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二十一話 不定形の存在否定

 鈍い頭の隅々にまで意味が行き渡るのに数歩。洞窟まで続く山沿い道を歩いてから、地面を踏みしめる。


「……なんだって?」

“ちょいとあのスライムを消させてもらっても?” 

「な――」


 吐きかけた言葉と吸いかけた息がまざって、おかしな感じにむせた。


 あわてて周囲を見回す。

 誰もいない。そのことにほっと息を吐いてから、


「……なにを。ふざけたことを」

“自分はふざけてるつもりはありませんが”

「あほか! いや、――意味がわからない。なんで、そんな必要が」

“そりゃあもちろん。危ないからですよ”


 淡白な声が告げた。


“あれは良くない。とても、良くない。ありゃ世界を壊すもんですよ。マギさん”


 ――世界の敵だ。


 脳裏に、いつかのエルフの言葉がよみがえる。

 それを振り払うように、


「なにが。スラ子がなにをしたっていうんですか」

“本当にわからないんで?”


 竜の声に哀れむような感情がこもった。


“いいや。無知を気取るのはよしましょう。マギさん、あなたは知ってるはずだ。あれがどういう存在か”


 見透かした言葉に、これまでのことを思い出す。


 一月前にスラ子が生まれてからの様々な出来事。

 近くの湖にいた水精霊を捕食し、その力ばかりか容姿や在り方まで自分のものとして、精霊じみた力を行使する。別の精霊も取り込み、朽ちかけた遺品を媒介にしてまったく新しい存在としてスケルを生み出したりもした。


 人型のスライムなんて枠に留まらない、異常なほどの万能性。

 底が見えない。際限のない。


 果てしない“不定”。


 ぞくりと。背筋が震えた。


“家に来たとき、マギさんからの漏れが不自然だったんで気にはなってました。しかし、お嬢も暇つぶしのつもりなんでしょうが、タチの悪い遊びをやってるもんだ”


 呆れたように続ける。


“まあ、こっちの世界がどうなろうが、向こうに住んでる自分らには関係ないですがね。それでも知っちまったら放ってはおけません。万が一ってこともある”

「万が一って」

“世界なんざどうでもよくたって、それでお嬢を危険な目にあわせるわけにはいかないでしょう”


 ……ストロフライが危険?

 生きる天災。同族二匹を相手にしたって平然としていた最強無比なあの黄金竜が、危ない?


 あのスラ子が、それをやるだって?

 ――いったい、なんの冗談だ。


“竜だって不滅じゃありません。お嬢の母親がそうだったようにね”

「スラ子が、ストロフライを? そんなことあるわけないでしょう!」


 竜を目指す、という言葉をスラ子が使ったことはある。

 しかしそれはあくまで目標であって、実際にストロフライと戦うなんて意味じゃあないはずだ。


 そもそも戦う理由がない。

 いや、そんなものがあったって、俺が――


“いったいどうしていいきれるんです。あなたがさせないからですか? 残念ながらそれは無理でしょう”


 冷ややかな声が断定した。


“マギさん。あなたはいずれ、あれをもてあますようになります”

「それこそ、どうしてそんなことがわかる!」

“あなたが怯えてるからですよ”


 竜の言葉は淡々としていた。


「――怯えてる?」

“気づいてないんですかい? いやいや、そうじゃない。それだって考えないようにしてるだけだ。あなたはあれの異常性にも気づいてるし、恐ろしくも思っている。それを必死にこう考えようとしている――あいつは、俺のためにやってくれてるんだから大丈夫。とね”


 言葉に詰まる。


“あなたに尽くし、あなたのことだけを考える。決して否定せず、なんでも許し、包み込んでくれる母親のような存在? だが同時にマギさん、あなたはこうも思ってる。自分はいつか、この相手に飲み込まれてしまうんじゃあないかと”


 ――暗闇のなかから誰かが手招きしている。

 温かく、薄暗い。

 よく見知った、あの居心地のよい洞窟の奥底から、なにかが――


「俺は、」

“偉大な母性ってやつは、ときに違う側面をのぞかせるもんです。それに恐れを抱くのも別に悪いことじゃあない。でもね。だったらまず、自分の内心にあるもんをきちんと認めませんか。あなたは、あのスライムが怖いんだってね――” 


 馬鹿か、といいかけた言葉が喉につっかかって出てこない。

 声がでなくてもせめて睨みつけられればまだよかったが、自分のなかに居座っている相手にはそれさえできないことが歯がゆかった。


 俺が、スラ子のことを怖がってるだと?

