅の信頼なんておけないから、あとは互いの腹の探り合いだ。


 心酔させることや、脅迫すること。

 金で買収することだけが、他人を動かす手段じゃあない。


 ハシーナの畑を燃やしてコーズウェルの退路をたったうえで、いかにも生きる望みのありそうな可能性を提示する。

 あくまで相手の立場を尊重して、味方にひきいれることもなく、相手の行動を誘導する。


 ……つくづくおっかない女だ。怖すぎる。


 俺とまったく同じ感想を抱いたのだろう、コーズウェルはなにかを仰ぎ見るような恐々とした面持ちで、


「……ミス。貴女は――本気で、領主様にたてつこうとお考えなのか」

「さあ、それはどうでしょう。果たしてそこまでの胆がありますかどうか」


 ルクレティアは微笑み、また俺をみるが、そんな目でみられてもどうしようもなかった。

 渋面しか返しようがない。


「それも含めて、私たちはギーツにむかわなければなりません。コーズウェル様、そちらはそちらで生きようとなさればよいのです。そこでの選択を間違わなければ、貴方は生き延びることだけでなく、成功を得ることもできるでしょう」


 なにかを予言するようにルクレティアはいった。

 言下に自分たちへの協力を要請する暗示を含んだ言葉に、コーズウェルは苦笑を浮かべて、


「恐れ入りました。――確かに、ただ罪に問われて絞首刑に終わるよりは、いささか可能性を信じてみたほうがよいようだ。貴女の口車にのりましょう、ミス・イミテーゼル」


 ただし、と続けた。


「私はあくまで領主様に仕える身。それに刃向かうような真似には協力いたしかねる。その点、ご承知いただけますかな」

「けっこうですわ。どうぞ気兼ねなく、ギーツではこちらを糾弾なさってください」

「始めから、承知の上というわけですな」

「もちろんです」


 コーズウェルは、今度こそ感嘆しきったため息を吐きだすと、手をかかげた。大きく円をかいて振ると、距離をとってこちらを囲んでいる村の連中が、手に持った武器をおろす。


 そのまま、コーズウェルを先頭に集団が山をおりていくのを見送って、


「……凄いな、お前。ルクレティア」


 たった一人で二十人からの集団を追い払ってしまった。

 手放しで賞賛するしかない俺に、ルクレティアは特に嬉しそうでもなく肩にかかったぼさぼさの金髪をはらって、


「この程度、たいしたことではありませんわ。ご主人様」


 まったく可愛げのない態度でいった。


 ◇


 数日をイラドの集落で過ごして、俺たちは出発の準備をととのえた。


 山にある畑は燃えてしまったとはいえ、集落に薄くはびこっていた瘴気の影響はまだ残っている。

 できればすぐにでも離れてしまいたかったが、集落の人たちを無視するわけにもいかなかったし、なによりスラ子とルヴェが壊した家屋だってけっこうあった。

 それを全部『けるべろす』のせいにするわけにもいかず、ルクレティアの手はずでメジハから水や食料、木材などの用意を整えるのを待っていたのだった。


 瘴気の影響で体調が悪化し、竜の呪いなどではないかという噂までたっていた村ではハシーナの栽培が中断し、このままいけば瘴気の悪影響も少しずつなくなっていくはず。

 だが、それも全てはこれから次第。


 俺たちがギーツにいき、そこで今回の件を計画していた誰かさんと決着をつけなければおさまらない。

 それに、話をつけないといけないのは、領主たちだけではなかった。


「……本当に、いくのか?」


 出発の準備をおえた馬車の前で、俺は同じく旅装をととのえた相手に訊ねた。


「うん。水も食料ももらったし」


