第三編『あの頃、あの校舎の端で、あの娘は』/第三章「秋暮れタイムカプセル」
長く明けぬ冬は憂鬱でしかし迫る春に希望を見出せる心ももうなかった。
昼、インターホンの音で目が覚めた。せっかくの休日を邪魔してくる不届き者は誰だと壁に取り付けられた受話器を取り声を出すと、向こうからは聞き覚えのない優しげなおばさんの声が聞こえた。すぐに宗教勧誘のおばさんだとわかった。「少しお話を聞いていただけますか?」なぞ言うおばさんの声に、冷たい断りをいれようと思ったが、どうせ暇だからと聞いてみることにした。するとおばさんは第一声「あなたにも信頼できるお友達がいらっしゃると思うのですが」なぞとほざくではないか。俺が首を傾げながら正直に「いやいませんけど」と答えるとおばさんは「いやいらっしゃると思うのですが」なぞと馬鹿なことをほざく。俺は少し苛立って「いやいません、本当に」と反論。するとまたおばさんは「いやいやいらっしゃるでしょう」とほざき続ける。さすがのしつこさに声を荒げてやろうかなぞと思っていると、そこでおばさんが「まあそれはそれとして」と話を変えた。もどかしさに床を小さく踏み、おばさんと少し揉めたのち、結局よくわからない話を聞かされて終わった。ポストに入れられた冊子を手に取り、俺はふと好きな作品のことを思い出した。そしてもしやと思って窓外を見やる。去りゆくおばさんの方へと目をやったが、おばさんの隣には「NHKにようこそ!」の岬ちゃんのような可愛らしい女の子はいなかった。それに「ばばあが一人できてんじゃねえよ」と独り虚空に吐き、宗教の冊子をゴミ箱に叩きつけた。そうしてまた布団に包まり、そういえばあの娘は岬ちゃんに似ていたなあなぞと思った。六畳間で独り「俺にも岬ちゃんが来ればなあ」なぞ心中でほざいていると、腹が「食い物をくれえ」なぞと泣き喚いてきたので、やかましいから殴ってやろうかと思ったが可哀想なのでやめておいてやった。そうして家に大した食い物が無かったので、古着のジャケットを着込んで家を出た。我がボロアパートから徒歩二分程の場所に位置するコンビニにて数食分のカップ麺やお菓子、そして酒を購入した。そうして早速その酒を飲みながら、鈍色の雲の下、アパートまで歩いて帰った。
家に着き、好きなラジオを聴きながらカップそばを食べた。慣れ狂ったその味に対する感情はもうとっくになく、翌日に控えたバイトへの憂鬱を引き摺りながら黙々と食べた。
ラジオを聴き終えると部屋はもう暗くなってきており、窓は雲の鈍色に染まっていた。そのありふれた色がなにか懐かしくて、その既視感の正体に気づいたと同時に時間が巻き戻り、俺はあの秋にいた。
いつもの校舎の端で朝川さんは、そのショートヘアを緩やかな風に靡かせながら「もう風が涼しいね」なんて言ってこちらを振り向き、少し微笑んだ。そうして最後の秋が始まった。
文化祭の日、体育館にて朝川さんの所属している演劇部の上演があるということで、彼女に誘われたこともあり、一人で見に行った。多くの生徒の喧騒の中でパイプ椅子に座って始まりを待つ。そうしてじきにアナウンスが流れ、幕が開いた。
ライトで明るく照らされた舞台には一人の可愛い少女の姿があった。朝川さんだ。そうして彼女の可愛らしい声が体育館に響く。明るい舞台で主演を務める、その頼もしく美しく生き生きと輝く彼女の姿を見て俺は、どういう感情なのか、なんだか泣きそうになっていた。
そうしてラスト、暗くなった舞台の上で、主演を務める朝川さんが最後の言葉を発する。
「夜が明けるよ」
すると舞台はまた光り輝いた。その言葉は一番後ろの暗闇に座る俺までハッキリと届き、まるで耳もとで、俺に向けて言われたかのようだった。そうしてその言葉が、パッと俺の中に入り込むのがわかった。
その後、俺がいつもの校舎の端でボーっとしていると、少し汗をかいた朝川さんがやってきた。俺は彼女に「めっちゃ良かった、なんていうか、良かった」と興奮気味に語彙力皆無で感想を言うと彼女はまた可愛らしくいっぱいに笑った。そうして彼女は俺の横に座り、文化祭の喧騒を背に二人、またいつものようにたわいもないことを話していた。俺はなんとなく、こういうのが一生の思い出になるんだろうなと、そう思った。
そうしてしばらく話した後、俺が一応ながら写真部に所属していた関係で、部の展示に写真を出していると話すと、彼女が「見たい」と言ってくれたものだから、二人で展示のある教室へと行った。人気がないのかそこには俺と彼女の二人だけしかいなかった。ちゃんとしたカメラで撮ったであろう他の部員の綺麗な写真が並ぶ中に、俺が春に学校で撮った、鈍色の明かりが差し込む暗く寂しげな教室の写真があった。その携帯で咄嗟に撮っただけの俺の写真はやはり少し浮いており、言ってしまえばチープでショボかった。しかし彼女は俺のその写真を見て「すごく良い、好き」なんて言って見惚れて動かなくなった。そうして俺はその横顔に見惚れながら「もう少しでこの横顔も見られなくなるんだもんな」なんて思っていた。すると彼女はなおも俺の写真を見ながら「これって展示終わったらどうするの?」と訊いてきたので「額縁はどっかに仕舞うと思うけど写真はわかんない。ただの印刷だし捨てるんじゃないかな」と返答する。すると彼女はようやくこちらを見て「もし捨てたりするなら私が貰っていい?」と言ってきた。「そんなに気に入ったの?」なんて俺が冗談っぽくニヤニヤしながら言うと彼女は少し笑って頷いた。俺はそれがどうしても嬉しくて、ただただ本当に嬉しかった。
そうして文化祭は幕を閉じ、俺はその写真を彼女に渡した。すると彼女は喜んで、折り畳まないようにとクリアファイルに綺麗に入れ、俺の顔を見ては、まるで欲しかったおもちゃを買ってもらった小さな女の子のように可愛らしく笑った。
彼女が死のうと言えば俺は喜んで一緒に死ぬのにな。なぜかそんなことを秋の中で思っていた。それでも穏やかな風にショートヘアを靡かせる彼女の姿に見惚れ、無責任ながらに、どうか生きて、なんて思っていた。今が永遠に続いてくれなんて、ありきたりなことを思っていた。そうして色々な思いや想いを胸にしているうちに、金木犀の香りもすぐに消え去り、冷たい風に押し出されるように最後の秋は去っていった。彼女のその白い肌は秋によく似合っていた。
終わりの接近を告げる秋の中には、ゆく先を示す彼女がいた。
あの娘は今もあの寂しげな教室の写真を持っているのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しいことを思い、やはりなんだかどうしようもなくなってしまった。彼女のあの表情や言葉が嬉しくて、のちにそれだけで「写真家になろう」と夢を決めてこんなところまで来てしまった当時の自分が情けなくて、でもなんだか羨ましくもあった。過去のなにもない自分が、今のなにもない自分からはすごく輝いて見えた。
当時俺はあの青春の日々を鈍色だと思っていた。でもあれは間違いなく、青色だったと、今になって思う。過去はすごい速さで広がってゆく。俺はそれをただ、眺めることしかできない。