 ふざけるな。

 そんなことあるわけない。


 けれど、そう声にだすことができなかった。

 相手の得意ぶった言い様を軽く笑い飛ばすことができない。それは、その言葉が俺のなかのなにかを的確に貫いているからで、


「――マスター?」


 後ろから、声。



 振り返った先に見知った生き物が立っていた。


「マスター。――そこにいるのは、誰ですか?」


 半透明の質感でかたどられた表情から、いつもの笑みをそぎ落としたスラ子がいう。

 俺はとっさのことに返答できず、それに眉をひそめたスラ子が、まっすぐこちらに向かってくる。


「スラ子、待――」

「そこのあなた。私のマスターになにをしてるんです」


 両手で顔をはさまれて目を覗き込まれた。

 俺を見ているのではない。俺のなかにいる誰かを見ているその眼差しの深々とした暗さに、ぞっとする。


“やれやれだ”


 多少、驚いた様子の竜がいう。


“お嬢も見逃したっていうのに、気づかれるとはね。今のマギさんは傍から見りゃ、少しばかりおかしな態度ではあったでしょうが――自分の声が聞こえてるわけでもないでしょうに”

「いいえ、聞こえてますよ」


 スラ子はあっさりと告げた。


「いるってわかればあとは簡単です。――マスターのなかから出てきなさい。それとも、こっちから取り出してほしいですか?」


 本当に、目の玉ごと刳り貫きそうな声だった。


「やめろ、スラ子! 痛いの反対!」

「マスター」


 ふと俺にむかって微笑んだスラ子が、


「大丈夫です。痛くしませんから」

「痛くなくても眼球摘出とか嫌過ぎるわ!」

「なるほど、目のなかにいるんですね」

「ああ、しまった!?」

“阿呆ですね”


 竜の呆れ声。


「うるさい! 俺の目が無事なうちに出て行け! いや、出て行ってください!」

“いやいや、せっかくなんでこのままでいきませんか。あいつを消しちまうんなら、そいつはやっぱりマギさん。あなたの役目でしょう”

「勝手なことを……!」

「……マスターが、私を?」


 びっくりしたように、スラ子が大きく目を見開いた。俺はあわてて、


「違う! スラ子、落ち着けっ!」

「――ええ、わかってます」


 訂正する俺に不定形の美女は慌てず騒がず、にっこりと微笑んだ。


「マスターがそんなことを考えるはずありません。私、ちゃんとわかってます」


 その自信に満ちた表情に。また、ぞくりと背筋が粟立った。


 ――なんだ、これ。

 どうして俺は、スラ子を見てこんな反応してるんだ?


“それが、あなたが目の前の存在に抱いてる感情ですよ。マギさん”


 知ったような声で竜がいう。


“あなたは認めようとしなくても、あなたの身体はもう気づいてるんです。目の前のそれが、自分にとって危ないものだってね”

「うるさい!」

「そうです。うるさいですよ、なかにいるのがどこのどなたかは知りませんが」


 スラ子の声が険悪に低まった。


「マスターは初心なんですからたぶらかさないでください。そして、さっさと出てきてください。私に話があるなら、直接私にいってくればいいでしょう」

“おや、なにか聞かされたくないことでもあるんで?”


 からかうような言葉に、スラ子の全身がざわりと波打った。


 周辺に満ちるマナがスラ子の働きかけに反応して発光する。

 それに目を見開いているうちに、足が勝手にうしろに飛んで距離をとっていた。


「マスター!?」


 スラ子の非難じみた声に頭を振る。


「俺じゃない! 身体が勝手に――それよりっ。スラ子。お前、それ……」


 九つある属性のうち、天の三属。その一つ。


 闇色の魔力光。

 このあいだまで使えもしなかったその属性を、当然のようにスラ子は身にまとっていた。


“ほうら。あれがあの生き物の正体ですよ、マギさん”


 竜がささやく。


“もうマナを知るのに精霊さえいらなくなってる。そんなのが普通ですか? 危なくないと思えますか?”

