午後の光のアンジェラとポンポネッラ
台所シリーズ 第2部『台所は世界をかえる』長旅編
第20話 午後の光のアンジェラとポンポネッラ
◇
三年後。
◇
テレビのついたリビングで、哲郎がコーヒーをいれながら、響香につぶやいた。
「これが、有名なトレーナー。君の言う“トレーナー”なのかい?」
「知らないわ。伸子さんに聞いただけだもの。」
「まあ――彼、いつもトムとジェリーのトレーナーばかり着てるよね。」
「公のところに出るときはね。まるで、“グッドジョブ”って誰かに言ってもらいたいみたいに。
彼のマイクラ水道バージョン、またアップデートしたみたいよ。」
◇
「ゲームとしては、法外の金額だろ。まさに、アメリカらしいね。」と哲郎が言った。
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「アメリカ人かどうかは、わからないわ。でも、伸子さんは言ってたのよ。
ゲームで水道管の設計図をつくるシステム、虹の輪でつくったって。
きっと、高くないのよ。コピペ自由なんだから。
それで、自国の子どもたちが自国の問題点に気づくようになるって。
事情があって、伸子さんが一太郎の使い方をトレーナーに教えたって言ってたわ。」
◇
「一太郎。なつかしいな。ずいぶん、一太郎で論文かいたな。」
哲郎は、コーヒー片手にぽつりと言った。
◇
響香は聞き返す。
「いちたろう……って、そういえば、誰だっけ?」
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一太郎ぐらい、なんとなく覚えている。でも、あえてぼけたふりをして聞いてみた。
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「一太郎つかってじゃないか。研究室の共同パソコンで。みんなであの古いデスクトップを囲んでただろう。
まだWindowsが出るか出ないかって頃から日本で使われてた、文章を書くためのソフトだ。
ワープロソフトってやつだよ。Wordの前に、みんなが使ってた。」
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案の定、的確に記憶の補填をしてくれる。
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「じゃあ、“次郎”っていたりして。」
「そんなの、しらないよ……」
「いつ頃だっけ?」
◇
「そう。日本語を書くには、一太郎の方がずっと都合がよかった。
縦書きもできたし、句読点の位置まで気にしてくれてな。
何より、“ことば”に対して丁寧だったんだ。
画面の右下に、ちいさく“ATOK”という文字が浮かんでいただろう?」
◇
――1980年代前半、パソコンの世界は英語ベースで構築されており、日本語処理はとても困難だった。
そんな時代に登場した一太郎は、**かな漢字変換、縦書き、ルビなどの「日本語らしい表現」**を可能にした数少ないソフトだった。
◇
1990年代には、大学や高校などの教育機関、研究所、行政機関でも標準ソフトとして使われ、
卒論、学会論文、行政報告書の多くが一太郎で作られていた。
◇
一太郎は単なる製品ではなく、「日本語を使ってパソコンで表現する文化の柱」。
英語圏のWordとは異なり、日本語の文体・構文・美意識に即した設計思想が貫かれていたため、
多くの人が「一太郎じゃなきゃダメ」と感じていた時代もあった。
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響香は、“ATOK”という文字は思い出せなかったけど、
パジャマ姿の弟や研究室の仲間の顔を思いだした。
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そう、お世話になったパソコンオタクたちの面々。
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「また、フリーズしちゃった。」
「慎吾ちゃんに言えば大丈夫よ。」
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彼らに今頃、「ありがとう。」
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そして、記憶の画面は、再び伸子さんの笑顔にもどる。
つわものたちや子供たちにならって、学習したことをお互いフィードバックしてたのかも……。
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あの札幌の喫茶店。
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「弟に教えてもらったんだけどね……」
「凛の方がAmazonの注文のことわかるのよ……」
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お互いのiPadを出して、ふたりで過ごしたテーブルには、
話に夢中で溶けかけたパフェ。
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リビングのテレビの画面は、ちょうど上野動物園の新しい仲間の話題に移っていた。
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「かわいい。アンジェラって名前、いいね。今度、上野動物園に行かない?」
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のどかな、昼さがりの午後だった。
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長旅から帰った伸子さんが、孫の凛ちゃんの誕生会をした翌週、
動物園に行ったとLINEしてくれたときの写真をひらいた。
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響香の庭には、ポンポネッラの花が風に揺れていた。
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コーヒー片手に窓を開けると、
画面の向こうの午後の光が、アンジェラの名をやさしく包んでいた。
◇
――おしまい――
◇
台所シリーズ 第2部『台所はせかいをかえる』 長旅編 より




