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第一編『生きて』/第二章「もしも君が泣くならば」

早くも夜の影が近づいてきて、僕らはホテルへと向かった。せっかくだからと高級ホテルに泊まることになった。ホテルの広いロビーで前をゆき、黒い髪を揺らして可愛らしくはしゃぐ朝川さんは少女そのものだった。そして僕らは二人で同じ部屋に泊まることになった。


今まで足を踏み入れたことのないようなゴージャスな室内に僕らは共に息を呑み、顔を見合わせて笑った。そしてどちらからともなく、揃って大きなベッドに飛び込んだ。雲を想起させるようなその色と感触に顔をうずめていると横から子供のような無邪気な笑い声が聞こえ、その声の方を向くと声の通りの少女が笑顔でこちらを見ていた。少しして起き上がり、夜に幕を張る大きなカーテンに手をかけた俺を彼女は止めて「楽しみは後にとっておこうよ」と言ってまた少し微笑んだ。


夜景をカーテンの向こうに置いたまま、とりあえずホテル内にあるレストランへ向かった。

そのえらく広いレストランもわかりやすく大人っぽい雰囲気で、とても高校生の男女が二人で来るようなところではなかったが、それがまた僕らの足を浮かせるようだった。

席につき、じきに運ばれてきたステーキに二人揃って声を上げた。ワインを手にしたウェイターは彼女の幼い容姿を見て僅かに眉の角度を変えたが、特に滞りなく赤いワインは注がれた。「俺の背が高いおかげだね」と冗談を言う俺を彼女は少し睨み「私より誕生日遅いくせに」と言って今度は笑った。

口に入れたステーキの味や食感に僕らはまた二人揃って歓喜の声を上げた。はじめて口をつけたワインの味はなんとなくしかわからず、彼女も同様であったのか「なんか大人みたい」と少し首を傾げるようにした。


部屋に戻って「じゃあそろそろ」と言って俺はカーテンの前まで行く。すると彼女も同様に横まで来て笑う。二人で勢いよくカーテンを開くとそこには星空のような街の姿があり、しばらく共に見惚れていた。少しして彼女の方を見やると彼女もこちらを見上げていた。首を斜めに傾げた彼女の顔がなにか少し寂しそうな表情に変わったのが見えた次の瞬間には、僕らの唇は触れ合っていた。俺にとってはじめてのキスだった。

どれくらいそうしていたか、彼女は唇を離し、俺の顔を見上げて少し恥ずかしそうに微笑んだ。その赤い頬が照れからなのか、アルコールの影響からなのか、俺にはわからなかった。そして彼女は上目遣いで「先にシャワー浴びてきて」と俺に言う。そのドラマなどでしか聞いたことのなかった言葉と突然あらわれたらしからぬ彼女の大人っぽい表情にアルコールの酔いは醒め、代わりにまた別の酔いがきた。そうして泳ぎそうになる目を彼女の真っ黒で大きな瞳に固定するように少し留め、短い返事を打ったのち、冷静を装ってシャワーへと向かった。


シャワーから出て深呼吸をするとふいに軽いめまいがして、余計に鼓動が速くなった。そして「じゃあ」と言って俺と代わるようにしてシャワーへ向かう彼女へまた返事を打とうとしたが、喉が締まっているのか上手く声が出なかった。

耳にはずっと朝川さんの浴びるシャワーの音が流れ込んできて、また軽いめまいを覚えながらも、一人、ベッドに座って色々なことに思いを巡らせた。彼女は今なにを考えているのだろうか。どのような表情で、どのような思いを抱いているのだろうか。考えてもわからなくて、諦めてベッドに背中を預け、ひたすらに天井を見つめた。しばらくそうしているとふいにシャワーの音が止まる。俺は身体を起こし、また深呼吸をした。

湿り気を纏った朝川さんは綺麗な白い部屋着に身を包んでおり、大袈裟でもなく、天使が舞い降りたようであった。

目が合うと彼女は少し微笑み、そしてなにも言わず、俺の横にゆっくりと座った。さらに速くなる鼓動を落ち着かせることはもう無謀に思えた。じきにどちらからともなく手を繋ぐ。そうしてそれからどれくらいの時間が経ったのか、俺がなにもできないでいると彼女の方からゆっくりと顔を近づけてきて、俺の頬にキスをした。硬直する身体をなんとか少しだけ彼女の方へ向けると彼女は俺の肩に手を置き、こちらに縋るように唇を重ねてきて、そのまま俺に体重をかけ、共に後ろへ倒れる。彼女は俺の上に乗り、また俺の唇を包むようにキスをした。そうして唇を離し、見たことのない表情でこちらの目を見つめる。真っ黒で大きな瞳に吸い込まれそうになって動けないでいると、彼女は慣れたような手つきで俺の服を脱がしていく。そうして彼女自身もその綺麗な白い服を脱ぐ。控えめな胸が見え、浮き出た(あばら)が見えた。彼女は俺の身体に纏わるように身を寄せ続け、じきにまた俺に跨って見下ろす。そして「下の名前で呼んで。今だけでいいから」と高い声で言う。俺が「さくら」と名を呼ぶと彼女は少し微笑んだ。

それからのことはあまり覚えていない。ただおそらくそれはあっという間で、すごく暖かかった。俺にとって全てが最初で最後だった。


俺は大きなベッドに沈み、腕の中にはまたか弱い幼女のような姿に戻った朝川さんがいた。そうしてふかふかの毛布に包まれながら二人でなんともない話をした。彼女は楽しそうに、学校での話や友達と遊んだときの話をしていた。いつの間にか夜も更けて、僕らは言葉を忘れた。朝川さんは先程までとは打って変わってなにか寂しそうな表情をしており、だから俺は彼女を抱きしめた。そうしてじきに彼女は俺の中で眠りについた。無邪気な幼女のように可愛らしく眠る彼女を抱きしめ、その白く小さな顔を見つめながら、なんだかずいぶん遠いところまで来たな、なんて思った。色々な感情が渦巻くばかりだったが、じきに俺も眠りについた。



夢を見た。真っ暗で短いその髪を、最後の春風に靡かせる彼女がいた。

それが俺にとって、最後の夢だった。



いつも通りに朝は来た。

目が覚めると朝川さんはまだ俺の中で眠ったままで、カーテンの隙間からは朝の光が差し込んでいた。街はもういつも通りに動いているのだろう。いつも通りのあたりまえの朝がそこにはあるのだろう。ただ俺と彼女にとっては、これが最後の朝だ。


そうして未だ眠る彼女の寝息を聞きながら、何故今こんな状況にいるのか、何故俺が彼女とこんな遠くの地まで来たのか、そのきっかけの時のことを思い出していた。


十二月に入っていくつか経ったあの日、いつものあの校舎の端でなにか緊張している様子の彼女の姿を前に、もしかして告白でもされるのかなぞと呑気なことを考えていた俺に少し震えた高い声で発せられた「一緒に死なない?」の言葉。大きな衝撃を感じつつも存外それはすぐにすり抜けていき、気づけば俺は彼女のその思いを受け入れていた。あの時彼女がどんな思いを抱いていたのか、自分がどんな思いを抱いていたのか、それを完全に理解することはないまま、俺は死んでいくのだろう。でもそれはもう今の僕らにとって大事なことではないように思えた。僕らはもうとっくに終わり始めている。

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