「うるさい!」


 スラ子が手を振るう。


 夕刻前の陽射しが降り注ぐ一帯を侵食するように闇が伸びる。

 一気に増殖して俺の身体を包み込もうとした黒色は、こちらに届く直前になにかに吹き散らされた。


 視界が晴れ、渋面のスラ子が見える。


“今、あのなかにあるのはいったいいくつです? 水、土、闇? もっとですか? いずれにしろ、一度やり方を知っちまったらもうお終いだ。あれは残り全部、すぐにでも自分のなかに飲み込んじまうでしょうよ。そして、溢れ出す”


 ――溢れ出す。

 たった一言のありふれた単語に、ひどく不吉な響きが含まれていた。


「溢れる――」

“そう。マギさん、だからはやくしないといけない。――あれは、あなたも殺しますよ”

「そんなことありえません!」


 スラ子が叫んだ。


「なにをいってるんです? 私が大好きなマスターに、そんなことするわけがないじゃないですかッ」

「そうですかね」


 自分の口から自分以外の声がでてきたことに、ぎょっとする。


「スラ子さんでしたか。あんた本当は、マギさんのことも食べてしまいたいんじゃないですか? 他の全てのように、自分のなかに取り込んでしまいたいと思ってやしませんか? だって、あんたって紛い物の存在はそういうモノでしょう」


 今度こそ。スラ子の表情が芯からの怒りに染まった。

 生まれたてのころ、近くの湖に住んでいた水精霊からの侮蔑に我を忘れたあのときのような激怒をあらわして、一直線に駆けてくる。


「――殺します」

「スラ子、やめ――」


 制止も届かず、膨大な魔力が渦巻いた。

 周囲への遠慮なんか微塵も考えていない、魔法名という制御さえ効かせていない純粋な魔力の気配に、ほとんど自分の死すら覚悟して目を閉じて。


 魔力が弾け、跳ね回り、轟音とともに吹き飛ばした。


 余波を受けてあっけなく地面を転がり、身体を丸めて痛みに耐える。

 あわてて顔をあげた。


 土煙がたちこめている。

 スラ子が無茶苦茶に放った魔力の固まりは四方八方に破壊を撒き散らし、その破壊の爪痕の中央に、若い男の姿をした誰かが立っている。


「……やれやれ」


 黒い髪を後ろになでつけた若者が、こちらに背中を向けたまま肩をすくめた。


「少し痛いとこを突かれたら、見境もなく大暴れ。うちのお嬢と違いやしねえ」


 それはイエロと名乗った若い竜の姿だった。


 あれだけの魔力が渦巻いた破壊のど真ん中で無傷の姿でいるその相手に、煙幕から飛び出たスラ子が無言で襲いかかる。

 スラ子が振りかぶった腕を避けようともせず、鋭い刃に変化したスラ子の腕が竜を両断した。


 悲鳴もなく、二つに裂かれた身体が霞のように消える。

 すぐにスラ子が顔をこちらに向けて、


「マスターから離れなさい」


 視線の先を向いて飛び上がりかける。いつの間にか、俺の隣に竜が立っていた。


 男は怜悧な表情を少し横にかしげて、


「危ないからですか? そちらに近いほうがよっぽど危ないでしょうよ。お嬢のお気にを怪我させちゃあ、どれだけ怒り狂われるかわからないんでね。まあ、そちらに手をだしても大概、キレられるとは思いますが……」


