エイジの像
――――これは、架空の人物エイジの心境をつづった短編小説である。――――
エイジは16歳だ。
人として、16年生きた者の称号。
それが、16歳。
17歳なら17歳。
100歳なら100歳。
人は自分にできることをたくさん考えて、行動に移す。
それができる生き物は、素敵だ。
できない生き物が劣っている訳ではない。
できる、できないがあって当たり前だから。
みんな違ってみんな良い。
そこにはそれぞれの役目がちゃんとあるはずだから、探すべきだろう。
ここで、少し僕の時間の考えを述べる。
恐ろしいくらい、時間は早い。
え?
そんなこと、僕が言わずともみんな分かっている?
確かに、人間なんて考えることは似たり寄ったりだ。
でも、ちょっとくらい時間を下さい。
時間という偉大な存在に、少しでも思いが届けられたら……いい。
ところが時間は果てしない。
迷っている暇も、猶予もありはしない。
一体時間はどこまで僕らをつれて行くのか。
どこまでも、どこまでも流れて行くのか。
16歳は貴重な時間だと思う。
人生の分岐点は幾つも枝分かれしていたり、途切れたりしている。
僕は、ふつうの人が言うしあわせを聞くのがしあわせだ。
たとえばそう……新しくいとこができたとか、誰かが結婚したとか、誰かが笑ったとか、誰かが誕生パーティを誰かのためにしてくれた、とか。
それをみんなはなんとなく受け止めていることだろう。
しあわせの基準は決まっていない。
それは、みんなが決めていい事だ。
ただ、他人が誰かのしあわせを勝手に決めてしまうのはよろしくない。
きっとその人は、「どうしてあなたが私のしあわせを決めるの?」と聞くことだろう。
そうしたら、気づけばいいことだ。
相手のしあわせを願う気持ちはなによりも大切だけど、見失ってその人の大切な人生を勝手に決めてはいけないのだ。
人の言う言葉には気持ちが絡んでいる。
「ありがとう」の言葉を疑ってはいけない。
「ごめんなさい」の言葉を見逃してはいけない。
誰かが関わっているのだから、考えてあげないと。
突然だけど、僕はあいさつが苦手だけれど、あいさつは好きだ。
単純に、気持ちが良い事。
だから、あいさつをいちいち迷っていてはいけないのだ。
あいさつなんて常識だ。そう思っている人は継続できれば文句なしだ。
ここで1つ急な問題。
この世に変わらないものなんて、あるのか?
この僕の問いに、あなたの声をお聞かせ願いたい。
僕は、決して断言してはいけないものであるような気がする――――
素直に言いたい。
僕は、あると思う。
それは、目に見えないものだ。
愛、思いやり。
大切な誰かを愛した事実は変わらない。
自分以外の誰かに思いやりをもった事実も、かわらないのだ。
事実として残る。それ以上にしあわせなことはない。
最後に、僕は人と言う枠組みが好きだ。
だからこそ、こんなことを考える。