お盆システムに物申す
私は、いわゆる宗教三世だ。
物心がついた頃から、宗教というものは呼吸するように生活の中に存在していた。けれど、我が家は「新興宗教一色」というわかりやすい家庭でもなかった。
仏教もあれば神道もあった。実家はどこかの寺の檀家になっていたし、家には立派な神棚が鎮座し、その中には天照大神のお札がしっかりと納められていた。ただし、神社との付き合い方には少し変わったルールがあった。
「近所の子たちと神社へ遊びに行くのは構わない。でも、参拝をしてはいけません。そこは神様のいらっしゃる場所なのだから、失礼のないよう礼儀正しくしなさい」
作法だけはきっちりと叩き込まれたものの、子供心に「遊ぶのはいいのに拝むのは駄目なのか」と首をかしげたものだ。なんとも複雑で、ややこしい家風だったと思う。
そんな少し奇妙な環境で育った私は、大人になり、とある無宗教の家庭に嫁ぐことになった。本人たちがうちは無宗教と言っていた。
夫も義父母も、私が新興宗教をかなり熱心に信仰する家で育ったことを知っている。結婚前に私自身からきちんと話していたからだ。よく結婚をOKしたなと、いまだに謎である。生家とも普通に交流してくれている。かなり奇特な家族である。
私の生家の仏間——本来なら仏壇が収まっているはずの場所には、仏壇の代わりに教団関係のグッズや床の間には書籍がところ狭しと並んでいた。お化け屋敷のように荒れ果てていたわけではないが、初めて足を踏み入れた人が見れば「……おお」と息を呑む程度には、独自の宗教色が色濃く漂う空間だった。
そんな私が嫁いだ先は、山間の静かな田舎町だった。私自身も田舎育ちなので、緑深い景色や風の匂いそのものに今さら驚くことはない。しかし、そこで私を待ち受けていたのは、環境ではなくある夏の決まりごとだった。
毎年、真夏になるとやってくる、日本の一大イベント。
遠方の親戚がぞろぞろと帰省し、家を磨き上げ、お墓を掃除し、線香をあげて、ご先祖様の霊を家にお迎えする。
……ちょっと待ってほしい。
ここって、無宗教の家じゃなかったっけ?
そう喉まで出かかるほど、彼らの生活の根底にはどっしりと宗教が根付いていた。
今年もまた、その季節が巡ってきた。
一昨日の朝から、義父母と私、そして娘も巻き込み総出で家中を掃除し始めた。普段からまあまあ掃除されているはずの家なのに、お盆の前になると、なぜかもう一段階上のギアが入る。家中をくまなくすす払いし、窓を拭き、掃除機で吸い上げ、雑巾をきつく絞って板間を水拭きしていく。そこまでやって、ようやく準備の第一段階が完了するのだ。
夕刻になれば、家族揃ってお墓参りへと向かう。義父が事前にピカピカに磨き上げてくれた墓石の前で手を合わせ、ご先祖様を「連れて」帰ってくるのだ。
無宗教とは、一体なんなのだろう。
毎年線香の煙を目で追いながら、私はつい考え込んでしまう。
もちろん無宗教という言葉の意味は理解できる。特定の教団に所属していない、あるいは新興宗教の熱心な信者ではない、ということなのだろう。それは分かる。分かるのだが、この「お盆」という一連のパッケージは、どう見ても完全に仏教システムそのものではないか。
今年、私は義母に教わりながら仏壇の掃除を担当した。
専用の毛ばたきでパタパタとほこりを払い、磨けるところはすべて布で磨き上げる。季節の花を生け替え、新しい線香と綺麗なろうそくを揃え、おりんを磨く。
そして仕上げは、線香を立てる香炉の灰だ。灰を平らにならし、綺麗な小山を作る。
義母の手元を見まねてやってみると、思いのほか歪に仕上がった。回数を重ねていくしかない。
今、私はその仏壇の前に座り、この文章を書いている。
漆黒と蒔絵の金がキラキラと輝きを放つ仏壇。実に豪奢で鮮やかである。
実は昔から、密かに仏壇に憧れていた。
