~名古屋の風と四間道の叡智~イントロ
「あんなに暖かったのに、急に冷え込んだわね。旭川あたりなら、初雪かもね。」
蔦屋書房の広い駐車場の車も、まばらになっていた。
「またね。今度、旅の話をゆっくり、きかせてね。」
響香は、渡した箱を大事そうに持って、いった。
ヘッドライトをつける。秋の日暮れははやい。
たん、たん、たん、たん、、、、 、、、。とピアノの和音が、伸子の車のスピーカーから流れる。
そろそろ、雪虫の季節だ。この虫の飛ぶ力は弱く、風になびいてながれる。
雪虫のオスには、口がなく、寿命は、1週間ほど。メスも卵を産むと死んでしまう。熱によわく、にんげんの体温でもよわる。
ライトに舞う、ちいさなものたちの、そんな話に、悲しみがそっと、胸にこみあげていく。
おととしの秋、伸子が一人でいった、桑田佳祐さんのコンサートの終盤の曲
『白い恋人たち』(2002年)
空いた助手席に、まるで響香のかわりに桑田さんの声が座っているような気分だった。
響香の車の後をわずかにすすんで
ウインカーの音が桑田さんの音に交じって左折する。
朝から、響香といたのに、
結局、イントロさえも、旅の話は、奏でずに、終わった。
旅のイントロは、なんだったのだろうか?
伸子は、数人を乗せたバスの後ろについて走っていた。
ふと目に入ったのは、「元町」というバス停の名前だった。
名古屋にも、横浜にも、同じ名のバス停があったことを思い出す。
街路樹の横を行くと、なぜか、その次のバス停の名前が急に気になった。
「牧場東」――この北の町、江別も、そういえばレンガの町だったなと、伸子はあらためて思う。
そのバス停のほうから、助手席の小さな隙間を通って、ひんやりとした風が差し込んだ。
あのときも、まるでこの助手席に、本物の「白い恋人」とやらが、手袋をして、いきなり乗り込んできたような――そんな旅のはじまりだった。
伸子は、まずは、名古屋旅行を懐かしく思い出していた。
それは、彼女にとっての長旅の序章に過ぎなかったのかもしれない。
2022年11月21日。ほんの少しの不安と、期待が胸いっぱいに広がっていたあの日。彼女の一日が、六五歳の特別な一日と刻まれた初めての一人旅。その一歩を踏み出したことで、、彼女の人生が新たな章を迎えた。
長女が手配してくれた飛行機のチケットを手に、心の中で何度も感謝の言葉を繰り返す。「お母さん、好きなことをしなよ」というその一言が、まるで背中を押す風のように、伸子の心に吹き抜けた。
千歳空港で働く長女、加奈 の駐車場の「いってらしゃい」を搭乗前の席でまた、思い返す。
「イヤホン もってくればよかった。あんなに、シュミレーションした一人旅、、、」
名古屋城の「金鯱の間」へ足を踏み入れると、目の前に広がる天井絵が、未知の空間に誘ってくれるようだった。
どこか異世界に迷い込んだような感覚を覚え、これまで歩んできた道を一瞬で忘れてしまうほどだった。
イヤホンを忘れたことを悔いたのは、あの 搭乗をまつ千歳空港のみだった。
名古屋城を後にして、伸子は四間道へと足を延ばした。江戸時代からの歴史を感じさせる古い町並みが続き、木造の建物や白壁が今もなおその姿を残していた。まるで時代を遡っているかのような感覚が、伸子を包んだ。
ふと通りかかったガラス工芸店。中に入ると、色とりどりのガラス細工が光を浴びて輝いていた。その中から伸子の目に止まったのは、小さなトナカイのガラス細工だった。冬の季節にぴったりのその形は、伸子の心を温かく包み込む。「これ、響香にぴったりかも」と思いながら、そのガラス細工を手に取った。
ふと、かつて娘たちと一緒に訪れたサザンのコンサートのことを思い出す。響香も誘ったあの日、その瞬間が、まるでガラスのように透明に輝いていた。