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【旧稿】台所シリーズ 第2部 台所は世界をかえる(長旅編)  作者: 朧月


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第10話 研修室




1 薔薇の余香と午後の教室




薔薇の香りをまだほんのりまとったまま、ふたりは予定より三十分も早く研修室に戻ってきた。




部屋の前方では、ダビデ、トム、ジェリーの三人が座り、ギターと、ダビデの恋人・明日香が声をひそめて談笑していた。




カラオケで少し打ち解けたとはいえ、まだお互いをどう呼べばいいのか、彼らの祖国がどこなのかもわからないままだった。




ふたりが部屋に入ると、自然と視線が集まった。まだ、トレーナーの姿はない。




なんとなく張りつめたような空気を感じたそのとき、ジェリーが「やあ」と声をかけてきた。




 




「君たち、もう仲良くなったんだね。どこに行ってきたの?」




 




横浜のみなと公園から町を見下ろしてきたと答えると、




 




「え、それなら僕も行きたかったな。声かけてくれればよかったのに」




 




と、あのときのカラオケの調子で、間に入ってきた。




 




「ねえ、写真見せて、見せてよ」




 




彼が歌った『ライオンハート』を思い出す。不思議な力を持っていた歌。そして、みんなで歌った『世界に一つだけの花』。




その一体感を思い出した。まるで、ベタな日本のドラマの中に入ってしまったような感覚をおぼえた。




歌詞に出てくる「花屋」で働く響香のことを、一瞬、思い出した。




ただ、ふと気づく。よくありそうで、実はそんなシーンを見た覚えがない——異国の人たちと、あの曲を輪になって歌う場面を。




 「一番なんて、決められないのよ。私たち、一つ一つが素敵なんだもの。まるで、歌みたいでしょ?」




花束を抱えた響香の姿が、ふと目に浮かんだ。






 




そんなことを思っていると、研修室の張りつめていた空気が、ざわざわと楽しげなものに変わっていった。




 




話題に出た「黒船」という言葉に、ダビデが反応した。




 




「くろふね」




 




ゆっくりとしたダビデの低音ボイスが、四文字を静かに響かせると、視線が一斉に彼に集まった。




 




「坂本龍馬やったんだって。やってみてよ」




 




ジェリーがすかさず言う。




伸子は、名古屋の四間道でダビデに初めて会ったときのことを思い出した。即興で侍になりきった、あの芝居。あちこちで、同じような芝居をやっているのだろうか。




 




「高知……いや、土佐から来た坂本龍馬は、黒船をどんな角度から見たがやろうの。




この角度なら、富士山と黒船がいっぺんに写るかもしれんねぇ」




 




秋に見た芝居と同じ口調で、ダビデは坂本龍馬になりきっていた。




 




「拙者も、行ってみとうなったぜよ」




 




バラ子は笑って言った。




 




「この人、すました顔して、けっこう変わってるわ。伸子さん、こっちに座りましょ」




 




ふたりは少し離れて腰をおろし、再び薔薇の話を始めた。




 




「やっぱり、日本のバラの育種家って、他の国にはない感性を持ってると思うの。見て、このバラ……」




 




教室はいつしか、まるで中学校の放課後のような空気に包まれていた。




 




そんなとき、トレーナーと、険しい表情の数人が部屋に入ってきた。




おかまいなしに後ろを向いてしゃべっていたジェリーに、全員の視線が一斉に注がれた。




ジェリーは話の途中で言葉を切り、最後に申し訳なさそうに、




 




「よろしくお願いします」




 




と言った。




 




そして、




 




"It’s nice to meet you. I’ll do my best to learn from you."




(はじめまして。あなたから学ぶのを楽しみにしていました)




 




と続けたが、それでも、前からの冷たい視線は変わらないままだった。




 




"There’s nothing I can teach you. I hope you learn from the facts themselves."




(私はなにも教えられない。事実から学んでほしい)




 




しばらくのあいだ、重たい沈黙が流れた。




横浜では、メンバー以外の異国人とも行動を共にすることになるという。




その説明とともに、後ろの空いていた席に誰かが腰を下ろす音が響いた。




トレーナーは一番後ろに座っていたようだが、最後まで振り向けなかったので、確かめられなかった。




 




「これは仕事だということを忘れないでください」




 




「今日の午前中、どう過ごしたか、すぐにレポートを提出してもらいます」




 




「業務中に勝手に写真など撮っていませんよね?」




 




伸子の胃が、ぎゅっと痛んだ。




 




ふと気がつくと、年齢を聞かれていた。ダビデが56歳だというのは覚えているが、他の数字はぼんやりしていた。




 




子どものころ、授業中にお腹が痛くなったのは、どんな時間だっただろう。




遠い記憶をたぐりながら、ふと気づいた。




 




——私は、66歳。ここでは最年長だった。







2 教壇と展望台と未来の背中




横浜が開港した年に生まれていたら、166歳。




横浜の3分の1ほどしか生きていないけれど、あまり自分が成長していないような気がして、ため息が出そうになった。




 




展望台で、先生が子どもたちに語った言葉を思い出す。




 




「166年の変化って、すごいですね。




黒船が最初に来たころ、ここ横浜は小さな漁村、横浜村だったんです。




水道も電気もなくて、夜は闇もまた闇。




イノシシやら獣が歩いていたかもしれません。




 




黒船の影響を受けて発展し、でも関東大震災でまた焼け野原になって、一からやり直した歴史もあります。




 




でも、あなたたちの一年一年の変化もすごいんですよ。




自分の体を町にたとえたら、できることがどんどん増えてきます。




 




さあ、みんな、まずはトイレに行きましょう。




手は必ず洗いましょう」




 




水筒をベンチに置き、子どもたちは笑いながら走っていった。




その小さな背中に、未来を感じた。




 




町は、勝手に変わるわけじゃない。




誰かの手や意志、歩みの重なりが、町を変えていく。




 




——私の背中も、いつか誰かの小さな未来になっていたらいい。




 




教壇の場所に立つ、虹色のネクタイをした白人男性が話す。




 




"Now that you’ve examined the water systems of each country, I’m excited to see how your cross-border private team will make its proposals going forward. You are the vanguard of the ever-continuing にじのわ."




 




バラ子が日本語にしてくれた。




「それぞれの国の水道事業を見ていただいて、国を超えた民間のチームがこれから、どう提言していくか、楽しみにしています。あなたたちは、これからづづく虹の輪の先導隊です。」








「私の背中も、いつか誰かの小さな未来につながっていったらいい。」




後ろのふたりが見ているかはわからないけれど、伸子は、そっと背筋を伸ばした。



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