第三編『あの頃、あの校舎の端で、あの娘は』/第一章「純異性交遊」
金なし、友なし、女なし、夢なし、希望なしの自他共に認める人類の底辺を街灯は定期的に照らし、すぐに見逃していく。視界に少々の邪魔をしたのち謝罪もなく消え去っていく白い息は傲慢で、バイトを辞めていよいよ職もなしになってしまったことによる焦りも相まってか、闇の中では苛立ちが膨張しているばかりだった。
バイト先には気になっている林という名のおなごがいた。長く伸ばした前髪に隠れ気味なその顔はよく見ると可愛らしく、大人しさといい、気遣いのできるところといい、なにかえらく惹かれるものがあった。それに彼女は俺よりも年が二歳程上であり、優しく筆下ろしされる妄想を掻き立てられた。だから俺は彼女を恋人にし、今回こそは童貞を捨てるぞと息巻いていた。
しかし彼女は俺の気持ちに気づかず、別のしょうもないチャラついた先輩バイトに対していつもなにか色づいた視線を送っていた。だから俺は「もしかしてそいつが好きなのか?そいつはやめておけ。バイト中いつもぐちぐち言ってやがるぞ。どれくらいぐちぐち言ってるかって?うーん...そうだな、俺くらいぐちぐち言ってやがるぞ。だからそいつはやめておけ。俺にしておけ」とテレパシーを送っていたがそれも虚しく、結局彼女はそのしょうもない男と交際を始めたようだった。だからバイトを辞めた。「それだけ?」なんて言ってくるような奴がおれば、俺は愛おしき俺のためにも胸を張って「それだけだ!」と言ってやろうと決心したが、我がまわりに「それだけ?」なぞと言ってくれるような人間がいないことを思い出し、肩を落とした。
そうして警察から職務質問を受けないのが不思議なくらい暗い顔をしたまま歩いていると綺麗なミディアムヘアの女性とすれ違う。良い香りを感じたと同時になにかの音が下で鳴る。音を追いかけ下を見やるとそこには開いた財布が落ちており「白戸 咲子」という綺麗な名前が記された免許証が見えた。俺は急いでそれを拾い、そのミディアムヘアの女性に声をかける。「落としましたよ」と紳士に言ってそれを渡すと、彼女は優しい笑みでこちらに礼を言ってそれを受け取り、夜の中へ去っていく。あれ?これはもしやドラマチックな恋の始まりかな?また会えるかな?と呑気なことを考えながら彼女の後ろ姿を眺めていると、彼女の奥にいた男がこちらに手を振ってきた。あんな知り合い俺にいたかなと首を傾げていると、目の前で背を向け歩いている先程のおなごがその男に向けて手を振り返し始め、じきに二人は手を繋いで去っていった。始まることもなく終わった恋にすらなっていないそれに舌打ちをしながら、俺はまた歩き始めた。
じきにボロアパートに辿り着き、俺はコートを脱ぎ捨て、そのまま倒れ込むように布団に沈んだ。
あの娘の夢を見た。彼女はやはりあの校舎の端で、その綺麗なショートヘアを風に靡かせていた。
目が覚めると窓はまだ色を変えておらず、まだ夜明け前であった。そうして身体を起こす気力もなく、天井の木目と目を合わせているとなにか目が疲れ、もう一度瞼を閉じるとそこは何年も前のあの春だった。
高校に入って二年が経ち、ついに三年生になったわけだが、結局恋人どころか友の一人すらできないままこの所謂青春時代とやらは終わっていくらしい。小中学生の頃は少数ながら確かにいた友であるが、別々の高校に入ってまで連絡を取り合うような親密な所謂親友とやらは一人としておらず、学校内どころか学校外にすら友がいない始末。孤高と言えば聞こえはいいが、言い方を変えれば正真正銘のぼっちである。さらに参ったもので家族とも仲が悪く、家にも居場所がない。しかしこればかりは家庭内の事情であるからして他人にとやかく言われる筋合いはないなぞと思ったが、とやかく言ってくれるような人間がまわりにいないのだからその心配も要らぬものであった。
