朽ち果てる世界
編集の都合上、文頭下げをしておりません。ご了承ください。
また、高校の教科書に載っているものでも良いので、森鴎外(森 林太郎)の「舞姫」を読んだ上で続きを読むことを強く推奨します。
「やーい、中国人! 国に帰れよ」
同級生の一人が僕の背中に雪玉を投げ付けた。
雪が空中に舞うように降る中、学校から帰宅途中での出来事だった。
雪だらけになった髪を払うために足を止めると、いつものように数人の同級生の笑い声が後ろから聞こえてくる。
通りを歩いている大人たちもこの国ではまだ見慣れない黒髪で黒眼を持つ僕を気味悪がり、近付こうとはしない。
学校には否応なしに通わなくてはいけないが、こんな日々が続いていて嫌気が差していた。
けれども、どうせ何を言ったって笑われるに決まってる……。
そう思った僕は、後ろを振り向かずに走り出した。
大通りから一本入ると、辺りを漂う雰囲気が一気に暗くなった。
ボロボロの外壁の家が佇む中をしばらく歩くと、寺の筋向かいにある大きな扉を入ると欠け損じた石の梯子がある。
それを四階まで上ると、屋根裏部屋に通じているような小さな戸があった。
昔だったらすぐ通れたのに、この一年で身長が十センチ近く伸びた僕は腰を折って潜るように入るしかない。
「ただいま」
戸を強く引いたがいつものように返事はなかった。
一緒に暮らしている祖母は、今の時間だと開店の準備をしているだろう。
祖母がやっている店は夜だけ開いていて、祖母が雇った何人かの女の人が男の人にお酒を出していた。
僕らはその店の収入だけで暮らしている。
奥の部屋に入ると、椅子に座って窓際から外をぼんやりと眺めている人影が見えた。
「ただいま、母さん」
僕がそう言うと、ゆっくりとした動作で母さんはこちらを少し見たが、すぐにまた窓の方に顔を向けた。
この国の生まれである母は、僕とは全く違う薄いこがね色の髪と青く清らかな眼を持っていた。
昔は『舞姫』と呼ばれるような踊り子であった母は、今では少しやつれていたが僕の目から見ても美しい人だった。
そんな母の目は僕でも降り止まない雪でもなく、空のずっと向こうの方を見つめたままだった。
詳しい話は聞いていなかったが、僕の父親は日本人だった。
日本の高貴な家の出身で、このドイツで母と出会ったそうだ。
父は日本での出世街道から外されていて、踊り子であった私の母とはこの国で出会い、恋に落ちたらしい。
しかし僕が母の身体に宿っていると分かった頃に再び出世の道が見えてきたらしく、その出世に邪魔だった母とお腹の中の僕を置いて、父は日本に帰る決心をしたそうだ。
母はそれを知り、裏切られたショックのあまりに精神を病んでしまった。
医師にも診てもらったものの、『治癒の見込みなし』という診断結果だった。
そんな状態だったのにも関わらず、父は僅かなお金だけを残してこの国を去った。
────そして、僕は生まれたのだった。
僕と母の世話は祖母がしてくれたが、家族三人では生きることだけで精一杯で、働くのに必死だった祖母とは話す時間も殆ど作れなかった。
母も、僕が生まれて間もない頃は自分の子どもだと認識出来たそうだが、母の中の僕は赤子のまま止まっていて、今では成長した僕が自分の子どもだとは分からないようだった。
現に今も、赤子──の形をした人形を胸に抱きながら、母は空の向こうを眺めていた。
そんな僕は、父親が憎かった。
いや、便宜上父親と言ったが、本当は父親とも思いたくない。
祖母や僕や母さんをこんなにも苦しめといて、お金だけで物事を解決した気になって自分だけ海を渡って幸せになった父に対し、憎しみ以外に何も感じなかった。
──今だって、何も解決なんかしていないのに。
それでも母はいつだって、遠くの空を見つめ続けていた。僕や祖母が話しかけても、返事が返って来ることはない。
母は時折、日本語特有の発音で父らしき名前を呟くが、僕は母から名前さえも呼ばれた覚えがなかった。
