十三話 先指す意思の故
「――ほら。やっぱり、私は間違ってなんかいないじゃあないですか」
泣き叫ぶ赤ん坊を胸に抱え、足元に崩れ落ちるカーラを見下ろしたスラ子がいう。
得意げな表情で笑み、ちらりと俺のほうに視線をむけて、眉をひそめた。
「マスターっ、怪我が……待ってください。すぐに、今」
スラ子が手をかかげると、淡い輝きが俺の右腕をつつみこんだ。
ズキンズキンと脳天までうずくようだった痛みが、たちどころに消えていく。
全体がほとんど焦げついていた傷もみるみる塞がっていって、痛みがまったく残っていないわけではないが、ほとんど無視できるほどになった。
呆れるほど鮮やかな治癒。
それに対して礼をいうことすら忘れたまま、目の前の相手をみすえる。
スラ子は、俺の腕の具合を確かめるようにしてから安堵の息をはき、すっと表情を冷たいものに変えて視線を俺の後ろに飛ばした。
「怪我、させましたね」
敵意のこもった眼差し。
蒼い炎のような色の魔力がゆらりと立ち昇った。
「……スラ子」
「よくも。私のマスターに――」
「スラ子っ」
背後のルヴェがなにかを答える前に、言葉を強めてスラ子の注意をこっちにむけさせた。
「傷は、ありがとう。助かった。でも、ルヴェは悪くない。俺が自分で馬鹿をやったんだ」
「違います。マスター、そうじゃありません」
スラ子が首をふる。
「マスターを傷つけようとする人は悪い人です。マスターを傷つけた人は、それだけで悪い相手です」
なら、そこに倒れているカーラは。
無言の非難の眼差しに、スラ子はちらりと自分の足元に視線を落としてから、
「……邪魔をするからです。私は、マスターのためにしようとしてるだけなのに。それに、」
ぱっと明るい表情になって、
「大丈夫です。きちんと、手加減はしておきましたし。それに。もし死んでしまったとしても、すぐに生き返らせてあげられます」
平然としたスラ子の表情を凝視するように見つめて。
俺は強張った全身から無理やりに力を抜きながら、おそるおそる訊ねた。
「本気でいってるのか?」
「もちろんです」
スラ子はにっこりと微笑んだ。
「平気です。無理なんかしません。スケルさんのときみたいに、マスターを心配させるようなことも。今なら私が使える力だけでも、誰かをつくりなおすことくらい余裕です」
あっさりといってのける。
その表情が、まるでいつかの洞窟の地下で実際にそう“やって”みせたストロフライのそれに見えて、ぞっとした。
――ストロフライのような。
柔らかく微笑むスラ子は、まさしく超越者じみた口振りだった。
そうあろうと意気込むのでもなく、無意識のうちにスラ子がそうした態度になっていることが俺にはなにより恐ろしく、喉元にせりあがる感情が外にでないよう、奥歯をこすりあわせる。
「……まるで、竜だな」
「はいっ」
スラ子は素直に嬉しそうにうなずいた。
「竜になってみせます。マスターのためになら、なんだって」
この世界に生きるどんな生物よりも飛び抜けた存在である、竜を目指す。
以前にも聞いたことがある台詞は、そのときは半ば冗談にしか受け取っていなかったけれど。
今度のそれは、まるで実現することが決まりきっている予言をきくような、そんな不吉さをともなって耳に届いた。
脳裏にある場面が浮かび上がる。
絶対的な王として君臨する黄金竜の前にあらわれる、もうひとつ。
不定形の行き着く先としての“竜”。
スラ子がストロフライに害を及ぼす可能性を口にした若い黒竜と、むしろそれを待ち望んでいるかのようですらあった幼い黄金竜の笑みを思い出す。
竜と“竜”の戦いで、しかも竜族のなかでも普通の存在じゃないストロフライと、それに見合うだけの相手が正面から争ったりしたらどうなる?