休憩時間、いつも通り、二年もの時間を潰してきたあの校舎の端へと向かった。教室などから少し離れた場所にあるそこは基本的に人が訪れることはなく、時折カップルがイチャイチャしに来ることもあったが、毎日気持ちの悪い顔で独り座り込んでいる俺がいたからか、いつの間にか近寄る者はいなくなった。学校に半プライベート空間があるというのは中々素晴らしいことである。馬鹿どもの喧騒も遠く、一人でしっかりと休憩時間を堪能できる。休憩時間というのだから休憩してなんぼ。休憩もせずに騒いでいる馬鹿どもは間違いなく馬鹿であり馬鹿ならぬわけのない馬鹿である。だから今日も俺はいつものあの校舎の端へと休憩を堪能しにきたのだが、なんたることか珍しく先客がいた。新入生が春風に乗る桜の花弁を追って、我が縄張りとはつゆ知らずに来てしまったのであろうか。その先客はおなごであったからして、あわよくばお近づきになれるかもなどといった間抜けな感情を胸に抱きつつも、無論声をかける勇気が俺にあるわけがなく、少し離れた位置で彼女に背を向け座った。
それから少しして、俯き座る我が面を誰かが覗き見てきていることに気がついた。俺が顔を上げてその失敬者を見やるとそこには「あ」なぞという声を漏らす小柄の可愛らしいおなごがいた。そのショートヘアを見るに彼女は先程の先客であり、そしてここでようやく彼女がクラスメイトの女子生徒であることに気がついた。「竹野くん?」とはじめて俺の名を言う彼女に対して静かに頷くと、彼女は小さく「体育疲れたね」なんて言って笑った。そして彼女は「これいる?」と言ってレモン味のアメを差し出してきて、俺は小さな声で「あ、ありがとう」と言ってそれを受け取った。青春の象徴のような甘酸っぱいその味は、青春のはじまりを示すようだった。少しの沈黙の後、遠くに見える桜の木を見つめ「もうすぐ散っちゃうね」なんて寂しそうに彼女が言って、その彼女の様に俺は見惚れていた。彼女のその白い肌は春によく似合っていた。
その日から彼女は頻繁にその校舎の端に訪れるようになり、その名のとおり桜のような彼女、朝川さんとの小さな青春が幕を開けた。
そうしてすぐに桜は散って、最後の春は桜の後を追うように去っていった。
真っ暗で短いその髪を、最後の春風に靡かせるあの娘がいた。そしてその春風は俺の前髪を吹き上げていった。
瞼の裏の春から戻り、現実を見つめる。再び目が合った天井の木目が俺を見下しているように見えて、身体を起こして俯いた。我が高校時代の思い出の中でいつまでも隣に居続ける、まるでパッと消えていってしまいそうだった桜のようなあの娘は、今頃何処でどのように生きているのだろうか。夜を嫌わずにあの可愛らしい顔で笑っているだろうか。幸せな笑顔に囲まれて生きているだろうか。そんなことを思っていた。思うだけ思って寂しくなって、それを紛らわせるために携帯を開き、あの娘と真逆の爆乳黒ギャルが乱れる桃色映像にて我が愛しの恥ずかしがり屋な息子『チン三郎』を激しく慰めた。
短い戦を終えたチン三郎の元気のないその様はまるで猫背で俯く今の己とそっくりであった。気づけばティッシュの中も部屋の窓も真っ白だった。
晴れて昨日から俺も所謂ニートだが、無論早く次のバイトを探さねば餓死にて孤独死待ったなしである。しかしどうしても気力がなく、結局ボーっとしているうちに気づけば一日が終わっていた。
そうしてすぐに夜が来て、またあの娘の夢を見た。




