清浄
2027年(令和9年)初夏――――――【日本列島南東沖の領海 上空15000m】
四本マストが特徴的な大航海時代を彷彿とさせる見た目の帆船=ミツル商事多目的船『ディアナ号』は、首相官邸からの情報を基に通称水の大地が浮かぶ空域に到着した。
(大月満視点)
「水の大地とディアナ号相対速度ゼロ。本当に浮遊していますねぇ」
ひかりさんがおっとりとレーダーと対物緩衝センサーを視ながら報告してくれた。
「結、船体は島側に甲板が接する位置でお願いします」
「アイアイお父さん」
結に接岸指示を出すがこの返事に照れてしまう。
可愛いからな我が家のトカゲ娘は。
「美衣子、島の大気成分分析お願いします」
「アイアイお父さん。クエッ!」
結に対抗しようとして違うリアクションしなくて良いからね。
さて、目視で島を確認しよう。
本当にこんな所があるんだな、というのが此処へ着いて思った第一印象だった。
「美衣子さん、お外の空気は大丈夫かしら?」
「ひかり、問題ない。防護服も防毒マスクも要らないわ」
ひかりに訊かれて答える美衣子。
どうやら安全らしい。
一応皆に注意喚起して上陸しよう。って、瑠奈!ワンピースにサンダル履きで甲板出ちゃいけません!
「うぅ~ん良い空気っス!」「あらあらまあまあ瑠奈さんやる気ね」
ひかりさんソコは注意喚起では?
そして深呼吸する瑠奈さん。貴女はカナリアですか?
もう良いや……気を取り直して。
「それじゃあ上陸しよう。空気は大丈夫だけど何が起こるか分からないから携帯武器は忘れないでね。
それじゃあ、湖へ向かって前進!」
「「「「アイアイサー」」」クエッ!」
……だから美衣子さんry分かっていますから大丈夫。
まるでピクニックへ行くかのような服装で水の大地島側へ足を踏み入れた大月家一行。
先頭を意気揚々と歩く瑠奈は湖岸に到着してもそのままザブザブと水中へ進もうとする。
「ちょっとちょっと瑠奈ステイ!湖の中を調べる前に島を調べようね。
秘密基地とか有るかも知れないしね」
「秘密っっ!そうっスね!」
慌てて瑠奈に追い付いて引き留め新しい目標を与える俺。最近、こういう臨機応変さが身に付いたのは良いことなのか?
って!結、美衣子!貴女達までザブザブ進んじゃダメーッ!
……ふぅ、疲れた。
清浄な水を豊かに湛えた湖畔で小さな波が岸へ打ち寄せるのを眺めた後、振り返って島をあらためて眺める。
島自体は標高3メートル程の中央へ緩やかに傾斜している以外は目立った高低差はない。
若い芝草だろうか。
人工芝の様な新しい青い草が波打ち際から大地を覆っている。
そして、ふと鼻に付く懐かしい刺激臭を感じる。
これは、学校の水泳授業や市民プールで嗅いだことの有る匂いだ。カルキ臭か?何だっけ?
記憶を更に思い起こそうとする俺の視線の先に居たひかりさんが、朽ちたワゴン車をのぞき込みながら呟く。
「財務次官さんだったらウチよりも高給取りだった筈なのにどうしてこんなオンボロな車を買ったのですかねぇ」
首を傾げるひかりさん。すいません、もっと稼ぎますので何卒よろしくお願い申し上げます。
「ひかりはレトロカーの嗜みが分かっていないわ。ココは私が……」
フンスと薄い胸を張った美衣子がワゴン車の下へ潜り込んで行く。
いやいや美衣子さん、車の下へ躊躇なく潜り込む嗜みなんてあったの?
貴女は凄腕メカニックで、どちらかと言えば魔改造大好き少女では?
ひとしきり車の下でゴソゴソやっていた美衣子だが、やがてワゴン車の下から反磁力線ボードに背中を預けて這い出ると、タブレット端末片手にムフーと一息ついてしきりに頷いている。
ベテラン職人が熟考している様にも見えるが、寝そべっておへそを出したまま貫禄を出されてもねぇ。
嗜みはどこ行った?