ただごとですむわけがない。
笑い事でもなければ比喩でもなく、世界がヤバイ。
今さらながらに俺は理解していた。
スラ子という存在は、たしかに――この世界だって滅ぼしかねないのだ。
「竜になんて、ならなくていい。ならなくたっていいさ」
声を抑えながらいうと、スラ子は不思議そうに首をかしげた。
「どうしてですか?」
「どうしてって」
「マスター、おっしゃったじゃないですか。竜になれないって。だから、私がなるんです。マスターじゃなくて、私が」
確信に満ちた表情で、
「マスターができないことは全部、私がやります。私は私だって、そういうことですよね。そうすれば……私、マスターの傍にいてもいいですよね?」
最後に少しだけ不安そうになるスラ子には、きっとこのあいだの一件が影響しているのだろう。
スラ子は俺じゃない。
スラ子は、スラ子だ。
だけど、スラ子が俺の役に立ちたい一心で竜を目指すだなんていうのなら。それは結局、おなじことだ。
相変わらず、スラ子のなかにはぽつんと俺がいるだけだ。
そうだ、と両手をあわせたスラ子が、
「カーラさんを生きかえすことがあれば、その時には、狂暴化の癖もでないようにしてあげちゃいましょう。そうすればカーラさんも、もうそのことで悩まなくてすみますし――マスターも、安心してカーラさんのことを可愛がってあげられますもんねっ」
「……そんなの、いらない」
声は、スラ子の足元から。
ふらりとカーラが立ち上がる。
あちこちが切り裂かれた服。全身にも裂傷をつくって、表情はこちらからはうかがえない。
だが、その視線はきっとまっすぐに相手を見据えているのだろうと、俺には容易に想像できる気がした。
「そんなのは。いらないよ……」
「どうしてですか?」
「だって――そんなの、ボクじゃないから」
はっきりといった。
「ボクは弱っちくて、すぐに暴れて。マスターや他のみんなに迷惑かけちゃうけど。でも、それがボクだ。強くなりたい――けど。それ以上に、そういう自分から逃げたくない」
カーラに向けられた静かな双眸がわずかにゆがんで、揺れる。
それが悔しそうな表情にみえたのは、果たして俺の気のせいか? ……いや、そうじゃない。
「……それなら」
なにかを押し殺した声でスラ子がいう。
「邪魔、しないでください。カーラさんがカーラさんでいたいように。私は、私でありたいんです。私じゃなくちゃいけないんです」
悲痛さのこもった台詞にカーラは頭をふって、
「その子を殺そうとするのが、……スラ子さんらしさじゃないよ。マスターだって、」
「だから――」
スラ子の顔色が変わった。
「あなたが、マスターを語らないでっていってるじゃないですか!」
魔力がはじける。
暴走気味に生じた衝撃がカーラの身体を吹き飛ばし、悲鳴すらあげられずに地面を転がっていく。
地面に突っ伏してぴくりとも動かない。
「カーラ!」
慌てて駆け寄ろうとした俺の目の前で、カーラの身体が震えた。
「――う、っくぅ!」
くぐもった声がもれる。
ざわりと肌を粟だてるなにかの気配が、既視感を呼び起こした。
まずい。暴走化か――?
