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月の裏側に、祈りは届かない  作者: ハイカラな人


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3/6

3

 発射場に到着したのは、灰色の雨が降る日だった。


 雨、と呼んでいいのかは怪しい。

 鼻を刺す酸性の匂い。

 鉄がゆっくり死んでいく匂い。


(あー……うん……これ、たぶん人体にも良くないやつだな……)


 視界の先には、かつての『ロケット発射場』。


 残っているのは三つだけ。


 巨大な格納庫。

 半分朽ちた管制塔。

 そして――


 ひとつだけ、奇跡みたいに動く船。


 ★


 船名『ミナト』。


 古い。

 とにかく古い。


 再利用。

 再改造。

 再々改造。


 いわば、生き残りの寄せ木細工。


 それでも――


 核は健在だった。


 推進系。

 姿勢制御。

 生命維持。


 今の世界では、それだけで神話ランク。


(いやほんと、よく残ってたなこれ……)


 ★


 搭乗員は四人。


 操縦士『まき』。

 元宇宙機関テストパイロット。

 目が乾いている。


 あの目は、たぶん、

 何回も死ぬかもしれない状況を見てきた目だ。


 工学士『蓮見はすみ』。

 若い。

 だが手が汚れている。


 油と血の匂い。


 整備士の手じゃない。

 戦争の手だ。


 医療担当『千早ちはや』。


 顔色が悪い。

 しかし声は落ち着いている。


 医者のスキルの半分は、

 安心しているフリをする能力だ。


 そして――


 僕。


 『通信解析』。


 仕事は一つ。


 耳になること。


 ★


 伊吹は地上に残った。


 最後に彼女は、

 僕に金属片を渡した。


 リング状のプレート。


 父の遺品に似ている。

 だが刻印が違う。


「これ、月面の近距離通信で使う」


 伊吹は言った。


「あなたの父親の世代が残した“鍵”」


「なんで……こんなものが」


「残してた人がいる」


 彼女は静かに続けた。


「世界がこうなる可能性を、

 想像していた人たちが」


 想像。


 昔は、それに価値があった。


 未来を考えることが、

 まだ笑われなかった時代。


 そんなものが、確かに存在した。


 ★


 出発直前。


 槙が僕に言った。


「言っとくけど」


 乾いた声。


「月に着いたら、帰れないかもしれない」


「帰れなくても」


 僕は答えた。


「やることは同じです」


「……冷静だな」


「冷静じゃないと」


 僕は言う。


「手が震えるから」


 半分本当。

 半分嘘。


 僕は震えていた。


 体じゃない。


 内側が。


 ★


 カウントダウンは短かった。


 燃料は有限。

 時間も有限。


 つまり――

 余裕ゼロ。


「点火」


 ミナトが震える。


 地面を蹴る。


 重力を裏切る。


 そして――


 空に突き刺さる。


 ★


 窓の外で、世界が縮んでいく。


 海の色が鈍い。

 雲は不自然に薄い。


 地表には、赤い傷跡。


 『リング改変跡』。


 世界に刻まれた、巨大な手術痕。


 空を見る。


 リング。


 近づくほど分かる。


 あれは星じゃない。


 天体じゃない。


 構造物だ。


 意志の形。


(……つまり、あれ作ったやついるってことだよな……)


 ★


 月へ向かう軌道に乗る。


 船内が急に静かになる。


 静かすぎて、呼吸がうるさい。


 僕はヘッドセットを装着する。


 受信機起動。


 耳の中に広がるのは――


 砂嵐。


 ノイズ。


 いつものノイズ。


 ただし。


 距離が違う。


 今日は、

 “近いノイズ”。


 ★


 そして。


 そこに――


 線が混じった。


 ピー。


 ピー。


 ピー。


 単純なパルス。


 心電図みたいな脈。


 僕は息を止める。


 脳が勝手に解析を始める。


 合図か。

 誘導か。

 罠か。


 槙が振り向いた。


「拾った?」


「……拾いました」


「何て?」


「まだ分からない」


 僕は言う。


「でも――」


 一瞬、躊躇する。


「“呼んでる”」


 ★


 呼んでいる。


 その言葉を口にした瞬間。


 背中に、冷たいものが走った。


 もし呼ばれているなら。


 それは会話じゃない。


 交渉でもない。


 ――狩りだ。


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