「自分の仏壇が欲しかった」なんて言うと気味が悪い子どもに聞こえるかもしれないが、自分が死んだ後の居場所が欲しかったわけではない。実家に仏壇がなかったからこそ、テレビのドラマや親戚の家で見かける「黒や茶の木目」「富の象徴を思わせる金の装飾」「漢字が流れるように刻まれたお位牌」という存在に、どこか格好よさを感じて「いいなあ」と眺めていたのだ。だから今、こうして嫁ぎ先の立派な仏壇に向き合っていると、どこか幼い頃の夢が叶ったような、誇らしいような気持ちすらの覚える。
最近は新築の家を建てる際、昔のように大きな仏間を作らない家庭が増えているそうだ。住宅事情や生活様式の変化もあるのだろう。昔ながらの立派な仏壇を置く空間そのものが消えつつある中で、この家で大切に守られてきた仏壇に対面できていることを、私はかなり気に入っていた。
……と、ここまで思いを馳せて正気に戻る。
違う違う。
私が今日書きたかったのは、仏壇愛の告白ではない。
「お盆システムに物申す」はずだったのだ。
どこへ行った、私のモヤモヤ。カムバック、私の違和感。
胸の内に問いかけ直し、ようやく自分の本音のありかに辿り着く。
……この家って、思っている以上に宗教をやっていないか?
そう、これだ。
私の嫁ぎ先を見ていると、「無宗教」と言いながら、生活の中には、ものすごくたくさんの宗教が残っているように見える。
それはきっと、信仰という厳格な言葉だけでは包み切れないものなのだと思う。ご先祖様を敬うこと。お墓を清めること。季節の節目に家族が集い、昔から続いてきたお決まりの手順を今年も同じように繰り返すこと。
これは宗教なのか。それとも文化なのか、単なる習慣なのか。あるいは、そのすべてが入り混じった不可分な何かなのか。宗教三世という宙ぶらりんな立ち位置で育った私には、いよいよその境界線が分からなくなる。
お盆の何がすごいって、その歴史のしぶとさだ。
一体全体、誰がこんな手のかかる仕組みを考えついたのだろうと面白半分で調べてみたら、どうやら犯人は誰か一人ではないらしい。教祖がドンと掲げた教義でもなければ、天才的な政治家が作ったシステムでもない。長い年月をかけて、いろんな都合や感情が重なり合ってできあがった「世紀のハイブリッド」なのだ。
基盤にあるのは、仏教が入ってくるよりずっと前から日本にあった「夏になるとご先祖様が帰ってくる」という感覚らしい。そこに仏教の法要が乗り、さらに江戸時代、キリシタンを取り締まるための寺請制度という国のルールがガッチリ噛み合った。
ご先祖様を迎えるという昔からの習わし。
仏教という供養の形。
そして、家と寺を縛りつけた昔の制度。
それらが何百年もかけて混ざり合い、時代の変化に合わせてアップデートされ続けた結果が、いま目の前にあるこのお盆というわけだ。そう考えると、なんだか急にスケールの大きな話に思えてくる。超長寿のモンスターシステムである。
でも、ここでまた素朴な疑問に戻ってしまう。
なぜ私の嫁ぎ先は、うちは無宗教だからとあっけらかんと言いながら、この大掛かりなシステムをサクサク回せるのだろう。
頭の中で何を信じているかということと、身体を使って何をしているかということは、実はまったく別物なのかもしれない。専門的な言葉を使えば『信条(belief)』と『実践(practice)』の違い、なんて言うらしいけれど、難しい理屈はともかく義理の実家を見ているとすごく腑に落ちる。
義父母も夫も、別に仏教の教えを深く勉強しているわけじゃない。
「信仰ですか?」と聞かれれば「いや、別に」と答えるだろうけれど、やっていることはどう見ても完全な実践だ。
きっと本人たちにとっては、宗教というより「毎年やってくる家族の決まりごと」なのだろう。信仰というより、夏が来たら袖を通す夏服のような生活の型なのだ。
じゃあ、これは宗教なのか。それとも文化なのか、ただの習慣なのか。仏壇の前に座り込んでいると、いよいよその境界線が怪しくなってくる。
たぶん、どれか一つじゃなくて全部なのだ。生活の中に馴染みすぎて誰も意識しなくなったもの。