こんな場面でカーラまで暴れだしたりしたら、収拾どころじゃなくなる。正気を取り戻させようと肩を抱き起こしたカーラの眼差しは、しかし決して自分を見失ってはいなくて、
「大丈夫、です……っ」
噛みしめた唇から血が流れている。
それは衝撃を受けたときや、地面を激しく転がった際にできた傷じゃない。
今まさに自分のなかから沸きあがる狼の衝動と戦いながら、カーラがいった。
「絶対に――。負けませんから……!」
俺の助けを跳ね除けるように、立ち上がる。
それをみるスラ子は立ち尽くしている。
赤ん坊を連れて逃げるのでも、状況を見守っているルヴェに襲い掛かるのでもない。
どうすればいいかわからない様子だった。
スラ子はきっと、混乱している。
その内面を象徴するように、スラ子が周囲にまとう魔力光がゆらゆらと不安定にゆらぎはじめていた。
「やめて……」
震える声でいう。
「やめてください。――私の場所を、とらないで」
切実な声には、恐れすら含まれているようだった。
「私が私でいるためには、マスターのそばにいないといけないんです。マスターのそばにいるためには、なにかできないと――」
ふと、視界の端に白いもの。
いつのまにか、スケルがやってきていた。
闇のなかに立ち、辛そうにスラ子をみつめるスケルに気づかずにスラ子が続ける。
「私になにがあります? カーラさんは健気で。ルクレティアさんは頭が良くて、立場もあって。シィやドラちゃんは可愛らしくて、守られて。スケルさんみたいに昔からのつきあいが、信頼があるわけでもない。姿形だってルヴェさんから借り物の、いったい私になにがあるんですか?」
「スラ子」
呼びかけを振り払うように、スラ子は大きく頭をふった。
「だから、私は。他のみんなに出来ないことを出来ないといけないじゃないですか。私が私であるために――マスターや、カーラさんたちには出来ないことを、やってみせないといけないじゃないですか。それのどこが、いけないっていうんですかっ?」
ここまで感情をたかぶらせるスラ子は、はじめてだ。
きっと今までずっとずっと溜め込んでいたんだろう不安を爆発させて、スラ子はすがるように俺をみた。
「――マスター。私、間違ってませんよね? 私、マスターのためになってますよね?」
その質問に答えることが、とても危険だということはわかっていた。
けれど、そこからいつまでも逃げていたって、なにひとつ始まらないこともわかっていたから、
「……スラ子。俺も、お前は間違ってると思う」
一瞬。
スラ子の表情からすべてが抜け落ちて。
世界が震えた。
◇
鳴動する。
大気が、大地が。あたりにあるもの全てが、引き起こされたように声なき叫びをあげはじめていた。
足元がおぼつかない。
それは地面が激しく震えているせいだけではなくて、
「これ、は――」
自分の体内からも同時に巻き起こる、その得体の知れない感覚に、寒気にも似たおぼえがはしる。
魔力反応――?
属性を問わず、対象を問わず。
マナという概念のなかにくくられる全てが、なにかの影響を受けて励起していた。
その中心に自然と視線が向かう先にいるのは、スラ子。
「――――」
不定形の生き物は、青く澄んだ輝きを天に向けて伸ばしている。
スラ子の抱え込む魔力の光が、どんどん透明度を増していく。
それに反比例するように、周囲への圧力を増していくように気配が膨張していった。
目の前で起こっている事象が、いったいなにを意味するかはわからない。
だが、それがとてつもないことの始まりを告げるものであるということだけは、頭ではなく肌で理解できていた。
“世界の敵”
まったく唐突に、その台詞を思い出す。
エルフや竜。
彼らから聞かされた不吉な予言。
それが成就しようとしているのが、今この瞬間こそなんじゃないのか?
予想以上の事態に立ち尽くしていると、そっと隣から誰かに触れられた。
振り向くと、青ざめた顔が俺をみつめている。
「カーラ、」
「……いきましょう、マスター」
情けなく震えきった俺の声を笑ったりせず、人狼の少女は力強くうなずいた。