 すっとその眼差しが細くなった。


「こればっかりはお嬢に我慢してもらいましょう。あんたには今ここで消えてもらう」

「やれるものなら――!」


 スラ子の全身が淡く輝いた。


「ウォーターライドっ!」


 噴出した水流を下から受けて、しかし竜は平然とその場に立ったまま動かない。

 舌打ちしたスラ子が再び魔力を練りこんで、


「アースウェイク……!」


 地面が盛り上がり、その上にいる竜ごと持ち上げようとするが。

 竜はそれを、軽く踏み抜くだけで地面ごと魔力の干渉を押し潰した。


「終わりですか?」


 まったく変わらない姿勢。冷ややかな声。


 余裕すぎる態度に顔をひきつらせたスラ子が、それならと今度は闇をまとって放出する。


 竜の周辺に闇が現出する。

 男の身体を包んで凝縮。そのまま極限まで体積を減らしていき、点のようになった闇色が、


「やれやれだ」


 一言であっけなく散り飛ばされ、まったく無事なまま男の姿がその場に戻った。


「ここにいる自分は、鱗一枚にも足らないんですがね。それでも、勘違いされちゃ困る」


 さらにスラ子から立て続けに放たれる魔法を避けもせず、全て受けきって微動だにしない竜がいう。


「精霊なんぞをいくつか取り込んだ程度で、我々に敵うとでも?」


 竜が視線をあげる。

 魔力光の放出もその前兆もないまま、あたりの空間がねじくれた。


 俺の目がおかしくなったのかと思ったがそうではない。

 スラ子を中心とした空間が、見る間にひしゃげていく。あわててスラ子が逃れようとするが――叶うわけがなかった。


 それは効果範囲がどうとか、そういった生易しい攻撃ではなかった。 

 森や土、空間に付随するなにもかもひとまとめにねじ上げられていく。


 今まで生きてきて聞いたこともないきしんだ音。

 スラ子の悲鳴じゃなかった。


 その異音は空間そのものが搾り出していた。悶えるように。


 そして、弾ける。

 ゴムの反動みたく一気に空間が戻り、その後にぐしゃぐしゃに砕けた土や樹やらの破片が崩れて落ちた。


「スラ子!」


 それらの土砂にまじって、ぼろぼろになったスラ子も落ちて。べしゃりと形を崩して地面に落ちた瞬間、土中に溶けた。


「遠くから効かないなら、直接。それとも自分を喰おうってんで?」


 竜が哂った。

 その全身からなにかが放たれる。


 なにか。

 そう、なにかだ。


 魔力じゃない。決してそんなモノなんかじゃない。

 俺たちが知っている、日常的に使っているものとは明らかに質の異なる、なんらかの力が竜の全身から満ち満ちて、


「――――!」


 吠えた。


 竜の咆哮。

 それに呼応する音も、光もない。


 ただ鼓膜につんざく声量に顔をしかめた次の瞬間、今までなにもなかった中空にいきなりスラ子の姿があらわれた。


「な――」


 引きずり出された。


 驚愕に顔を歪めるスラ子が、横からの衝撃を受けて盛大に飛ばされる。

 林をなぎ倒し、土ぼこりをあげながら猛烈な速度で吹き飛んで行く姿を見て、俺は声もなかった。


 スラ子の戦闘能力は並じゃない。強力な精霊魔法を操るエルフと張り合い、このあいだの竜騒動で直接とどめを刺したのもスラ子だった。


 精霊を取り込んだ膨大な魔力。それを使った魔法。

 身体を自在に変化してとる豊富な攻撃手段。


 そのスラ子が子ども扱いどころか、相手にもならない。

 生屍竜と生きている竜が、まるで次元が違う相手だってことは重々理解しているつもりではあった。


 けれど、実際に目の前に見て絶望する。

 無理だ。レベルとかそういう話じゃない。この相手は、本体ですらないのだ――


「スラ子!」


 制止しようとして、俺はその続きを声にすることができなかった。


 遠くに飛ばされたスラ子が起き上がる。

 物理的なダメージはないはずだが、それでも全身をぼろぼろにして立つ、その表情はここからはよく見えなくて。


 けれど。

 俺にはスラ子が笑っているように見えていた。


「そんな心配そうな顔しないでください、マスター」


 なぜか、その声はほんの近くから届いた。


「ちょっとずつ。これも、“わかって”きましたから――」


 スラ子の全身に魔力が集まる。


 今までに何度も見てきた、淡い輝き。

 水属のそれが徐々に色を変えていく。まるでたった今、竜が扱ってみせたモノのように。


「やめろ、スラ子!」


 ほとんど悲鳴のような声で俺は叫んだ。


「それ以上は、やめろ!」

「ちっ……」


 舌打ちした竜が、はじめて自分から動いた。

 一瞬で遠くのスラ子の位置まで姿がずれて、なにかをしようとしていたスラ子の喉首を捕まえると、片手で軽々と持ち上げる。


「やめてくれ!」


 叫んだこちらを振り向き、竜はスラ子を投げ捨てた。

 あわてて俺が駆け寄る。


「スラ子、大丈夫かっ」


 スラ子は起き上がろうとして力が入らないらしく、倒れたまま動かない。上から押さえつけられているような格好で全身を奮わせながら、這いつくばった地面から竜を睨みつけていた。


