横浜バラ園
伸子は、ジェリーがカラオケハウスのアルバイト店員が、ジェリーとやけに仲がいいのがきになった。
「また、たのみますよ。」
「はは。いつもありがとうす。」
伸子は、「私はさくら?」という。
それをきいた、異国人が即興で、うたった歌。
しばらく、伸子はさくらさんとよばれるときもあった。
さくら さくら(Sakura Sakura)
さくら さくら さくら さくら
やよいの空は のぶこはさくらよ
みわたす限り みわたすかぎり
かすみか雲か かすみかくもか
朝日ににおう あさひににおう
さくら さくら のぶこはさくら
花ざかり はなざかり
さくら のぶこ
野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か
においぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん
見わたす限り
かすみか雲か
においぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん
横浜でも、伸子は早く目を覚ました。パーカーを羽織り、階段を下りて長い廊下を歩くと、バラ子やダビデの恋人・明日香もすでに起きていたようで、昨日もらった朝食券を手に、朝食の提供を待つ列に並んでいた。
バラ子は、レースの刺繍が施された膝丈のスカートを着ていた。それは、先日カラオケハウスで彼女が着ていたものと同じだった。しかし、伸子はどこか夢の中の自分を見ているような感覚にとらわれていた。
目は覚めているのに、意識の一部はまだ夢の世界に残っている——そんな不思議な気分で、伸子は研修施設を見渡した。さっき歩いた白い廊下が朝の光に浮かび、すべてが現実とは少しずれた場所にあるような気がした。
まだ二日前に会ったばかりのバラ子と明日香だが、この100人規模の研修施設ではさまざまな団体が寝泊まりしている。そのせいか、かえって二人が長年の友人のようにさえ思えた。
「集まりは三時からよね。やっぱり十分前集合かしら?」
ダビデが「明日香」と呼ぶ彼女は、実はどこの国から来たのか、まだわからなかった。彼女は日本のルールを知りたがり、伸子に何かと質問してきた。
「私はそうしてるけど、ぎりぎりに来る友達はいつもぎりぎりね。」
どのケースも状況次第で変わるものだから、答えに迷う。
「あらためて、この企画のインフォメーションするって。」
「これって、日本流?」
伸子は首をかしげるしかなかった。明日香は何やら異国の言葉で独り言をつぶやいていたが、「直接、水道施設に集合でいいと思うのよね」と最後の部分だけは伸子に聞かせたかったらしい。
朝食の列に並びながらも、バラ子はスマホで何かを調べていた。
「横浜のフリーパス券で、どうせなら行けるところまで行こうと思うの。」
バラ子と明日香の共通点は、日本語がとても上手なことだった。バラ子は、公共交通機関のフリーパスをどう有意義に使うか思案している。
「バラはまだ咲いていないけど、バラ園に行きたいわ。」
「それなら、私も。」
「なんて、横浜にはバラ園が多いこと。」
食事中も、バラ子のスマホをのぞき込みながら会話が弾んだ。
いつの間にか、明日香は先に部屋に戻っていた。
研修施設の前から、カタールのバラ子とバスを乗り継いだ。バスが2台連結になっているものもあった。
まるで、北海道のJRくらいのサイズ。伸子は、おどろきを口にださずにするのが、この時も精一杯だった。
バスが、動き出す前に、バスの中にある連結部分をリックを背負った少年や青年たちが通っていく。この大きなバスも、すでに、北海道JRの各駅停車の人数を超えた人数を載せて町をはしる。この、見たことのない大きな車体が、次のカーブをこの狭いと感じる車道をどうやって曲がるのか、まるで修学旅行の気分で見ていた。イギリスの二階建てバスに乗るのは、こんな気分じゃないかと思った。カタールの衣装をまとったバラ子のほうが、当たり前にこの横浜のバスに自然に溶け込んでいた。