「スラ子さんを止められるのは。マスターだけです」
ぎゅっと手をにぎられる。
昔、俺は自分とカーラが似たもの同士だと道具屋のリリアーヌ婆さんにいったことがある。
どこが同じだ。
カーラは強い。俺なんかより全然。
でも、俺をにぎった手は、俺とおんなじように震えていた。
その手を握りかえして、
「……ありがとう」
カーラは強張った表情を無理やりほぐして、笑った。
「お礼は、ギーツについてからで。ボク、マスターとデートがしたいんです」
俺はきょとんとしてから、なんだかおかしくなって笑った。
デート。なんていい響きだ。
なにより素晴らしいことは、それが世界が存続していないと始まらないことだった。
「それ、いいな」
「――ボクが先に。マスターは、後ろから!」
周囲には滅茶苦茶な魔力が吹き荒れている。
暴風。揺れ。炎。
いくつもの自然現象が互いを煽り、ぶつかりあって相乗した結果がさらに勢いを増す。
無軌道な在り方は騒ぎの中心になればなるほど度を越していて、特にスラ子の周囲はほとんど無秩序な混沌と化していた。
飛び込んで無事にすみそうにないが、尻込みしている状況じゃない。
一刻もはやくスラ子を止める必要があることは、半ば本能から俺とカーラのどちらも承知していた。
カーラが走る。
俺の手をひいたまま。
ほとんど真っ白い光の柱に包まれながら、呆然と空を仰ぐようだったスラ子が、接近する俺たちに気づいて視線を落とした。
その顔がゆがむ。
目線は、俺とカーラのつながれた手に注がれていた。
「イヤ――」
スラ子の声。
それがスラ子自身ではなく、周囲の全てから――自分のなかから聞こえてくることに、震えた。
「……イヤ!」
閃光。
カーラが俺の手を放した。
光が瞬く。ほとんど同時、目の前に生じた稲光が横向けに流れた。
稲妻がカーラの全身を打ち倒す。
「…………っ」
カーラは声にならない悲鳴をあげ、よろけて――倒れない。
「マスター!」
咆哮。
俺はカーラの声を受け、スラ子にむかって走り出しながら腰から取り出した小袋を投げつけた。
少しだけ口紐をゆるめて投てきしたそれは、カーラの足元にぶつかって中身が散らばり、周囲のマナに反応して虹色の輝きを放つ。
一瞬の煙幕。
しかし、すぐに掻き消えてしまう。果たしてどの程度の効果があったかも定かではなかったが、そのあいだにカーラが再び駆け出している。
二方向に別れた俺たちに、スラ子が注意を向けたのはカーラのほうだった。
「あなたは、いりません!」
スラ子が叫んだ。
「マスターには――私だけが、いればいい!」
「嫌だ!」
カーラが疾走る。
スラ子の全身から、髪なのか腕なのか、判別できない触手が何本もたちあがった。
先端を鋭利な形状に変えて、一斉にカーラに襲い掛かる。
カーラは迫り来るそれらに対してひかず、速度もゆるめず、大きくかわそうとすらしなかった。
致命傷の一撃だけを狙って外し、腕や足を触手にこすらせながら距離をつめる。が、
「――っ?」
あと一歩のところまで迫った、カーラの身体ががくりと急停止した。
その場に縫いつけられたように動かない。
カーラの足元で、スラ子から発せられた光につくられたカーラの影が、不自然な気配で盛り上がっていた。
影が、身体を拘束している。
声すらあげられず動きを止められたカーラに、スラ子が手元に戻した触手を束ねて。
とらえた獲物を見る、ひどく冷ややかな眼差し。
「スラ子! やめろ!」
声をかけるが、スラ子はまるで聞こえていないように俺のほうを振り向きもしない。
「くそ……!」
スラ子の触手を防ぐ壁になろうとカーラにむかって方向転換するが、間に合わない。
触手が伸びる。
まっすぐにカーラの身体の中心を貫こうとしたその直前、誰かの人影が割り込んだ。
ずぶり、と嫌な音が聞こえてくるような生々しさで、一寸のためらいもなく触手が貫いたのは、真っ白い身体。
「……あー。やっぱ、痛いっすねぇ」
真っ白い髪の真っ白いその声は、のんびりとして聞こえた。
「スケル!」
「はいな、ご主人。どうかしましたかい?」