「スラ子、おい!」

「ちょいと大人しくしてもらってるだけです。さすがに自分らのことまで知られちまうわけにはいかないんでね」


 ゆっくりとこちらに歩いてきながら、竜がいう。


「マギさん、それが危ない代物だってわかったでしょう。思わずあなたが叫んじまったように」

「……うるさい」


 諭すように語りかけてくる相手からスラ子をかばい、俺は倒れたスラ子を後ろに竜を睨み上げた。


「スラ子はやらせない」

「そいつをやるのは自分じゃありません。あなたがやるんですよ、マギさん」

「ふざけんな」


 ため息。


「意固地になっちゃいけない。いったいなんでそんなもんを庇う必要があります」

「そんなの決まってる!」


 スラ子は大事だ。とてもとても大事だ。

 一人ぼっちだった俺を救ってくれたスラ子を庇うのに理由なんていらない。


 スラ子は俺に必要だという、それだけだ。


「いいや、マギさん。あなたにはもうそれは必要ないんですよ」


 冷ややかに見おろした竜がいった。


「そいつはあんたが作り出した願望だ。吐き気がするほど甘ったるく、どこまでも堕落させる。あなたを護る、あったかい孤独な洞窟。けど、あんたはそこにこもるのはやめたんでしょうが」

「なんだって……?」

「選んだんでしょうよ。自分に優しいだけの巣穴から、出て行くことを」


 その言葉が急所を刺したように、呼吸さえできなかった。


「そいつは、一人ぼっちだったあなたが引きこもるのに必要だった。でもマギさん、あなたはもう一人じゃない。健気に想ってくれる相手もいれば、従順に従ってくれる相手や、厳しくも聡明な相談役だっている。一人は嫌だっていうあなたの願いは叶ったんですよ。なら、今さらそんなもんいらんでしょう。孤独だったあなたが求めた“これ”は、ほら。もうあなたにとっちゃあ、いらないモノだ」


 俺は呆然と竜を見上げた。


 いったいなにをいってる、と口のなかで無理矢理に繋げた言葉が虚しい。

 スラ子という存在をつくった俺の本音は、まちがいなく孤独への恐怖だった。


 誰か側にいて欲しい。

 誰か話をして欲しい。


 ――誰か、自分のことを愛して欲しい。


 だから俺は。

 洞窟の外へ出て、町の人間に打ち解けようと努力することもせず。ただ自分に絶対に逆らわない、そんな都合のよい存在を求めた。


 それがスラ子。


 竜の言葉は間違ってなんかいなかった。

 一つ一つが腹もたたないくらい的確に、俺の心のなかを見透かしたように核心をついてくる。


 俺がスラ子に怯えていたのも。不安に思っていたのも。

 それは間違いない事実だった。


 だから、


「それはあなたの弱さがつくりだした過ちだ。だったら――自分でつくりだしたものの後始末くらい、きっちり自分でやるのが筋ってもんだ。それが、責任です」


 ――責任。

 俺が、スラ子をつくった責任?


 相手への反論をうしなって、俺は後ろのスラ子を振り返った。


「マスター……」


 そこにいるスラ子は泣いていた。

 起き上がれないまま、顔だけをこちらに向けてスラ子は涙を流している。


「――もう、私、いりませんか?」


 不定形の生き物がいった。


「マスターのお役にたてませんか? これ以上いたら、マスターの邪魔になってしまいましたか?」


 ぼろぼろと涙がこぼれる。

 そのスラ子をかたどる全身に、びしりびしりとヒビがはいっていく。


 ぶれるのでも、変わるのでもない、ヒビ。


 スラ子をつくったのは俺だ。

 俺のために在るというのがスラ子の存在意義であるのなら――スラ子を失くすのは、その存在意義を失くすということ。


 竜がいった、俺がスラ子を消すというのはそういう意味だ。


 目にも痛々しいそのスラ子の様子を見て、胸がしめつけられる。

 ――けど、駄目だ。


 感傷的になってはいけない。

 感情にまかせて泣き喚いたところで、相手を説得なんてできない。


 俺は今から、この相手にいって聞かせないといけないことがあるんだから――


「――スラ子」


 ゆっくりと、声をかける。


「もういいんだ」


 スラ子の動きが止まった。


「……お前、前に俺にいったよな。私はあなたですって。だからなんでもするって。でも、そうじゃない。スラ子、お前は俺なんかじゃないんだ」


 びしり、とスラ子の顔にヒビが入った。


 鼓動が跳ね上がる。

 焦りそうになるのを必死に抑えながら、


「お前は俺じゃない。お前はお前だ、スラ子。それでいいんだ」

「……嫌です」


 スラ子がいった。


 子どもが大泣きするように顔中をくしゃくしゃにして、


「私はマスターです。私は全部、マスターのためにあるんです。マスターのためならなんでもします。だから、いらないなんていわないでください。これからも側においてください」