*****
外にさっきの同級生がいないか注意しながら、退屈になった僕は帽子だけ被って街を歩いた。
そのまま宛もなく歩いていると、家の近くの公園に着いた。分厚い雲から降る雪は空中で舞い、鬱蒼と茂る木々は空の色と同じ白に変わっていた。
この土地は冬になると毎日のように街並みが白く染まる。
それにしても今日は雪の量が多かった。
広い公園内を歩いていたが、ベンチに座る人影に気付いて僕は足を止めた。
雪が降る中で傘も差さずにいるその男は、この街では珍しい僕と同じ黒く艶のある髪と漆黒の瞳を持っていた。
長い間そこに座っているらしく、男の肩には雪が積もり始めている。
父のこともあって、僕はこの黒い髪と黒い眼が大嫌いだった。
だが自分とよく似た容姿をしたこの男を見た途端、父への憎悪よりもこの男への好奇心の方が何故だか勝ってしまった。
僕はこの男と話したかったが、どう話しかけたらいいか分からずに立ち尽くしていると、男の方が僕に気が付いて話しかけてきた。
「君、日本人かい?」
男の顔さえ見なければドイツ人だと思ってしまうくらいの流暢なドイツ語で話しかけられ、僕は内心安堵した。
「いえ、父親が日本人なんです」
手招きをされ、僕も雪で少し濡れたそのベンチに座った。
「そうか。こんな異国の地で同胞の子孫に会うなんて奇遇だな。私も日本人なんだ」
「そうですか。僕も日本人に会ったのは初めてです」
僕が返すと、男は意外そうな顔をした。
「あれ、君のお父さんは?」
「僕が生まれる前に日本へ帰国しました。父とは一度も会ったことはありません」
名前を聞かれたので答えると、男は驚いた顔をして僕を見てきた。
「驚いたな……私は、君のお父さんをよく知っているよ」
今度は僕が驚く番だった。
そういえば、僕の名前は確か父の名前から取って付けられたと聞いた気もする。
そして今度は、男が日本語特有の発音で自分の名前を名乗った。
その時ふと、母の姿が頭を過ぎった。
母が時折口にする名前の響きと、その男が発する名前の発音が似ているように聞こえたのだ。
「僕は昔、この国に留学していてね……」
そう言って、父と母の話を僕の知らない詳しい部分を含めて得意そうに話し始めた。
そして、父が母と僕を残して日本に帰ることになったのは、父の友人が全ての原因だったのだとその男は言った。
父に出世を打診し、その引き換えに母さんや僕を捨てて日本に帰るよう勧めたのはその友人だった、と。
「あの男さえいなかったら、お父さんは君達と離れることもなくずっとここにいられたんだ。そう思うと非常に残念だよ」
そう言われた時、今までずっと言わないでいた思いがついに溢れた。
「そんなの……そんなの、ただの……他人のせいにしてるだけです!」
男は驚いたように僕の顔を見たが、一度出始めた言葉は止まらなかった。
「誰に何を言われても、出世なんかより母さんを選ぶ責任があの男にはあった。あの男のせいで母さんは心がおかしくなっちゃったのに、そんな母さんと僕を残して日本に帰ったなんて……あの男が母さんを捨てなければ母さんは今頃、幸せだったのに!」
初対面の相手にも関わらず、誰にも言えなかった思いをその男にぶちまけた。
だが強く言った僕とは対照的に、男は淡々と言葉を返した。
「彼だって、君のお母さんを選びたかったさ。でも、あの時は自分の思いだけで何でも出来る時代ではなかった。それに彼は幼い頃から、自分の母親の都合が良いように育てられていたから、彼は一人で何かを決めることが出来ない人間だった。だから、彼一人を責めるのは正しくないよ」
「……あなたは、父の育った環境が悪かったと言うんですか?」
男が何を言っているのか信じられずに僕は呆然としていたが、男は悪びれも無く平然と答えた。
「まぁ、そうだね。それに君が存在していなければ、彼も君のお母さんを残して帰らなくても良かったかもしれない」
僕は一瞬、頭が真っ白になった。
「……僕が悪かった、と言いたいのですか?」