「どうしましたって。お前――」
何事もなかったかのようなスケルの発言にこちらが困惑してしまう。
スケルは、ほとんど生身の肉体に近い身体をもっている。
その特性は、ダメージを受けても復元できるということ。もちろんその修復能力にもどこか閾値があるはずだし、痛覚がないわけでもない。
あくまである程度の攻撃では死なずにすむ、という程度のものだ。
腹をえぐられれば泣き喚きたいくらいには痛いはずなのに、スケルはむしろ満足げな表情を浮かべていた。
ちらりと自分を貫く触手をみおろす。
スライム質の物体が元になった白い身体からは、血も流れていない。
そのまま、触手をたどるように視線をあげた、スケルの視線がスラ子のそれとぶつかった。
「……スケルさん。どうしてですか」
顔いっぱいを歪めたスラ子がいう。
「――どうして。あなたまで、邪魔をするんですか?」
「嫌ですねえ。スラ姐」
スケルはからからと笑って、
「どうしたもこうしたもありません。あっしは、こういうときのためにいるんじゃないですか。こういうときのために、あっしは作られたんでしょう。ねえ、“マスター”」
創造者を意味するその呼びかけは、俺にむけられてはいなかった。
スケルは、まるで腹に腕を貫かれていることなど忘れているかのような気楽な様子で続けた。
「自分の主の危機をとめる。そんなのは、被創造物なら当たり前のことっす。だってそうじゃないですか。ただの痴話ゲンカで知り合いを殺しちゃったりなんかしたら、あとから寝覚めが悪いったらないでしょ?」
「痴話ゲンカだなんて。私は、そんな」
「大差ありませんって」
スケルは苦笑した。
「ご主人とスラ姐のことなら、二人でどうこうすりゃいいんです。それにカーラさんやら、その赤ん坊のことをだしに使うってのは――あんまり褒められたことじゃないっすねぇ」
「……だったら。さっきはどうして」
「どうして。スラ姐はさっさとその赤ん坊を始末しちまわなかったんで?」
スラ子の台詞に被せたスケルが、物騒なことをさらりと口にした。
「ご主人の視界から消えられれば、時間なんて一瞬で事足りたでしょう。そこのルヴェさんが追ってきたからってったって、片手間でやれなかったはずありません。ようするにスラ姐、その赤ん坊のことなんてどうでもよかったってことじゃあ、ありませんか?」
真っ白い発光に包まれた全身が、わなわなと震えだす。
「うるさい、」
ぽつりとつぶやいた。
「スラ姐は、ご主人に認められたかっただけなんですよ。そりゃご主人のためとはいいません。自分のためってんですぜ」
「うるさいです!」
触手が、大きく縦に跳ね上がる。
スケルの上半身が切り裂かれた。
「っ……、――」
大きく後ろに倒れこむスケルの後ろから、身体の自由を取り戻したカーラが飛び出した。
「ああああああああああああああ!」
両の拳が光り輝いている。
凝縮した魔力を溜め込み、ミスリル銀の手甲ごと握りしめて突貫する。
それを迎えるスラ子は、瞳からぼろぼろと涙をこぼしていた。
「みんな、いなくなればいいんです! 私とマスター以外――誰だっていりません!」
無数の触手が振り回される。
拳に魔力を溜め込んだカーラが、それらを全て叩き落しながら接近して、
「ッ!」
繰り出された一撃を、スラ子はすんでのところで戻した触手の一本で受け止めた。
そのまま迎撃にうつる触手をカーラの身体をからめとろうとするが、カーラは俊敏な反応で無数のそれらをかわしきり、逆にその一本を捕まえた。
強引に引き寄せ、スラ子が踏みとどまろうとした瞬間、地面を蹴ってスラ子に突進する。
一瞬、反応が遅れたスラ子は動けない。
カーラの振りかぶった右拳が、それまで燦々と灯ってあった魔力の輝きを消して。
――ぺしり、と頬をうった。
ぽかんとするスラ子に、
「自分のこと、なんでもないなんて言わないで」
カーラが笑いかけた。
「ボクのこと助けてくれたのは、マスターと、スラ子さんじゃないか。自分のこと、何者でもないだなんていうんなら――ボクと、ボクらと友達になってよ」