 必死にこちらに訴えかけてくる。


「お願いですから。私のことを愛してください――」


 ――スラ子が俺の願望がつくった存在だというなら、そのスラ子の願いさえも俺そのものなんだろうか。


 そうかもしれない。

 ルクレティアがいったように、スラ子の不安が俺の不安で。俺の在り方がスラ子の在り方にも通じるのなら。両者が根本として抱える飢餓だって、同じなのかもしれない。


 ただ、それだけのことだろう。


「当たり前だ」


 今にも崩れていきそうな相手に、俺は大きくうなずいた。


「お前が必要だ。俺とお前はこれからも一緒だ」


 涙に濡れたスラ子の目が見開かれる。


「けどな。それはお前が俺だからじゃない。俺は自分のことなんかなに一つ信用できないんだ。だからお前なんだ。俺じゃないお前だから、側にいてほしいんだ」


 顔に浮かんだヒビを撫でる。

 目をぱちくりとしたスラ子が、震える声でいった。


「……私、これからもマスターと一緒にいていいんですか?」

「そういってるだろ。あほ。お前はお前で、俺とお前はこれからも一緒だ」


 始めが同じだったからって、最後までそうってわけじゃあない。


 双子だって別々に育てられれば一緒にはならない。

 その存在を決めるのは、生まれじゃない。


 スラ子が俺自身として生み出されたのなら――そうじゃない生き方を教えてやる。


 俺のためなんかじゃない。

 スラ子だけの生きる意味を。生き方を。


 それが、それこそが俺の責任だ。

 いらなくなったから後始末をしよう? ――ふざけるな。


「マスター、」


 スラ子の全身を砕きかけていたヒビが見る見るうちにふさがっていく。

 それを見てほっと安堵の息をついて、


「マギさん――」


 背中の竜がなにかいってくる前に、俺は無言のままにぎった拳を相手の顔面に叩きつけた。


 竜はもちろん、なんの反応もなく。

 まつげ一本動かさないまま、訊いてくる。


「……なんの冗談ですかね」

「クソして寝てろ、ドラゴン野郎。――いっただろ。スラ子はやらせない」

「あなたもわからない人だ。そいつが危ないってことは、もう十分わかってるんでしょうに」

「だったらどうした」


 御託を並べようとする相手にそれ以上いわせず、言葉をかぶせる。


「そんなもの百も承知だ。俺や、ストロフライが、わかってないはずないだろう。だったらどうした? スラ子の責任は、俺がもつ。あんたなんかにいわれる筋合いはない」

「……まばたきすれば消し飛んじまうような存在が、責任? 随分と面白いことをおっしゃるもんだ」


 皮肉げに唇を歪める相手に、だが俺は動じなかった。

 嘲笑や蔑みなんて今までの人生でいくらでも受けてきた。そんなくらい痛くもない。


「だったらやってみろよ。あんたがどれだけ強いのか知らないけどな、俺なんかを殺せるくらいで自慢になると思ってんのか。俺を殺すくらい、そこらのゴブリンにだって出来らあ!」

「マスター。それはちょっと自慢にならない、ような……」


 苦しそうにしながら、それでも後ろからスラ子が律儀につっこみをいれてくる。


「やれよ。ただ俺を殺せるだけのドラゴン。少なくとも――俺がスラ子を消すなんてありえないぜ。俺があんたを倒すってことくらい、それは絶対に、ありえない」


 まっすぐに相手を睨みつけて、俺ははっきりと宣言した。


 ――これで俺は殺されるかもしれない。


 ストロフライのことがあるから、俺には危害をくわえないんじゃないかなんて計算もあるにはあったが、相手の発言からわかるとおり、ストロフライへの配慮はこの竜にとって絶対じゃない。