香炉の灰を平らにならすとき。
黒と金の漆を布で磨くとき。
お墓の雑草を抜くとき。
そこにあるのは、難しい教典の知識じゃない。「今年も無事にこの季節が来たね~」という確認であり、いなくなった人たちへのごく自然な敬意だ。こうするものだと教えられ、去年と同じように手を動かすうちに、身体が勝手に覚えていく作法なのだろう。
これをただの宗教と呼ぶのはどこかしっくりこない。けれど、単なる習慣と切り捨てるには、どこか胸にくるものがある。
私はこれからもずっとこの違和感と付き合っていく。
けれど、一つだけはっきりした。
お盆というシステムは、思っていた以上にしぶとい。
私はお盆そのものが嫌いなわけではないのです。
面倒だとも、やめればいいとも思っていません。
掃除をして、家族でお墓参りに行って、ご先祖様をお迎えする。
それはそれで、日本の夏らしい素晴らしい風景だなと感じています。
私自身も、ごく普通に参加しています。
ただ、参加しながら、どうしても頭の中に「?」が浮かんでしまうのです。
私が育った家では、ご先祖様はもっとずっと身近な存在でした。
私自身が教えられてきた考え方では、先祖はいつも私たちの近くにいます。
後ろにも、横にも、前にも、上にも。
ずっと見守ってくれている、いわばものすごく近い存在だったのです。
だから私の中では、ご先祖様も「普段はどこか遠いところにいて、お盆になると帰ってくる人」という感覚ではありませんでした。
今の自分がいるのは、ご先祖様がいたから。
親がいて、その親がいて、そのまた親がいて。
自分の直系の先祖だけではありません。
これまで生きてきたたくさんの人たちが、何かを作り、何かを残し、次の世代へ渡してきた。
その積み重ねの先に、今の自分がいます。
そしてそれが、「年上の人を敬いましょう」といった、私の生家の倫理観にもつながっていました。
先に生きてきた人を敬う。
自分より長く生きてきた人には、それだけの経験がある。
今の自分があるのは、先に生きてきた人たちのおかげでもある。
そういった考え方でした。
だからこそ、嫁ぎ先のお盆に参加するようになって、私はふと考えてしまうのです。
ご先祖様って普段はどこにいらっしゃるのでしょう。
天国でしょうか。
極楽浄土でしょうか。
それとも、あちらの世界のどこかで、大きな鏡や池のようなものを覗き込みながら、
「おお、今年もあの子は元気にやっているな」
なんて、下界を見守っていらっしゃるのでしょうか。
そんなことを考え始めると、私の頭の中はどんどんこんがらがってきてしまいます。
聞いてみたいのです。
ものすごく聞いてみたい。
ところが、嫁ぎ先のお寺様とは、そう頻繁にお会いするものでもないようです。
お寺へちょくちょく遊びに行くようなこともありません。
お坊さんが家に来られて、一緒にお茶を飲みながら、
「そもそもご先祖様って、普段どこにいらっしゃるんですか?」
なんてお話をする機会もありません。
聞くに聞けないのです。
だから私は、勝手に考えています。
考えながら、お盆に参加しています。
お盆も、お正月も、お彼岸もあります。
この土地には土地神様のお祭りや、季節ごとの行事もあります。
私はそこにも参加します。
「そういうものなんだな」と思いながら、一緒に手を動かしています。
ただ。
やりながら、考えるのです。
そして、たまに心の中でツッコんでしまいます。
だから今回も、「お盆システムに物申す」と大げさなタイトルをつけましたが、別にお盆を廃止しろと言いたいわけではないのです。
私はただ、
「これって、どういう仕組みなんですか?」
と聞いてみたかったのだと思います。誰に聞いたら答えてくれるのか分からないので自分で考えていました。
宗教三世として育ち、無宗教の家に嫁いだ私だからこそ、見えてくるものもあるのかもしれません。
そして、見えてしまったからには、たぶんこれからも考え続けてしまうのだと思います。




