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失態失明  作者: krd.k
4/6

今までの私

      三


 部屋の電気は未来亜が点けた。

 立ち上がった未来亜は急に落ち着きが無くなり、台所に行って父の為に作った豚汁を温めだした。

 私はいらないと言ったが、未来亜はかすれた声で、食べようと差し出してきた。

 今までと同じように、二人だけで食べる夕食。父が会社に勤めていた頃は、そろそろ帰宅時間の目安を電話してくる時間帯だった。携帯を見つめたまま箸が止まったが、父からはもちろん友人からの電話もメールも迷惑メールさえも、何一つ受信していなかった。

 そしてしばらく無言のまま、二人で豚汁をすすった。

 その後、最初に口を開いたのも未来亜だった。

「叔父さんに連絡しなきゃね」

「さっき電話したけど誰もでなかった。奥さんもいないみたいだったから、後でもう一度電話してみる。他に連絡しなきゃいけないとこある?」

「んーと……、お母さん……は無理だもんね」と聞かれ、私はすぐに首を振った。 

 でも母親を思い浮かべるのは自然だった。

 母が何故家を出ていったのか、父との間に何があったのか、私達は何も聞かされていなかった。

 私は五歳の時、未来亜は七歳の時。

 私は小さすぎてもうほとんど記憶に無いが――忘れようと努めていたからかもしれないが――幼い未来亜はさよならも言わず出ていった母のことを、いつか戻ってくるものだとずっと思い込んで暮らしていたらしい。父が話を濁していたからだろう。父は私達が何を聞いても大丈夫だからの一点張りだった。

 父がこんなことにならなければ、連絡を取るべきなのかどうかということも悩んだりしなかっただろう。思い出そうとさえしなかった。

 別に今さら頼ろうとも思わないし、伝えたいという気持ちもない。でもなんとなく思い出してしまう未来亜の気持ちは理解出来た。

 今頃どこで何をしてるんだろう。

 子供が幼い場合は、離婚しても親権は母親が持つことが多いと何かの本で読んだことがあるが、要するに私達を捨てて出ていったということだ。このことについては一時期真剣に考えたことがあったが、今はもうどうでもいい。私達には父以外の親はいない。

 

「向かいの安田さんとこ、どうする?」と未来亜が聞いてきた。

「まだ帰ってこないと決まったわけじゃないから、もうしばらく様子を見てからにしたほうがいいと思う」

 未来亜は頷いて、ほとんど手をつけていないお椀をテーブルの上に置いた。

 不意に、車のクラクションが家の前で二回、トントンと鳴らされた。

 ん……?

 少し考えようとしたら、すぐに携帯のバイブが震え出した。

 サラだ。

「もしもし」

「凛亜、どこ? 家?」

「あ……、そうだよ。ちょっと待ってて。今出るから」

 未来亜を一瞥してから立ち上がった。

「誰?」

「サラ。ちょっと事情伝えてくる」

 サンダルを履いて玄関の扉を開けると、目の前にサラの水色の軽自動車が停まっていた。

 サラは私を確認すると助手席のウィンドウを開けて笑顔で手を振ってきた。

「連れて来たよ。迅」

 私は約束を何も思い出せずに、呆気に取られて立ち尽くしていた。

 サラはそんな私を見かねて、どうしたの? とでも言いたげに首を傾げた。

「今日、約束してたじゃん。迅連れてご飯行くって。忘れてた?」

 後部座席でチャイルドシートに埋もれた男の子が手をパタパタと上下させている。

 あ……。そういえば今日約束入れてたっけ。でも、頭がうまく働かない。何も思い出せない。

「乗りなよ。何食べるか決めてくれた?」サラは得意そうに助手席をパンパンと叩きながらそう聞いてきた。

「ごめん……」

「ん? どうした? なんかあった?」

「ちょっと……。お父さんが」

「おっちゃん? おっちゃんがどうしたの?」

 私が簡単に経緯を説明し始めると、途中でサラは車を降りてきて、神妙な面持ちで最後まで話を聞いてくれた。

「ごめんね……」

「私は平気だよ。きっとおっちゃん大丈夫だよ。戻ってきてくれるよ。あんなに優しいおっちゃんなんだもん」

 友人に状況を説明することで、事態を反復することで、事の重大さが再認識出来たのか徐々に涙が込み上げてきてるのがわかった。作り話のような、そうじゃないような。自分の話のような、そうじゃないような。自分で話してて、全部が嘘のように思えた。

 今朝まで、数時間前まで父はいたんだ。私が立っているこの空間を通り過ぎたんだ。この平らなコンクリートを踏みしめ、僅かにでも音を立てながら、この目の前の道路を通って行ったんだ。

 サラが抱きしめてくれた時は、もう我慢出来なかった。

 父は本当にいなくなったんだ。本当に死のうとして出ていったんだ。本当にもう会えないかも知れないんだ。

 不意に足の力が入らなくなった。膝からガクンと落ち、サラの腕をすり抜けて、しゃがみこんだまま顔面を両手で覆った。

 獣のような嗚咽が溢れ出た。

 遠吠えのような泣き声に膨れ上がった。

 すぐに家の中から未来亜が出てきて、私を抱きかかえるようにして家に入るように促がした。

「サラちゃん、ごめんね。凛亜、中に入れるね」

 激しい嗚咽の中でサラに振り向くことが出来なかった。

 未来亜は私を玄関に座らせて、しばらく背中をさすってくれていた。私は両手を顔から切り離せないまま、止め処なく流れる涙をどうすればいいのかわからなかった。

 思いがけず、咳き込んだ。

 涙を流しながら、嗚咽を漏らし、咳き込んだ。こんなに泣いたことも、嗚咽を漏らしたことも、咳き込むまで泣いたことも、今まで一回も無かった。何一つ抑えることが出来なかった。

 この家で、生まれた時から住んでるこの家で、幼い頃から毎日何回も出入りしたこの玄関で、こんな姿勢で、こんな風に泣くなんて、ここでこんなに動けなくなるほど泣くことになるなんて思ってもみなかった。

 幼い頃の私が、近所の仲良しの子達と遊びに行く私が、中学校に入って初めて制服を着た照れくさそうな私が、初めて彼氏が出来た時の恥ずかしそうにしてる私が幻影となって私の横を目まぐるしく通り過ぎていく。こっちを見て物珍しそうな表情を浮かべながら、どんどんどんどん通り過ぎていく。

 今の私はこんなところで動けなくなっている。すると思い出が音を立てて崩れていく。暴力的な嗚咽が崩していく。涙を通して飲み込まれていく。

 私だってこんな私を見たことがないんだよ。どうコントロールすればいいのかわからないんだよ。

 

 傍にいた未来亜はスッと立ち上がると居間に入り、シクシクと声を噛み殺していた。


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