 ヤクザな黄金竜からの怒りをかうことより、スラ子という存在の危険性を重くみたなら、それをかばう俺ごと抹消する可能性だってなくはない。


 だが、そうなったらそうなったまでだ。

 竜相手に戦うどころか、抗うことだって出来そうにはなかったけれど。


 たとえ死んでも、スラ子と一緒に死んでやる。


「……やれやれ」


 竜がため息をついた。


「弱っちいくせに、いざってときの根性だけは一丁前だ。肝がすわってるわけでもないのにね。まったく、よくわからん人間ですよ」


 その視線が俺の背後に倒れるスラ子を見て、あわてて相手の視線を隠そうとしたが間に合わない。

 スラ子の全身が白い輝きに包まれて、


「スラ子――」


 だが、竜の視線はスラ子を消滅させることはなく、それまで地面に伏していたスラ子ががばりと起き上がった。


「マスター!」


 竜から守る様に俺を抱きかかえる。スライム質の胸元に顔面をふさがれて、呼吸がとまった。


「……マギさん。あなたの演説、正直いってちっとも心にゃ響きませんでした」


 スラ子の抱擁から逃れようとじたばたしている俺に、声。


 なんとか顔をあげて相手を見る。 

 若い男の竜はにこりともしない怜悧な表情で見おろしてきていた。


「だが。あなたは、この期に及んでもお嬢に頼ったり、助けを求めようとしたりしなかった。おっしゃるとおり、ここは退きますよ。その馬鹿馬鹿しいくらいの愚直さに応じてね」


 ちらりとその視線がスラ子を見る。


「そちらの処遇については――まあ、お嬢に任せましょうか。たしかに、あのお嬢だってなんの考えもないわけじゃないでしょうしね。いささかお節介が過ぎたのかもしれません」


 敵愾心をむき出しに竜を睨むスラ子の眼差しを涼しげに、竜はひょいと肩をすくめた。


「ですが、お忘れなく。何度もいってるように、それが危険だってことは変わりようがないんでね。竜には自分らの世界がありますが、あなたがたにとっちゃここが唯一でしょう。マギさん、あなたの責任の取り方が、それを壊すことになるんですから」

「……そんなこと、させるもんか」


 竜が冷笑した。


「そりゃあよかった。まあ、お嬢さえ無事なら自分にはどうでもいいですよ。お嬢の身になにかあったら、あの親父がとんでもないことになるんでね。それこそ、世界どころの話じゃあない」