「あくまで可能性を言っただけさ」
男はそう言った後、僕の顔を見ずに空を見上げていた。
そんな姿を見て、口から溢れ出る言葉はますます止まらなくなった。
「……あなたは、父のことに関して詳しいですね」
「彼のことをよく知っているからね」
その様子を見てから僕は男の方を真っ直ぐと向くと、この男を見た時から気になっていたことをついに言った。
「あなたは、僕の父ですか?」
そう言った途端、何もかもがおかしいかのように男は笑い始めた。
公園には見渡す限り誰もいなかったが、その笑い声は辺り一面に薄気味悪く響いた。
「君のお父さんかと聞かれたらそうだとも言えるし、違うとも言えるね」
「どういう意味ですか」
「君のお父さんは私によく似ている。しかし私ではないのかもしれないし、私かもしれない」
問い質すように僕は尋ねたはずなのに、男ははぐらかすように答えた。
「真面目に答えて下さい」
苛立ちを交えてそう言うと、男はもう一度笑って僕を見た。
「そういう、意味だよ」
それから僕達は、しばらく無言でベンチに座っていた。
男もそれ以上のことは言う気はないらしく、僕の肩にも雪が薄く積もり始めている。
「……それでも僕は、父を許せません」
しばらくしてベンチから立ち上がると、僕を見上げるその漆黒の目に言い放った。
「もし、あなたの言ってることが全部本当だとしても、それはやはり、他人のせいです。僕を作ったのも、母と僕を捨てたのも、そうしたのは父です。だからあなたが言っていることは、他人のせいにして自分の罪から逃げているだけです。僕は、そんな父を決して許しません」
男は何も言い返さなかった。だが、僕が立ち去ろうとすると慌てて口を開いた。
「待ってくれ、せめて彼女に一目会うだけでもさせてくれないか? 私がどんな思いで日本に帰ったかを、少しは考えてくれないか」
あぁ、この人は、何も分かっていないのだ。
そして何も、分かろうとしない。
「他人のせいにするだけで一度も反省もしなかったあなたが、よく母に会いたいなんて言えますね。僕達がどんな思いをして、今まで生きてきたのかなんて考えたこともないくせに!」
そう言って、僕はその男に背を向けて走り出した。
振り向くことなんて、決してしなかった。
*****
小さな背中を見送ると、一人残された私はゆっくり空を見上げた。
肩や頭にはしんしんと降る雪が積もり、着ていた服の色が何色だったかもはや思い出せない。
体中が冷えていた。けれどこの雪を体から払ったところで何が変わるだろうか。
私は黙ってもう一度ベンチに深く寄りかかった。
──この期に及んで、まさか自分が創り出した存在に責められるとは思ってもいなかった。
確かに、私はあの友人のせいにすることによって罪の意識から免れようとした。
その為に帰りの船の中で綴ったのが、あの作品だった。
書き終わって原稿を見た時、あの国で起こったこと全てが目の前の紙の中にある架空の出来事のように思えた。
日本に帰ってからもそんな物語を思い出すことも時々あったが、いつの間にかこう思うようになっていた。
──全てはあいつが悪かったのだ、と。
だが、最後の最期に自分の創った存在──それも、〝タロー〟という名を持った子に責められるとは思ってもいなかった。
あの豊太郎と……そして私、〝林太郎〟の────
家族に囲まれながら、私は病室のベッドにいたはずだった。
生涯を閉じる際に今までの人生が走馬灯のように頭によ過ぎるとはよく言うが、まさか最期に自分が創った世界をこの目で見るとは思ってもいなかった。
若き頃に見た、あのドイツ・ベルリンの風景をモデルにして作った世界。
だがもう既に、周りの景色は白一色になり始めていた。
この体もそのうち、この降り積もる雪に埋もれて消えてしまうのだろう。
しかしこの期に及んでも、私は誰からも許されないようだ。
それでも、彼女にもう一度会いたかった──それだけだった。
私はゆっくりと、目を閉じた。