8話 学園長
ここで第1章は終了です。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。
夜、医務室にて。メグミさんの学園滞在の許可を得るために職員会議に参加していたアーリン先生が、ぐったりとした様子で帰ってきた。
ちなみに僕達は、その職員会議が終わるまで医務室で待ってろと言われたので、待っていた所だ。
「ほい、学園滞在許可証……」
アーリン先生は、疲れ切ったような顔をして、メグミさんに一枚の紙を渡す。それは学園長の朱印も押された、れっきとした正真正銘の学園滞在の許可証だった。高級そうな紙なのが、見た目や手触りだけでもわかる。
「失くすなよ。再発行はできるが、死ぬほどめんどくさいからな」
溜息を深く深く吐きながら、アーリン先生はコーヒーを入れようと、ポットの近くまで歩いていき……その後ろ姿を見て僕は、先生は職員会議でこの一枚の紙を手に入れるのに、多大な苦労をしたんだろうな、と思った。そこまでして、僕のために……。
僕がしみじみとしていた、その時。
ガシャーン! ……と、何かが倒れる音がした。この音は……コップだろうか。その音はメグミさんの方から聞こえた……。
ギシギシと、錆びついたゼンマイ仕掛けのおもちゃのような挙動で、アーリン先生はメグミさんの方を見た。
「……ごめんちゃい、先生」
――そこには。倒れたコップ――さっきまでブラックコーヒーがなみなみ注がれていたもの――と、その倒れたコップから流れ出した、何やら黒い液体でひたひたになった、学園滞在許可証が……。学園長の朱印も、その黒い液体に染め直されていく……。
「コーヒー……こぼしちゃった」
メグミさんは、やや不器用に笑みを浮かべて、下手なウインクと共に舌をぺろりと出した。
そして。
「テッメェこのクソガキャァァァァァァァァァァァァァ!!!」
アーリン先生が幼声を最大にがならせて怒り始めるまでに、然程時間はかからなかった。
△▼△▼△▼
「ったく、このクソガキは……」
アーリンは一旦、外に出て、夜風を浴びることにした。ヒートアップした頭の怒りの熱を冷ますためだ。コーヒーで汚れた学園滞在許可証を月の光に透かすと、特殊な材質の紙がキラキラと雪のように輝いた。
医務室では、リオとメグミが何やら話しながら、こぼしてしまったコーヒーの片づけをしていた。アーリンは「クソガキがこぼしたんだから、エリオードは何もしなくていい」と一喝したのだが……何だかんだでやはりメグミを手伝っている。お人好しが人の形をとったような少年、リオの姿を見て、アーリンは呆れたように力を抜いて笑った。
(しっかし……なんか、腑に落ちないな)
夜風を浴びながら、彼女は思い返していた。職員会議でのことを。
あの時のアーリンの提案――メグミの学園滞在の件については、はっきり言って非難の的だった。異世界から来た、などとほざく正体不明の女を学園に滞在させるリスク。リオ・エリオードは、学園がそのリスクを背負うに値する人間か……などが主に、反論の根拠となっていた。
しかし。
『いいんじゃないのかな、別に』
その、鶴の一声とも言うべき言葉一つで、あっさりとメグミの学園滞在許可は下りたのである。
そして、その一声を上げたのは……リスドラルーク国立魔法学園の、現学園長……学園のトップ直々の御言葉であった。
アーリンはあの時、飄々とした態度で、学園長が言っていた言葉を思い出した。
『リオ・エリオードくんは今まで、魔力が使えなかった。しかし、彼女がいれば使える……これは素晴らしいことだよ。若者がせっかく掴んだチャンスだ、我々教師が摘み取っていいものじゃあない』
『しかし、学園長……この、リンドウメグミという女の素性がわからないことには!』
『その時は僕が対処しよう。今、この世界で一番強い魔法使いが誰か。キミ達もわかってくれているよね』
その学園長の言葉には、誰もが黙りこくるしかなかった――リスドラルーク国立魔法学園の、現学園長『ウルティオル・ワイズストーン』。彼こそが、最強の魔法使いと呼ばれる男だからだ。齢二八歳という若年にして【開闢者】の称号も持っている、現人類……否、歴代全ての魔法使いと比べても、突出した魔力と才能を持つ、傑物だった。
ウルティオルは優しい笑みを絶やさずに、先程の言葉にこう付け加えた。
『もし何かあれば、僕が直々にリンドウメグミを処分する。それでいいかい』
もちろん、反論はあった。
『何かあってからじゃ遅いですぞ、学園長』
しかし、ウルティオルは自信に満ちた声で、その反論を真っ向から捻じ伏せる。
『じゃ、今のなし。何かが起きる前に、不審な所が見つかれば、それ相応の処置をする。それなら問題はないね?』
『……リスクが完全に消えたわけではありません』