 赤ん坊を抱えたルヴェが答える。


 あの日以来、夜に村人が徘徊するという事態はおさまっている。

 ルヴェの抱える赤ん坊が関係しているらしい、そのことが収まった直接の原因が、山のなかのハシーナ畑がなくなってしまったことにあるのか、それ以外なのかはわからない。


 わかるのは、その赤ん坊がやっぱり正体不明だということ。

 その正体不明の赤ん坊を抱えたルヴェも俺たちと同じく集落をでようとしていた。


「やっぱり、一緒にいかないか。途中まででもそのほうが」


 その提案はすでに断られたことだったが、なんとなくもう一度訊ねてしまう俺に、ルヴェは困ったように笑って首を振った。


「また迷惑かけちゃうかもしれないし」


 肩をすくめて、


「アカデミーもさ。なんだか頼っていいかどうか微妙な感じだしさ。だったら、もうちょっと様子をみてみようかなあって」

「そっか……」


 アカデミーがハシーナの栽培に関わっているかもしれない。

 その可能性は、俺とルヴェにアカデミーの今の在り方について不審をいだかせるのに十分だった。


 ……それに。脳裏にコーズウェルとのやりとりを思い出す。


 あくまで領主側の立場として、俺たちと一時休戦のような関係を結ぶことになったコーズウェルは、俺たちに情報をもらそうとはしなかったが、少しだけ教えてくれたことがある。


 その一つが、ハシーナの栽培について、集落にやってきた魔物の存在。

 ひどく艶めかしい美貌の、半身半蛇の女。


 ――エキドナだ。


 その名前をコーズウェルから聞いたわけでもないのに、俺は確信していた。


 ハシーナなんてものを持ち出して、領主と魔物たちとのあいだにかわされる取引。それにあのエキドナが関わっているのなら、アカデミーにいくことは逆に危険かもしれない。

 その取引に、アカデミーそのものが関わっているのかもしれないのだから。


「じゃあ、これからどうするんだ?」

「んー。まあ、とりあえず適当に、あんまり迷惑かかんないようにフラフラしてみるつもり」


 女手一つで、いったい何者かもわからない赤ん坊を抱えて、放浪する。

 そんなのやめて一緒に来ればいいのに、といいかけて、ぐっと喉元でその衝動をこらえた。


 一時の感情でいうのは簡単だ。

 でも、俺にはやらないといけないことがある。


 ギーツへいくこと。アカデミーにいくこと。

 帰ってシィたちを安心させないといけないし、ストロフライのことだって。もちろん、スラ子も。


 なんでもできるようなでかい器じゃないんだから――身の程を知れ。

 まずは、自分のやるべきことをやれ。


 ふと、服をひっぱられて、振り返るとスラ子が小さくない袋をもっていた。


「マスター。ルヴェさんに、これを」


 受け取るとずしりと重い。

 中から、じゃらりという硬い音がした。


 スラ子はにっこり笑って、


「マスターのお小遣い、三年分です」


 なにか聞き捨てならないことをきいたような気がしたが、多分錯覚だろうと思うことにして、俺はその金貨のつまった袋をルヴェに押しつけた。


「これ、持ってけ」

「ええ。いいよ!そんなのもらえないってっ」

「いいから!」


 無理やり持たせてから、


「ルヴェ。俺は、ここから南にいった、メジハっていう小さな町の近くの洞窟に住んでる。変な黄金竜が居ついている山の麓だから、すぐわかると思う」

「竜の麓? 凄いじゃんっ」

「ああ。だから……困ったことがあれば、頼ってきてくれ。しばらく留守にしなきゃならないけど、留守を任せてる連中もいるし、俺もすぐ戻るし。なにかあったら、いつでもやってきてくれ」

