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妻殺し

 吉村賢二は、元来、真面目な性分である。曲がったことが嫌いで、生活面でも几帳面であった。人間関係でも、そんな吉村の性格は表れていた。雑でいい加減な関係を避け、礼儀を重んじるような所もあった。そんな吉村の最近の悩みが、彼の妻の存在であった。彼の妻の咲江は、そんな吉村とは正反対で、女の割には、おおっぴらに男とは遊び、酒をよく飲み、生活でも堕落していた面があった。そんな咲江を、彼は以前より強い忍耐力で耐え、我慢していた。咲江が、酒を飲んで遅く帰宅しても、嫌な顔ひとつもせずに迎え入れて許していた。複数の男と肉体関係を持って不倫していることも、たとえ彼女が隠していても、うすうす彼は感づいていた。咲江は、もともとの遊び人タイプの女性であったのである。

 しかし、吉村にも、ついに我慢の限界がやって来た。ある秋の夜に、咲江が、いつものように肌を露出した派手なコスチュームを着て、自宅の玄関先で、酒に泥酔して寝転がっている姿を見て、吉村は心底、咲江を憎んだ。もう、我慢できない。我慢の限界だ。吉村は、寝転がった咲江の胸ぐらを掴むと、そのまま、自分の書斎に引きずり込んだ。

「何よ、あなた、怒ってるの?」

 咲江は、書斎のソファに突き飛ばされて、びっくりしたように言った。

「お前、今、何時か分かってるのか?おい!」

 すると、咲江がソファに起き上がって、

「何時に帰ってこようが、あたしの勝手でしょ?何言ってんのよ!」

「それが、妻が亭主に言う言葉か!」

「こんな女にしたあなたが悪いんでしょうが!」

「何を!」

 吉村は、衝動的に逆上した。もう理性のブレーキは働かない。その時、偶然にも、彼の座る机の上に、細いペーパーナイフが置いてあった。吉村は、ためらうこともなく、そのナイフを握ると、ソファの咲江の胸にグサリと突き立てた。刺してから、吉村はしまったと後悔の念が起こった。しかし、咲江は、刺しどころが悪かったのか、もうピクリとも動かない。死んでしまったのだろう。しばらく、吉村は、呆然として、その場に立ち尽くしていた。それから、今の状況を頭で整理して考え、冷静さを取り戻した。彼も社会的に立場ある人間であった。このまま正直に警察に自首する気にはならなかったのだ。そこで彼は何とかしてこの場を取り繕い、自分の犯行を隠蔽することに心を決めた。

そう考えると、そのための方法に集中し、より冷静になれる気がしてきた。

 そこで彼は、最終結論として、妻が物盗りの犯行により殺害されたことにするのが、一番、無難であると思われた。

 まず、妻の死体を彼女の部屋に移さねばなかろう。彼は、慎重に手袋をはめて、血まみれの死体を抱き上げ、書斎を出ると、廊下の奥にある妻の寝室まで運び込んだ。そして、着衣を乱した妻をベッドに寝かせると、部屋じゅうの引き出しや、ものを床に散乱させて、部屋の窓ガラスを開けて、外から内側に向け、ガラスを割った。たくさんのガラスの破片が部屋じゅうに飛び散った。そして、めぼしい貴重品を盗むと、ポケットに入れ、それから、自分の書斎に戻った。

 次は、書斎である。咲江を刺したときに、幾ばくかの血が吹き出て、当たりに飛び散っている。このままでは、マズいことになる。そこで、彼は一枚の新しいタオルを持ってくると、それで書斎じゅうの血痕を丹念に拭い取った。これで、あとで見ても書斎の犯行とは気づかれないだろう。最後に、ポケットに入れた咲江の貴重品の処分だ。これは、もちろん物盗りの犯人が取っていったものだから、これらの物品は、どこか遠くに捨てに行くことにした。そこで、吉村は車をガレージから出して、乗り込むと、郊外の雑木林まで出かけた。地面に穴を掘り、そこへ投げ込むと、また埋めておき、急いで帰宅した。

 帰宅すると、書斎に引きこもり、今までの行動を振り返って、どこかミスはないかと頭の中でチェックした。大丈夫だ。何とかなる。吉村は、自分を勇気づけた。

 そう決まると、少しこころが落ち着いた。そこで、おもむろに、警察へ通報したのであった。


「いや、お気持ちは察します。ご主人も大変なことになって」

 応接間で、ソファに座り、向かい合ったのは、警視庁の山村という初老の刑事であった。深刻な話だが、山村は、どこか人懐っこい笑顔を浮かべていた。吉村は、なかなかに、彼への好印象を抱いていた。

「僕もびっくりしましたよ。会社から帰宅したら、彼女の部屋が、あの有様なんでしたから」

「一応、現時点では、物盗りの犯行とみて、捜査を進めています。現場の様子から判断しましてね、また何かの情報があり次第、お伝えします。それでは、今日はこれで」

と、笑顔を崩さずに、山村刑事は自宅から姿を消した。

 吉村は、内心で、ホッと一息ついた。今のところは抜かりないようだ。

彼は、書斎のアームチェアに身を沈めて、サイドテーブルに置かれたチェス盤をボンヤリと眺めた。ひとりで、チェスパズルを解くのが、彼の趣味のひとつであった。倒れたキングの駒を立て直して、新しい問題に取り組んでみた。しばらくチェスに集中していると、自然と心が落ち着いてきた。