『多少のリスクは負ってこそ、上手く行った時の見返りが莫大になるんじゃない』
『見返りって……教育は賭け事ではありません!』
ある真面目な教師が、ウルティオルのその、問題とも思える軽率な発言に非難を浴びせた。
しかし、ウルティオルは――
『賭け事だよ』
――冷たい声音で、最大限のプレッシャーを放ちながら、そう言い切った。
シン……と静まり返る空気の中、彼は続ける。
『僕達人類は今、魔獣や魔人の脅威に、いつ滅ぼされてもおかしくない……不安定な土台の上に成り立っている。この学園の最大の目的はなんだったかな、アーリンくん』
突然話を振られたアーリンは、たじろぎながらも、殊勝に答えた。
『……魔獣や魔人の脅威に立ち向かう魔法使いの育成、です』
『正解。リスドラルーク国立魔法学園は、ただ単に文学数学科学史学語学を教える場所じゃない。我々人類の最終目標は、魔獣や魔人などの、人類への脅威全ての殲滅だ。だが、それは並大抵の方法じゃ成し得ない。だからこそ……ギャンブルだって必要になる』
そこまで言うと、ウルティオルはニコニコと朗らかな表情に切り替わった。
『ま、そういう訳だから。アーリンくん、とりあえずはキミに一任しても大丈夫だよね?』
『え、あ、はい……』
アーリンはとりあえず頷くことしかできなかった。
そこで記憶の回想を止めたアーリンは、ウルティオルのことを考えながら、目を細める。
(……何考えてんだか、学園長は……そのおかげで私は助かったけど)
アーリンは何度目ともしれない溜息を吐き、コーヒーで汚れた学園滞在許可証を眺めて、ガックリと肩を落とした。
「クソガキはすぐ許可証台無しにするし……。っつーか、学園長、『いざとなったら僕が~』とか言っときながら、結局私に一任してんじゃねーかよ……」
今日、苦労してもぎ取った許可証を、明日の朝イチで間抜けにも再発行申請をしなければならないと思うと、アーリンは心の底からどっと疲れが噴き出てくるような錯覚に襲われた。
その時、後ろから声が聞こえてきた。振り向くとそこには、コーヒーを拭いた雑巾を片手に、申し訳なさそうに小さくなるメグミとリオの姿があり……その姿の、あまりの反省オーラに、アーリンはつい、頬を綻ばせてしまったのだった。
△▼△▼△▼
学園長室は、リスドラルーク国立魔法学園の中央にある、中央塔の最上部にある。その部屋の中は暗く、射し込む月の光だけが光源となり、ぼんやりと中を照らしていた。
そして、その室内にある、大きな机に大きな椅子……そこに座る、学園長ウルティオル・ワイズストーンは。
「リオ・エリオード。生まれも育ちも平々凡々。魔力器官の障害による魔力不全以外は、特段目立つ所はない。強いて言うなら……頭が目茶苦茶いいな。これ、僕よりも頭良くない?」
分厚い学生名簿の一ページ――リオの経歴などが書かれている所を眺めていた。
「魔法が使えないのに、どうやってこの学園に入学したのか……どうやって試験を乗り越えてきたのかと思えば。この子、勉強だけで何とかやって来たのか。凄いな……」
ウルティオルは、真顔で写ったリオの顔写真を見て、舌を巻いた。この学園は、世界的に見てもトップレベルの魔法学園だ。普通は、魔法が使えない者は入学すらできない。
しかしリオは、その不可能を可能にしていた――筆記試験の全てで満点を取ることで。
「確かに、全部の筆記テストで満点なら、うちの評価方式なら実技がダメでも行けるけど……それにしたって、文字通り全部満点とか、ヤバいな」
この学園の成績評価は、入学試験も定期試験も評価方法は同じだ。勉学と実技にそれぞれ最高一〇〇点ずつ振られ、その二つの合計点が一〇〇点以上であれば合格――理論上は、どちらかで満点を取れれば、片方が〇点でも合格できる、二〇〇点満点のテストである。
「うちのテスト、世界的に見ても難しいと思うんだけどな……どんだけ努力してきたんだこの子は」
魔法が使えずとも、この学園に入るために……リオがどれだけの、血反吐を吐くような努力をしてきたのか。それを考えただけで、ウルティオルは寒気を覚えた。それは最早、狂気の域と言ってもいい……ウルティオルはそのリオの狂気に、心の底から感心した。
そして、彼は学生名簿を閉じ、ミノタウロスの皮をなめして作った表紙を手で撫でた。
「うん。こんな逸材がいたのは知らなかった。今まで勉強だけで食らいついていた人間が、魔力を使えるようになったことでどうなるのか……楽しみだな。……期待してるよ、リオくん」
ウルティオルは満足気にそう言って、窓から夜空を眺めた。やけに明るい月が、雲一つない空を満遍なく照らしていた……。
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