「おっけ」


 気安く返事をする相手の肩をつかまえて、


「本当だぞ。絶対に、頼ってくれよな」


 のぞきこむようにいった。

 きょとんと目をまばたかせたルヴェが、


「わかったって。心配性だなあ」


 スラ子と目をあわせて、二人はくつくつと笑った。


 スラ子がさがっていく。

 それを見てから、


「――あのね、マギ」


 小さく抑えた声でルヴェがささやいた。


「もしかしたらこの子、スラ子ちゃんを新しい親にしたかったのかも」

「親?」

「や、わっかんないんだけどね。なんか、そんな気がするんだ」


 自分から親を求める赤ん坊。

 今の親から、より良い親を求めるということは――考えられないことではない。


「うん。まあ、だからなんか、悔しいっていうのもあったんだけどさ。ごめんね、迷惑かけちゃって」

「ルヴェのせいじゃないだろ」


 答えながら、俺はふと疑問に思っていた。

 この赤ん坊がスラ子を新しい親にしようとしていたのなら、それをしなかったのは何故だ? 諦めたのか?


「ああ、それは簡単」


 ルヴェは俺の胸をつくようにして、


「邪魔されるってわかったから。諦めたんじゃない? スラ子ちゃんにはマギがついてて、マギにはなんだか、すごい加護があるみたいだから」


 首からさげられた黄金竜の鱗。


 ……なるほど。

 いくら不可思議な能力をつかうこの赤ん坊でも、あの黄金竜の力にはかなわなかったのか。


「多分ね。それにしても、悔しいよねえ。なにが新しい親だって感じじゃない? 胸? 胸なの、そこんとこどう思う、マギ!」

「知るかそんなことその赤ん坊に聞け!」


 胸をつかまれてがっくんがっくん揺さぶられながら、もう一つ、謝っておかないといけないことを思い出した。


「ルヴェ。スラ子のことなんだけど――」

「ん?」

「スラ子の外見のこと。ごめん、勝手に借りたりして」

「ああ、そんなこと?」


 ルヴェはあっさりと笑って、


「スラ子ちゃんは、スラ子ちゃんでしょ?」

「……そうだな」

「まあ、あの胸はあたしに対するあてつけと思わんでもないけどねー!」


 がっくんがっくん揺さぶられた。


 誤解だ。勘違いだ。

 弁明する間もなく頭の中身をシェイクされて、


「それにしても。お互い、大変な子どもを抱えちゃったもんだよねえ」


 ようやく手をはなしてくれたルヴェが、しみじみといった。


「……まだ結婚もしてないってのにな」

「そんなのあたしだってしてないし! ていうか、マギはさぁ――」


 ちらりと俺の背後をみてから、人の悪い表情で笑った。

 ぐいっとちょっと近すぎるくらい顔を近づけて、


「ま、程ほどにしときなよね。あんないいコたち泣かせたら、罰あたるよ?」

「そうシマス」


 背後からなにかのプレッシャーを感じながら、厳かに答えた。


 ふと、彼女の腕のなかの赤ん坊と目があう。

 相変わらず、まばたき一つせずこちらをじっと見つめている。


 ……不気味だ。


「ルヴェ。そういやこの赤ん坊、名前はないのか?」


 今まで呼んでいるところを聞いたことはなかったが、まさか名無しってわけでもないだろう。


「ん? あるよー」

「なんていうんだ?」

「うん。マナっていうの」


 へえ、となにげなくうなずきかけて。


 ――マナ?

