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月は、白くなかった。
灰色でもない。
黒に近い。
鈍い黒。
そして、その黒の上に、紫の筋が走っている。
地球から見ていた月と、
同じ天体のはずなのに――
完全に、別物だった。
(いや、月ってこんな色だったっけ……)
★
船が月の裏側へ回る。
その瞬間。
地球が消えた。
視界から、完全に。
胸の奥が、空洞になる。
人は、見えるものに安心する。
地球が見えない。
それだけで、僕の脳は理解した。
――帰れない。
事実が、静かに確定した。
★
着陸。
荒れた。
月の重力は弱い。
本来なら、もっと楽なはずだった。
だが。
地形が狂っている。
蓮見が叫ぶ。
「地形データと違う!
クレーターが増えてる!」
槙が歯を食いしばる。
「増えてるんじゃない」
一瞬の沈黙。
「作られてる」
★
作られている。
その言葉が、船内に落ちる。
地球だけじゃない。
月も改変されている。
つまり――
リングは地球を侵略しているわけじゃない。
もっと大きい。
太陽系そのものを、
自分の『領域』に書き換えている。
(……スケールでかすぎだろ……)
★
船が安定した。
僕は窓から外を見る。
そして――
それを見つけた。
構造物。
★
月面の地平線を切り裂くように、
巨大な柱。
一本じゃない。
二本でもない。
何本も。
柱。
柱。
柱。
その間に、
薄い膜が張られている。
光を吸っている。
形は、神殿に似ていた。
ただし。
人間の神殿は、人間の尺度で作られる。
これは違う。
尺度がない。
意図がない。
意味もない。
ただ存在している。
(いや、意味はあるんだろうけど……
人間の脳が理解できないやつだな、これ……)
★
僕らは宇宙服を着る。
外へ出る。
月面。
砂。
足を取らない。
音がない。
完全な無音。
自分の呼吸だけが、やけに大きい。
★
構造物に近づく。
その時。
僕のヘッドセットのノイズが変わった。
ピー。
ピー。
ピー。
パルス。
それが重なる。
揺れる。
複雑になる。
信号じゃない。
圧力。
音が骨に触ってくる。
(うわ……耳じゃなくて、頭で聞いてる感じ……)
★
僕は金属片を取り出す。
伊吹の『鍵』。
父の世代の残骸。
送信器へ接続。
手袋越しに操作。
送信開始。
僕は言う。
――こちらは地球。
――あなたは誰だ。
――何をしている。
――なぜ。
★
返事は、すぐ来た。
ただし。
言葉じゃない。
★
視界が歪む。
月面が近づく。
柱が近づく。
いや。
違う。
柱が、
僕の内側に入ってくる。
“理解”が、外から押し込まれる。
★
僕は膝をつく。
吐き気。
ヘルメットの中で広がる。
そして――
頭の中に、
何かが流れ込んだ。
★
暗い海。
無数のリング。
星。
星が並ぶ。
音符みたいに。
並ぶ。
崩れる。
並び直される。
巨大な手。
惑星を撫でる。
砂場をならすみたいに。
撫でられた場所が、滑らかになる。
そこに住んでいた気配が――
消える。
★
僕は理解した。
敵は、僕らを敵だと思っていない。
殺すつもりですらない。
虫を踏みつぶす意識すらない。
ただ。
整える。
地形を。
環境を。
宇宙の一部を、
別の仕様に合わせている。
それだけ。
★
そして。
僕らは、
その仕様に合わない。
だから消える。
意味もなく。
★
「ユウ!」
槙の声。
遠い。
千早が僕の肩を掴む。
「意識を保って!
脳波が――」
★
僕は叫びたかった。
でも。
空気がない。
代わりに。
僕は送信器の出力を上げた。
理解したからだ。
問いかけは無駄。
交渉も無駄。
相手は倫理を持たない。
そもそも。
僕らを“相手”として認識していない。
★
なら。
僕らができることは一つ。
仕様に割り込む。
それだけ。
★
父のリングプレート。
刻まれた番号。
鍵。
それは。
月面通信の暗号じゃない。
もっと古い。
もっと根源的な。
『同期規格』。
★
僕は送信器に番号を入力した。
一瞬。
世界が静かになる。
ノイズが止まる。
音が一本の線になる。
線が――
扉になる。
★
扉の向こう。
何かが、こちらを見る。
視線じゃない。
測定。
僕の存在が、初めて、
『データ』として取り込まれる。
★
その瞬間。
僕は確信した。
地球を救えるかもしれない。
……いや。
違う。
僕はただ、
その希望を、
欲しがっただけだ。