スラ子が大きく目をみひらく。
「なにを……」
かけられた言葉の意味が理解できないように、あとずさる。
一歩、二歩。
目の前の存在を恐れるようにさがるスラ子に、カーラが腕を伸ばした。
「友達になろう。ボク、スラ子さんと友達になりたい」
「……そんなの、」
スラ子が、助けを求めるように俺をみた。
こくりと俺がうなずくと、唇を噛みしめて視線を戻し、激しく首を振る。
「私には。必要ありません……」
スラ子はゆっくりと、拒絶の言葉を吐き出した。
「私に必要なのは……マスターです。友達だなんて、いりません」
「ボクが、なりたいんだよ」
「いらないんです!」
スラ子の全身の輝きが増した。
全周に波動が放たれる。
真っ白い光の衝撃が、至近距離からカーラを打ち倒し、それに声をかける間もなく、一瞬のあとに俺もその衝撃に巻き込まれて。
――なんの痛みもなかった。
反射的につぶっていた目をあけると、全身が金色の光に包まれていた。
光の源は、俺の胸元から。
首から吊り下げられた、とある気さくでヤクザな黄金竜の鱗から発せられている。
俺が洞窟をでることを告げにいったとき、必ず持っていくようにストロフライに念を押されていた代物。
それが、まさかこんな事態を想定したとだろうとまでは思わなかったが。
その光が、いったい何事を成せといっているかは、その鱗から黄金竜の本体があらわれたりしないでも、わかりきっていた。
黄金色の光に護られながら、足を踏み出す。
周囲にはさらに魔力の暴走が高まり、ほとんど天変地異かというように荒れ狂っている。
しかし、ストロフライの加護に護られた俺の身にはそよ風ひとつ届かず、暴走するマナの中心にたたずむスラ子へ近づいた。
「マスター……」
途方にくれた表情が、俺をみた。
「私。どうすれば」
瞳から、また涙がこぼれている。
「私、友達なんて。私は、マスターだけがいてくれれば。それで――」
「スラ子。お前、間違ってるぞ」
その至近距離まで近づき、のぞきこむようにして、いった。
「私は! 間違ってなんか――」
「いや、間違ってる。……それに、間違っていいんだ」
首を振るスラ子に、
「俺とお前は違うんだからな。意見が違うのなんて当たり前だ。お前は俺と違っていいし、間違ったっていい。ケンカしたっていいんだ」
意見が違えば話し合えばいい。
間違っているなら、そこで話し合えばいい。
俺は俺で、スラ子はスラ子ということは、そういうことだ。
顔をくしゃっとしたスラ子が、
「私は。ケンカなんてしたくありません。マスターの役にたてて、それでずっとマスターと一緒にいれれば、それだけでいいんです」
「……そりゃ無理だ。俺は多分、お前より早く死ぬだろうからな」
「マスター!」
スラ子の表情が絶望に染まった。
スライムを元につくられたスラ子の寿命がどのくらいなのかは、俺にもわからない。
スライムという生き物は極めてシンプルだ。
魔力を糧として増殖を繰り返す。その生態は環境に大きく左右され、食べるものがなくなってしまえばそこまでだが、天敵もなく条件に恵まれればずっと長く生き永らえることができる。
ただのスライム体というにはあまりにかけはなれた存在になってしまったスラ子にも、それがそのまま適用できるわけではないだろうが、少なくともあと五十年もしないで死ぬ俺なんかよりは、スラ子のほうが生きられるはず。
別に自分の人生を悲観してるわけでも、死にたがってるわけでもない。
それはただの生物的な自然の成り行き、当然の帰結だ。
だけど、それを聞いたスラ子は嫌々するように首を振って、
「そんなこと、ありません。マスターが死ぬなんて。マスターはずっと、私と一緒です。一緒にいるんです。死ぬだなんてそんなことは、私がなにをしたって――!」
「間違ってるぞ」
スラ子はぎゅっと唇を噛みしめた。
「どうしてですか? 私なら、できます。マスターが死なないように。マスターをこの世界中の誰より強く、誰より偉くすることだって。今はできなくたって、いつかきっとできるようになってみせます」