 チェスに一段落させると、少し眠くなってきた。それで、もう寝床につこうと、彼は、自分の寝室に引き込んだ。

 翌日の午後、また山村刑事が訪れた。少し話したいというのだ。それで応接間に通すと、彼は、手にしたメモ帳を繰りながら、

「いや、たいしたことでもないんですがね、ちょっと頭に引っ掛ける事がありまして..............、と、これだ、これだ、つまり、こういうことなんです。「何故に、犯人は細身の刃物を犯行に使ったのか?」とね。おかしいでしょう?物取りですよ。あらかじめ、凶器を持ってきたなんて考えにくい。物盗り目的だから、凶器なんて必要ないじゃありませんか、ねえ。どう思われます?」

 吉村は焦った。そこまでは、考えていなかったのだ。そこで、

「犯人は、万が一の可能性を考えて、あらかじめナイフを用意していた。悪事ですからね、どんな事態になるとも分からなかったんじゃなかったんですか?」

「そうですね。ふむふむ、「犯人は用意周到な人物である」と。これで分かりました。なるほど。えーと、あと一点、これだ。「何故に、窓の外の庭に、犯人の足跡がついていないのか?」ねえ、不思議でしょう、犯人は、どうやら部屋の窓から侵入している。なのにも関わらず、庭には、犯人の足跡がないんですよね。いかがです?」

「ふむ」

と、吉村は反論を諦めた。

「そうですね。確かに不思議です。何かの原因で、足跡が消えてしまったのでしょうか?僕には分からんですね」

 しばらく、山村は、沈思黙考していたが、そのあとで、また謎めいた微笑を浮かべると、

「いやいや、あまり、あなたの手を煩わすのも私の気が引けますよ。今日は、これくらいで退却するといたしましょう。いや、どうもありがとうございました。これで失礼しますよ」

 そう言い残して、山村は帰っていった。

 応接間に残った吉村は、しばらく軽いパニック状態にあった。確かに、庭の足跡は、致命的なミスである。そして、同時に、山村刑事に対して、恐怖感めいた強迫意識を抱かざるを得なかった。ある種、敵に回すと恐ろしい刑事かもしれない。これからは、もっと気をつけないと。


それから、数日して、また吉村は、吉山刑事の訪問を受けた。今までとは違って、山村はいつになくニコニコと笑って明るい表情で現れた。

「いやあね、どうやら事件の目星がついたんですよ、どうです?今日は、あなたの書斎で少し話しませんか?」

 別に断る理由もない。そこで、吉村は、刑事を書斎に通して、自分はアームチェアに腰かけ、山村はソファに座った。山村が唐突に言い出した。

「あなたには失礼かとは思ったんですがね、あなたの亡くなった奥さんに関して、裏を取らせて貰いましたよ。あなたの奥さん、かなりの遊び人だったそうですね。酒と男ですか?結構派手にやってらした。それに対して、あなたは、身なりや言動、家の様子から見て、かなり几帳面な性格だ。としたら、もしかしたら、あなたと奥さんの間で、何らかの口論になったという可能性もあるわけですよね。いかがです?」

 吉村は無言であった。何も言えない。山村が続けた。

「もう一つは、現場の不自然な状況です。奥さんの死体は血まみれです。にもかかわらず、寝室で寝てらしたベッドには、一滴の血の跡もないんです。それでピンと来ました。たぶん、奥さんは別の場所で殺されて、寝室に移された。でも、そんなことをする人物はいったい誰でしょう?」

 山村は、そこで間を置き、ジッと吉村の眼を見つめた。吉村は、背筋がゾッとする思いであった。また、山村が口を開く。

「この書斎は、あなたのお気に入りの部屋だ。おそらく、あなたは奥さんをこの書斎に引き入れて、ここで口論となった。そして、かっとなったあなたは、この部屋にあったナイフで奥さんを刺し殺した。では、ありませんかな?」

「しかし」

と、吉村は必死に反撃した。

「決定的な証拠に欠けますよ。証拠はありますか、証拠は?」

 山村はしばらく黙っていた。そして、その視線が、ゆっくりとサイドテーブルに置いたチェス盤に向いた。

「実はね、私もチェスパズルが趣味なんです。手習い程度の腕前ですがね。それで分かったんですが、このパズル、キングが詰んでますよね。ということは、キングの駒は、横に倒したことになりますよね。それで、分かった、というか、可能性に気づいたんです。もしかしたら、あなたが奥さんを殺害したとき、キングの駒は、倒してあったんじゃないかってね。としたら、もしかすれば、その時に.................」

と言って、山村は、チェス盤に置いたキングの駒を持ち上げて、その底面を吉村に見せた。それを見て、吉村は、驚愕し、そして、落胆した。キングの駒の底面に、一滴の血痕がついていた。

「この血痕が、奥さんのものかどうかは、警察に持ち帰ってDNA鑑定にかけてみます。あなたもご存じのようにー」

「もういいですよ。あなたに負けました。確かにそれは妻の血痕です。僕が妻を殺しました。ついカッと逆上してしまいましてね、今では、心から後悔していますよ、どうしようもありませんがね」

 最後に、山村刑事が、しみじみといった様子で言った。

「しかし、キングの駒ひとつとはね、あなたもうっかりしくじったものですな」

 吉村は上の空であった。彼は、もう帰らぬ妻との思い出をあれこれと思い返しては、溜息をついていたのであった....................。

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