第三編『あの頃、あの校舎の端で、あの娘は』/第五章「夜の追憶、風化する教室」
十二月某日、雪国へ旅行に行ったという朝川さんは「おみやげ」と言って俺に小さな熊のぬいぐるみのキーホルダーをくれた。なんとお揃いということで喜んで受け取ったのち俺が「家族旅行?」と訊くと彼女は首を振って「一人で行ったの」と言い、それから何故か少し俯いた。俺はよくわからなくて声をかけられずにいると彼女はすぐにいつもの様子に戻って「さっきの授業でさ」なんて話を始めた。そうしてまた二人でただただ笑った。
三学期に入ってすぐの頃、雪が降り、そして積もった。いつもの校舎の端で俺と彼女は二人、その積もった雪を見つめていた。彼女は「積もったね」なんて白い息を吐く。そうして手袋をしながらどちらからともなく雪を触り始め、二人で小さな雪だるまを作った。しかしそれはなんだか歪な形をしており、俺が「なんじゃこりゃ」なんて言うと彼女は「でも可愛い」なんて言って銀世界の中で幼女のように無邪気に笑った。その彼女はまるでパッと消えていってしまいそうで、俺はそのもうすぐ見れなくなる彼女の姿を、少女である彼女の姿を、目に焼き付けた。
二月十四日、休憩時間、卒業をもうそこに控えた俺と彼女は、相変わらずいつもの校舎の端にいた。
そうして「はいこれ、バレンタイン」と言って朝川さんが紙袋を渡してきたのだが、俺は勃起していて、バレぬよう、前屈みになりながらそれを受け取る。勃起しながら受け取ってしまったことに複雑な感情を抱きながらも、その手作りの小さなハート型のクッキーを口に運び、少し不安そうな顔をしていた彼女に「めっちゃおいしい」と正直に告げた。すると彼女はその白く綺麗な顔で、満開の桜のように綺麗で可愛らしく微笑んだ。春はもうすぐそこで、でもその春を迎える前に彼女とはお別れなのだ。
そのクッキーの深い香りとほろ苦い味はなにか“大人”といった雰囲気で、十八歳の俺になにか“この青春の終わり”を感じさせた。そうして俺はこの時間が永遠に続くことを願った。もうあまり長く続かないとわかっていたから。
放課後に忍び込んだ音楽室。何気なくピアノのイスに座っては、華麗な指さばきで遊ぶようにピアノを鳴らす。その彼女の様が美しかった。
彼女がピアノを弾けるということさえも、僕は知らなかった。けれどやはりそれもまた、もうどうでもいいことだった。
もはや永遠に続くのではないかと思っていた、永遠に続いてくれと願ってすらいた、それでも勿論いずれは終わるとわかっていたこの青春という名モラトリアムまたはモラトリアムという名の青春の日々がついに着実と終わっていっている。終わりはもうすぐそこだ。
ついに卒業を数日後に控えた俺と朝川さんは相変わらずいつもの校舎の端にいた。そうしていつも通りたわいもない話をしていた。そして少々の沈黙の後、朝川さんがスカートの端を触りながら「もう卒業だね」と言った。俺はスカートの端を触るその彼女の手を意味もなく目で追いながら頷いた。卒業したらもう、彼女とは一生会うことはないのだろうと、ずっとなんとなくわかっていた。俺と彼女の関係はあくまで休憩時間にこの校舎の端で話すだけの関係で、それ以上でもそれ以下でもない。そしてこの距離感でなければならないこともまた事実であった。だから学校の休憩時間というものがなくなれば、卒業してここに来ることがなくなれば、俺と彼女の関係はそれでおしまいなのだ。だから卒業したら俺と彼女はずっとお別れなのだ。
じきにまた彼女が遠くを見つめながら口を開く。
「私、竹野くんとのこの時間がなかったら結構しんどかったと思う。ずっと下ばっか向いて、ずっと歩けないままだったと思う。だから本当にありがとね」
そう彼女が言い、そこでようやく俺は彼女がなにか悩みを抱えていたことを知った。俺は結局、彼女のことをなにも知らなかった。所詮僕らの関係はそれくらいのもので、でもそれくらいのものがなによりも大事に思えた。
そして俺も彼女に「俺もこの休憩時間がなかったら本当になにもなかった。楽しみも思い出もなにも。朝川さんのおかげで俺は今を生きられたと思う。だから本当にありがとう」と礼を告げた。そうして俺と朝川さんは見つめ合い、いつものように笑った。
彼女のその笑顔は本当に頭を抱えてしまうほど可憐で、俺は寂しさや切なさやらで泣いてしまいそうになりながらも、彼女に出会えてよかったなと心から思った。そして今後の彼女の人生が良い方向にゆき、幸せになれますようにと、そう心から願った。
じきに僕らは卒業し、桜が咲く前にこの地を去った。あの校舎の端に人はいなくなり、思い出を胸に残して最後の冬は去っていった。
彼女のその白い肌は冬によく似合っていた。厳冬の中には冬化粧を纏う朝川さんがいた。そしてそんなまるでパッと消えていってしまいそうな彼女の姿を、ただ見つめるだけの僕がいた。




