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【旧稿】台所シリーズ 第2部 台所は世界をかえる(長旅編)  作者: 朧月


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午後の光のアンジェラとポンポネッラ

台所シリーズ 第2部『台所は世界をかえる』長旅編

第20話 午後の光のアンジェラとポンポネッラ



三年後。



テレビのついたリビングで、哲郎がコーヒーをいれながら、響香につぶやいた。


「これが、有名なトレーナー。君の言う“トレーナー”なのかい?」


「知らないわ。伸子さんに聞いただけだもの。」


「まあ――彼、いつもトムとジェリーのトレーナーばかり着てるよね。」


「公のところに出るときはね。まるで、“グッドジョブ”って誰かに言ってもらいたいみたいに。


彼のマイクラ水道バージョン、またアップデートしたみたいよ。」



「ゲームとしては、法外の金額だろ。まさに、アメリカらしいね。」と哲郎が言った。



「アメリカ人かどうかは、わからないわ。でも、伸子さんは言ってたのよ。


ゲームで水道管の設計図をつくるシステム、虹の輪でつくったって。


きっと、高くないのよ。コピペ自由なんだから。


それで、自国の子どもたちが自国の問題点に気づくようになるって。


事情があって、伸子さんが一太郎の使い方をトレーナーに教えたって言ってたわ。」



「一太郎。なつかしいな。ずいぶん、一太郎で論文かいたな。」


哲郎は、コーヒー片手にぽつりと言った。



響香は聞き返す。


「いちたろう……って、そういえば、誰だっけ?」



一太郎ぐらい、なんとなく覚えている。でも、あえてぼけたふりをして聞いてみた。



「一太郎つかってじゃないか。研究室の共同パソコンで。みんなであの古いデスクトップを囲んでただろう。


まだWindowsが出るか出ないかって頃から日本で使われてた、文章を書くためのソフトだ。


ワープロソフトってやつだよ。Wordの前に、みんなが使ってた。」



案の定、的確に記憶の補填をしてくれる。



「じゃあ、“次郎”っていたりして。」


「そんなの、しらないよ……」


「いつ頃だっけ?」



「そう。日本語を書くには、一太郎の方がずっと都合がよかった。


縦書きもできたし、句読点の位置まで気にしてくれてな。


何より、“ことば”に対して丁寧だったんだ。


画面の右下に、ちいさく“ATOK”という文字が浮かんでいただろう?」



――1980年代前半、パソコンの世界は英語ベースで構築されており、日本語処理はとても困難だった。


そんな時代に登場した一太郎は、**かな漢字変換、縦書き、ルビなどの「日本語らしい表現」**を可能にした数少ないソフトだった。



1990年代には、大学や高校などの教育機関、研究所、行政機関でも標準ソフトとして使われ、


卒論、学会論文、行政報告書の多くが一太郎で作られていた。



一太郎は単なる製品ではなく、「日本語を使ってパソコンで表現する文化の柱」。


英語圏のWordとは異なり、日本語の文体・構文・美意識に即した設計思想が貫かれていたため、


多くの人が「一太郎じゃなきゃダメ」と感じていた時代もあった。



響香は、“ATOK”という文字は思い出せなかったけど、


パジャマ姿の弟や研究室の仲間の顔を思いだした。



そう、お世話になったパソコンオタクたちの面々。



「また、フリーズしちゃった。」


「慎吾ちゃんに言えば大丈夫よ。」



彼らに今頃、「ありがとう。」



そして、記憶の画面は、再び伸子さんの笑顔にもどる。


つわものたちや子供たちにならって、学習したことをお互いフィードバックしてたのかも……。



あの札幌の喫茶店。



「弟に教えてもらったんだけどね……」


「凛の方がAmazonの注文のことわかるのよ……」



お互いのiPadを出して、ふたりで過ごしたテーブルには、


話に夢中で溶けかけたパフェ。



リビングのテレビの画面は、ちょうど上野動物園の新しい仲間の話題に移っていた。



「かわいい。アンジェラって名前、いいね。今度、上野動物園に行かない?」



のどかな、昼さがりの午後だった。



長旅から帰った伸子さんが、孫の凛ちゃんの誕生会をした翌週、


動物園に行ったとLINEしてくれたときの写真をひらいた。



響香の庭には、ポンポネッラの花が風に揺れていた。



コーヒー片手に窓を開けると、


画面の向こうの午後の光が、アンジェラの名をやさしく包んでいた。



――おしまい――




台所シリーズ 第2部『台所はせかいをかえる』 長旅編   より

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