 世界以上っていったいなにがあるんだよ、竜の世界。


「さてね。それこそ人間の身には過ぎた話では? んじゃ、自分はこれで。ぐずぐずしてたら、お嬢が戻ってくるかもしれない」

「勝手に帰れ。いや、帰ってください。そして二度と来ないでください」

「嫌われたもんだ」


 苦笑した竜が、最後に俺を見る。

 笑みをおさめた真剣な表情で、


「マギさん。これは前にもお伝えしたと思いますが――お嬢をよろしくお願いしますよ。あなたになら任せられる」

「……ゴブリンにだって負ける人間ですよ。俺は」

「あのお嬢に勝てるヤツなんていませんよ。だから、強さなんてもんは誰だろうと関係ない。おわかりですか?」


 なんとなく頷くのが恐ろしかったが、頷かないのだってそれ以上に怖かった。


「努力します」

「けっこう。それじゃあ、また。よかったらこっちにも遊びに来てくださいよ。お嬢が一緒なら歓迎されるでしょう。親父も喜ぶ」

「……善処します」


 はは、と小さく笑い、竜はとんと地面を蹴った。


 散歩するような気軽さで、人型のまま空をいき、その姿が一瞬で巨大な黒竜の姿に変化した。

 翼を叩き、一瞬で空を駆け上がる相手を見て、今さらながらに自分たちがあの竜と対峙していたのだと理解して全身に震えが走った。


「――マスター」


 同じく震え声のスラ子を見る。

 しかし、スラ子の全身が奮えているのは、あの竜に対する恐怖でも、さきほどの戦闘で受けたダメージが残っているわけでもなかった。


「私、怖いんです……」


 泣き出しそうな顔でスラ子がいった。


「自分がどうなるか。どうなればいいのか。いつも、ずっと――怖いんです」


 不定形の存在。


 自分という在り方を決めるために、スラ子は俺という存在をその中心に置いた。

 それを否定されたら、スラ子は自分自身を失ってしまう。


 どこまでもあいまいな在り方。

 けれど、それがここにあるということをしっかりと自覚させたくて、俺はスラ子を抱き寄せた。


「――俺だって怖い。不安だし、泣きたくなる。でも、スラ子。だから俺とお前なんだ」


 一人じゃあ自分のことは見えない。抱きしめられない。

 だから、二人だ。


「お前のそばには俺がいる。俺が、お前の形をちゃんと教えてやる。だから、お前は安心して、お前自身を真ん中にしといていい」


 スラ子の中心にではなく、その脇から支えるように。


 そして、それは俺だけに限った話じゃなかった。


 シィやカーラ、スケル。ルクレティア。妖精族に、蜥蜴人族、魚人族。

 スラ子という存在の枠を周囲からかたどるものは、この世界中にいくらでも溢れているのだから。


 俺なんかがいなくても、スラ子の世界は壊れたりしないんだと。

 俺がいない世界でもスラ子は生きていけるんだと。

 それを教えてやるのが――俺の、つくったスラ子への責任だ。


 俺の両腕のなかで震えていたスラ子が、くすりと泣き出しかける表情で笑って、


「マスター。ちょっと……休んじゃっても、いいでしょうか」

「え? ああ、いいぞ。暗くなる前には起こす」

「すみま、せん――」


 さっきの戦闘でずいぶんと消耗したのだろう。

 本来は睡眠を必要しないスラ子は、そのまま俺の胸にすがるように目を閉じた。


 その寝息が苦しそうではないことにほっとして、再び遠くの空をいく黒竜に目を移して。

 俺がそうするのを待っていたように、黒竜に天から落雷が降り注いだ。


 一瞬で線引いた稲光が竜を撃ち、ぐらりと黒竜が姿勢を崩しかけ――それでもさすがは竜のしぶとさというべきか、すぐにもちなおして再び空を飛び始める。

 遠くの光景に起こったことにぽかんとしていると、


「ま、あんくらいのお仕置きで許してあげとこっか」


 声はまったくの突然に響いた。


 ぎょっとして隣を見ると、そこにいるのは黄金色の髪を伸ばした小さな身体。

 人型をとったストロフライが腰に両手をあてて仁王立ちしていた。


「まったく、イエロのやつ。余計な世話だってわかってるんならやんなきゃいいのに。ね、マギちゃん」

「ス、ストロフライ? いつのまに――」


 さも当然のように話しかけてくる相手に訊ねると、黄金竜の少女はにっこりと微笑んで、


「戻ってきたのはついさっきだよ?」

「気づいてた。んですか……」


 ストロフライはあははと笑った。


「だって、イエロは確かに隠れるのうまいけどさ。ついてくるかもって帰るときから思ってたんだから、気づかないはずないじゃん! 気づいてないのはイエロのほうだったのだ!」


 びしりと得意げに親指を立ててくる。

 とりあえず親指を立ててそれに応えながら、恐る恐る訊ねた。


「でも、じゃあ――どうして。見てたんですか。あの竜、スラ子を」


 ストロフライはきょとんとしてから、にんまりと笑う。


「なにいってんのっ」


 どすん、と強すぎる力で――それでも十二分に加減してくれているはずの力で俺の胸を叩いて、


「あたしに負けないくらい、強くなろうって目指すんでしょ? だったらイエロなんか追い返せないくらいじゃ全然駄目じゃん!」


 その台詞は、竜の住処から帰るときにいった俺のものを指しているのか。

 それとも――腕のなかで眠るスラ子が前に告げた言葉を指しているのか。


 どちらにせよ、ストロフライの表情は楽しげだった。

 そうなる事態を待ち望んでいる顔だった。


 じくりと胸のなかに不安が渦を巻く。せりあがってくるそれを口のなかで噛み砕き、意味するところを慎重に思い定めてから、


「……ストロフライ。俺は。スラ子は、生きてていいんでしょうか」


 俺はつい訊ねてしまっていた。


「なにいってんのー!」


 それに応えるストロフライはやっぱり笑顔のまま、


「マギちゃんが、責任取るって決めたんだから。だったら責任とったげないとっ。自分のいったことも守れない手下を持った覚えはなーい!」


 また胸を叩かれた。

 あまりの痛さに涙が出る。肺がつぶれたんじゃないかと思えるくらいの衝撃に身体を折って咳き込む俺へ、ストロフライが続けた。


「だいじょぶだって」


 自信と確信に満ちた声。


「マギちゃんが頑張って、頑張って、頑張り頑張って。それでも駄目だったときは――ちゃあんと。あたしが壊したげるから。マギちゃんも、スラ子ちゃんも、この世界もね」


 どこまでも天真爛漫に、小さな黄金竜は宣言した。

 その物騒な発言にむしろ心からの安堵感を抱いてしまったら、もう苦笑するしかない。


 あたりはまだ夕刻に早すぎる時間。

 遠い空の色合いがいつか見た上空からの黄金色に変わってきているのを見て取って、うなずいた。


「そうですね。……だったら、なんでもやれます」

「うんうん。だから、マギちゃんはマギちゃんに出来ることをやればいいんだよっ」


 この黄金竜の手下でよかったと、心からそう思った。



                                                 5章 おわり

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