ひかりが美衣子に車体がどうだったか聞いたが「他の事と合わせて調べてみるわ」と素っ気なかったので特に俺から何かを尋ねるのも煩わしいだろうと思い止めておく。
水の大地は夜を迎え、湖畔でバーベキューを楽しむ我が家。
ディアナ号から持ち寄った食材を調理して食べて飲んで、キャンプファイヤー(薪がなかったので、三姉妹が木星大気主成分(水素)を使ったので島外周が炎に包まれた!)をささやかに楽しんだ後、木星の星空を満喫した。
夜になった水の大地は虫の音や生き物の音が一切聴こえず、清浄な空間といった雰囲気を醸し出している。
この浮遊島嶼はおそらく形成されたばかりで木星原住生物はまだ根付いていないのだろう。
俺としてはお腹が満たされて眠気を覚えたのでテントの中で寝袋に包まれたい気分だったが、涼しく清浄な懐かしい刺激臭の夜風が吹くなり美衣子が「ココの夜は人が居てはいけないわ」と意味深な事を言って寝袋ごと俺を三姉妹が担いでディアナ号へ強制帰艦となった。
でも、船内個室でひかりさんと夫婦水入らずの素敵な一晩を過ごせたので良しとする。
翌朝、我が家の恒例行事であるラジオ体操をする為に再び島に上陸してひんやりした空気の満ちる湖畔へ到着すると、俺が建てたテントやバーベキュー、キャンプファイヤーで使った道具一式が変わり果てた姿となっているのを見つけて家族一同唖然とする。
みなとみらいのモンベルで買った装備一式が……うぐぅ。
「なんで!?俺のテントが茶色く変色してボロ布みたいに……」「バーベキューの鉄板や飯盒炊爨が錆だらけで汚いっス!」「このキャンプファイヤー台高かったのに……」
俺やひかりさん、瑠奈、結が嘆き打ちひしがれている間、美衣子は湖畔やワゴン車周辺の土や湖の水を採取すると、背負っていた箱形の容器に投入して何やら分析している。
「……やはりそうだったのね」
「どういう事かな美衣子?」
しばらくして呟いた美衣子に質問する。
「昨夜遅く、水の大地は非常に濃密な塩素ガスに晒されていたわ。お父さんの言う懐かしい刺激臭は塩素の事でしょう?
木星大気の主成分は水素やヘリウム、アンモニアだけど水や酸素も有る。そして、硫化水素やベンゼン、塩素といった人体に有害なガスも所々に存在している事が分かった」
「じゃあ、ワゴン車の家族は有害なガスに殺られたって事か」
「そう。この水の大地は一定周期で濃密な塩素ガスの雲海が通過していたのよ。木星を周回する長大な筋雲が時速400kmから500kmでほんの1時間通過しても濃密な塩素ガスは充分な致死量となるわ」
タブレット端末に表示された分析結果を、ホログラフィックで俺やひかりさんに見せる美衣子。
美衣子の解説は続く。
「ワゴン車の家族の死因はいずれも肺水腫、気道痙攣、低酸素血症、呼吸困難といずれも塩素ガスの中毒症状に合致するわ。
ちなみに、朽ち果てた車は車検証を見たら最近購入した新車だったわ。濃密な塩素ガスに晒された車体のブレーキ、タイヤ、マフラー、ワイパーの腐食が進行していたわ」
「それじゃあ、塩素ガスに晒される周期を予測したり、塩素ガスから身を護る設備や対策を講じない限り此処を新天地とすることは出来ないですねぇ……」
残念そうなひかり。
「人類にとって有害な自然現象が起きることが分かったけど、一体誰が何の目的でここへヒトを運んだのだろう?」
俺は皆に尋ねたが、誰も答えられなかった。
湖から清浄な一陣の風が大月家一同の足元を吹き抜けていき、一同から離れた湖畔の端に朽ち捨てられていた小さなビニール袋を空高く巻き上げてゆく。
ビニール袋は塩素ガスの腐食で印字が霞んでいたが、とある一般的なドーナツ菓子の記載が読み取れる筈だった。
沈黙する大月家の中で唯一美衣子だけが、吹き上げ飛ばされてゆくビニール袋を興味深げに見上げている。
雲上に居た何かと一瞬視線が交わったものの、興味無さげに半重力ボードに身体を乗せて湖へダイブする美衣子。周囲に水飛沫が飛び散る。ちべたいっ!
では次は水中調査ですかね?ディアナ号へ戻って水着を持って来ようか。
ひかりさんも水着どうですかグフフ、ってあばばばばば!
美衣子!電撃止めて!湖で電撃はみんな巻き込んでしまうから!
赤面してディアナ号へ走って戻って行ったひかりさんを除く全員が湖畔で感電する所までが調査前の準備運動です!
非常に痺れた水中調査でした。生物はプランクトン含めて存在していなかった。
清らかすぎる水に魚は住まない、ってやつだな。
調査は終わった。ワゴン車の家族以外の第三者の痕跡は見つからなかった、と報告書には記すしかないだろう。
――――――【水の大地 よりも大気圏上層】
空高く巻き上げられたビニール袋の遥か上方、通過しつつある灰色の長大な筋雲の合間から黒い水素クラゲがジッと大月家一同を見下ろしていた。