そのためになら、竜にだってなってみせる。
理不尽の権化といえる竜にさえ勝って、自身が理不尽に取って代わってみせる。
壮絶な覚悟を秘めた眼差しに、俺は苦笑いを浮かべた。
「嬉しいけど。でも、俺はもっとわがままらしいんだよ」
「どんなことでも平気です。マスターの願いなら、なんだって」
「うん。だから、俺より長生きして欲しいんだ。お前が俺のことを大切に思ってくれてるのは知ってる。けど、俺以上に、俺のまわりのものを大切に思って欲しい」
渋面になったスラ子が、
「マスターが――死んじゃったあとも、ですか?」
震える声でささやいた。
「そうだ。ひどい話だろ」
自分より一日でも長く生きてほしい。
そんなのいわれるほうにしてみればひどい話以外のなにものでもない。
「ひどいです。ひどすぎます、そんなの……」
大粒の涙を流しながら、スラ子は肩を震わせてしゃくりあげる。
スラ子の身体が放たれるなにかの気配が、一段と濃さを増した。
荒れ狂う力の渦から俺を護ってくれている黄金色の光が、蝋燭の炎のように揺れる。
ストロフライの加護さえ突き破ってしまいそうな魔力じみた固まりに危機感をおぼえながら、泣きじゃくるスラ子の肩をだいて、顔をあげさせた。
「スラ子。お前はお前だ。お前はお前だってことは、これからも俺が何度だっていってやる。俺がいなくなったって、周りにはカーラやスケルがいる。シィやドラ子、ルクレティアが。だから、お前はお前だ。俺は死ぬまでお前のそばにいる。お前は、カーラでもスケルでも、シィでもドラ子でもルクレティアでも、もちろんルヴェでもない。お前は、お前なんだ」
つい最近、同じような台詞をいったばかりだし、今もいった。
そして、これからだって何度だっていってやる。
それこそ俺が死ぬまで。いや、死んだあとも俺の言葉がスラ子の耳に残って離れないくらい、うんざりするほどにいってやる。
――ふと、スラ子の腕のなかの赤ん坊に意識がいった。
さっきまでわんわんと泣き続けていたその赤子は、いつのまにかぴたりと泣くのをやめていた。
じっとこちらを見つめている。
まじまじと、まるではっきりとした意識を獲得しているような、その意思の透けてみえる眼差しに違和感をおぼえて、にらみつけた。
「スラ子に、なにをやらせるつもりだ」
そう訊いたのは、なにかの根拠があったわけではない。
まったくの直感で、しかしそれを否定する気分にはなれず、
「……悪いけど、こいつは俺のなんだ。困る。やめてくれないか?」
語りかけたところで、ただの赤ん坊が言葉を理解してくれるはずがなかったが。
まさにそうとしか思えない態度で、赤ん坊がすっとまぶたを閉じた。
気配が遠ざかる。
スラ子の身体を媒介にして起ころうとしていたなにかが、その勢いを収めようとしているのを感じて、俺は赤子を凝視して、
「マスター」
スラ子の声に、視線を戻す。
全身を包む輝きを淡く落ち着かせつつあるスラ子が、
「私、間違えてたんでしょうか……」
ぼんやりとした声でいった。
それまでとりついていたものが綺麗さっぱりなくなってしまった表情と声に、
「今回は、な」
俺はうなずいて、
「いいんだよ。間違えたって。お前は生まれてまだたった二月だ。俺だって、お前と出会って二月なんだ。ずっとひきこもってた俺が、間違わないなんてあるわけないだろう? 次は俺が間違えるかもしれない。そしたら、今度はお前が俺を怒ればいいさ。それでまたケンカだ。……俺は、お前がなんでもいうことを聞いてくれることより――お前となんでもケンカしあえるほうが、ずっと嬉しい」
ぐすんと鼻を鳴らせるスラ子に、もっとも、と続ける。
「……なるべく、周りには迷惑かけないようにしたいけどな」
ケンカする度に世界が危なくなってしまうのはちょっといただけない。
そんなのはどっかの竜親子だけにしてもらいたいもんだ。
スラ子は泣き顔のままくすりと笑って、
「――すみません、マスター。私が、間違ってました」
腕に抱いた赤ん坊を俺に差し出して、俺がそれを受け取ると、あらためて俺に抱きついてわんわんと大声で泣き出し始めた。