 思いっきり顔がゆがんだ。


 マナとはすなわち魔力。

 この世界に満ちて、流れる全て。事象の源。この世界そのもの。


 いったい、どうしてそんな名前を――


 だが、その質問をしかけた俺に意味ありげに片目をつぶり、ルヴェはひょいと俺のそばから離れてしまい、


「あはは。じゃ、またねっ。みんなも、また会おーねー!」


 ぶんぶんと手を振り、赤ん坊を抱えて歩いていく。


 その足取りはどこまでも軽く。

 別れを惜しむ様子なんて微塵もない。


 最後の最後まで、彼女は彼女らしかった。


「……マスター」


 俺の横に立ったスラ子が、なにかいいたそうな顔でこちらをみつめている。


「どうした?」

「その、よろしいんですか? ……ルヴェさん、このまま行ってしまって。今度は、いつかなんて――」


 スラ子のいったとおり。


 今回、偶然にも五年ぶりに再会できたように、またルヴェと会えることがあるかなんてわからない。

 俺もルヴェも、そんなに平穏な世界に生きているわけじゃなかったから、もう二度と会えないかもしれない。


 永久の別離になるかもしれない。

 その相手を見送って、なんの心残りもないかといえば――そんなことはなかった。


 だから、俺は視界を振り返ることなく歩み去る相手にむかって、


「ルヴェ!」


 大声で呼びかけた。


 長髪をなびかせて歩く、彼女が振り返る。

 ん、と首をかしげる小さくなった姿に、


「――俺たち、友達だよな!」


 問いかけた。

 大気を伝播して声が届くのに一瞬、


「ばーか!」


 かえってきたのは即答。


「そんなこと、今さら聞くなー! あったりまえでしょ、そんなの!」


 大きく手を振りながら、ルヴェは去っていく。


「……いいんですか?」

「ああ、いいんだ」


 ――五年前の自分には、意気地がなくて聞くことすらできなかったその質問。

 それを聞くことができただけで、俺は十分に満足だった。


 横から、じっとスラ子が俺を見つめてきている。


「どうした?」

「いえ……」


 スラ子は小さく頭をふって、迷うように視線をさまよわせてから、


「カーラさん」


 馬に水を与えている相手に振り返って、


「ん? なに?」

「――昨日は、ごめんなさい」


 ぺこりと頭をさげる。


「怪我させちゃって。それから、勝手なこともいって。ごめんなさい」

「いいよ、そんなの」


 あわてて首を振るカーラに、スラ子はじっと凝視するように視線を固定させる。

 隣から見守る俺は、スラ子の表情がわずかに緊張しているのに気づいていた。


「……あの」

「ん?」


 スラ子は、珍しくもごもごといいよどんでから、


「――友達に、なってくれますか」


 顔を真っ赤にして、いった。

 いわれたカーラはきょとんと目をまばたかせて。


「もちろんっ」


 にっこりと微笑んで、手をのばした。

 スラ子がそれにためらいがちに応えて、――きゅっと握手する。


 スラ子にはじめてできた友人。

 こんなふうに、スラ子に少しずつ俺以外が増えればいい。


 嬉しい気分で見守っていると、


「でも」


 恥ずかしそうに、スラ子はわざと表情をきっと鋭くつくって、


「負けません。マスターは、私のマスターです」


 ――わかってねえ。


 けれど、それを聞いたカーラはなぜかとても嬉しそうに笑って、


「ボクも負けないよっ」


 奇妙な友情と、それから敵愾心。


 それを眺めている金髪の令嬢の冷ややかな視線に気づいた。

 俺の視線に気づいたルクレティアが、不快そうに顔をしかめてそっぽをむく。


「なんだよ」

「なんでもありません」

「ルクレティアさんも、間にはいってこられてはいかがです? あの二人だけで燃え上がられても、お嫌でしょう」


 スケルがからかうようにいった。


「私は、別に――」


 眉をつりあげかけて、ルクレティアはそこで俺にちらりと目線をやって。はあと嘆息した。


「……なんですか、その馬鹿面は」

「悪かったな。生まれつきだ」

「つくりではなく、表情をいっています。ご両親のせいになさらないでください」


 ひでえ。


「状況をおわかりですか。これから私たちがしようとしていることは、生半可なことではありません」

「わかってるよ」


 アカデミーにいく途中、ルクレティアを降ろすためにちょっと寄るだけだったつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった。


 どうして領主たちがハシーナなんてものの存在を知って、それを栽培しているのか。

 いったい、アカデミーとどういう関わりを持っているのか。


 それをたしかめるために、


「いこう、ギーツへ」


 仲間たちに、声をかけた。


                                                 6章 おわり

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