「あそこの桜、きれいなのよ。」
バラ子が指さす方向を見ると、見事な桜が街中に咲いていた。
港の見える丘公園に二人でたった。ローズウイークのポスターは、2023年5月3日から6月11日と入口にはられていて、まだ1か月も先ではあったが、小道の両脇のビオラは今が盛りとばかりに、咲いている。
薔薇の葉は、どれもみずみずしく、よく見ると、固いつぼみがその咲くときを待つかのようについている。
「これくらいの薔薇の感じ、私は好きなのよ。咲いてしまうと、散ることを考えちゃうでしょ?咲く前にじっと、どんな色が咲くんだろう?どの子が先に咲くんだろう? この子は頂芽優勢からいくと一番乗りはこの子ね。こっちは、剪定しているから、枝分かれして、これとこれ。日当たりのいいこの子が咲くかな…」
バラ子は、薔薇を見守るお母さんのようになっていた。日本語で、「頂芽優勢」という言葉が出てくる彼女の知識の深さに、ただのバラ好きではないと、伸子は改めて敬意を抱いた。
彼女がまだ薔薇に見入っている間に、スマホで調べたりした。
「頂芽優勢とは、植物の茎の先端(頂芽)が成長を優先し、側芽(枝や葉の付け根にある芽)の成長を抑制する現象です。これは頂芽から分泌されるオーキシンという植物ホルモンが原因で、頂芽を摘むと側芽の成長が促され、枝分かれが増えます。」
そうだった。頂芽優勢のことを考えて剪定しなければいけない。植物の先端で成長ホルモンが分泌され、このホルモンがその先端をより上へ上へと伸ばさせる。太陽の光をより近くで受け取るために。しかし、上の芽ばかりが成長していたら、下の芽は育たない。だから、人は剪定して、その植物体をコントロールするのだ。
伸子は、自宅の庭のバラ、アンジェラのことを思い出した。突然決まったこの虹の輪の仲間入り。あわてて、冬囲いを取り、申し訳程度にいくつか切った。もう一度、庭の様子を見に戻りたい気分だったが、バラ子が花の咲いていないバラの木を愛おしむ姿に、すぐにそれを忘れてしまった。
彼女は続けて言った。「このトップは、私ならもう切るわ。いくら優秀でも、それは。10年前のこと。影響力がすごくて。それじゃ、側芽が育たなくて、樹の存続さえ怪しくなる。」
バラのことを話しているのだが、彼女の説得力は、他の者にも通じるような気がした。
「切らなくちゃと思う枝も、なかなか切れないのよね。まだ咲くと思うと…」
伸子は、独り言のように言った。
バラ子は大きな間をあけて、何か言おうとしたが、きっと彼女の言葉にぴったりの日本語が見つからなかったようで、「そうなんだ。」とゆっくり返した。
気がつくと、二人は園内の高台に到着しており、横浜港が一望できる風景が広がっていた。横浜ベイブリッジも、伸子にとっては初めて見る景色だった。思わず、スマホのシャッターを切ってしまった。
「こっちも、素敵よ。」
バラ子も同じように、あちこち写真を撮りたそうだったが、なんとなくお互いに遠慮して、撮るのをためらっているようだった。
高台からは、二人でいろんなアングルで写真を撮った。あんなにためらっていたシャッターを、えっと振り向くバラ子の姿もつい撮ってしまった。高台には、近くの小学生と思える集団と先生も来ていた。
「ほら、あっちが僕たちの小学校のある方。ベイブリッジは…」
遠くで、横浜の町の成り立ちを説明する先生の声がわずかに聞こえてきた。
「one hundred sixty-six years、166年」
バラ子は、撮った写真を見ながらそう言った。そして、再び高台の風を受けて横浜の町を見下ろした。
「166年?」
「開港してから166年。小さな漁村から、黒船が来て、そしてこんな風に発展して…。夢物語みたいな町よね。」
バラ子はまた何か言いかけたようだったが、、桜の写真も撮りたいと思い、バス停に足を向けた。