02.緋色の魔女
石畳の路で馬車とすれ違う。
馬車は、つい今しがた取引を終えたばかり商人の邸宅に向かうようだ。
車輪が巻きこんでいたのか、馬車の走り抜けたあとには、魔女が最近用無しにした懸賞首の張り紙がばらばらになって散っていた。
「おっと、いかんな」
魔女は、ずり下がった腰のベルトをきつめに締め直す。
黒マントで隠しているとはいえ、あわやスカートが下に落ちるところだった。
にも関わらず、魔女はベルトがまたもずれそうなことに口角を上げた。
その原因は金貨袋の重さにあった。
別に、マントの下を素肌にして楽しむ趣味はない。
銅や銀で似たようなことになった経験はあるが、ゴールドでは初めてだった。
先日、訪れた飛竜に顔面をねぶられてべとべとにされたものの、その唾液を利用して香水を調合していた。
原液の量からして相当だったため、大量の商品ができてしまい、帝都への輸送に人を雇ったほどだった。
当然、それだけの品をさばくとなると、もはや魔女業というより香水屋に看板を掛け替える必要がありそうだったため、商人に売った次第だった。
ちなみに、作り過ぎたぶんを売っただけで、原液はまだ幾分か残っている。
帝都には、魔女とすれ違うと小走りになったり息を止める人間が少なくないが、今日は立ち止まって振り返ったり、鼻を鳴らしたりする者がいた。
とはいえ、さすがに声を掛けてくる者はいない。
彼女が黒づくめになる以前なら、香水なしでも今のようになることもあったが。
魔女はひとびとの反応を楽しんだのち、路地裏に入り、とある店舗の勝手口の戸を叩いた。
中からエプロンをつけたみつあみの娘が現れ、魔女の姿を見ると「お母さんに声を掛けてくる」と引っこんだ。
娘は扉を閉めず、魔女もそのまま中へと入りこむ。
なんの変哲もない民家の台所だ。しいて言うなら、あの扉の向こうは魔女の自室にカウンターを足したような様子になっている。
前職時代からの付き合いの薬屋だ。今は友人に気を遣い、正面から出入りするのを避けていた。
「お母さんは勝手にどうぞって。いつものやつでいい?」
みつあみの娘は幾つかの巾着袋と瓶詰の花を食卓に並べる。
これらは魔女の暮らす森の中には植生しない品種の素材だ。
「いつもより多めに貰えないか?」
「構わないけど、コインはちゃんと積んでもらうわよ」
「ところが、今日はこれしかないんだ」
魔女が黄金の硬貨を指で挟んで振って見せると、娘はいっしゅん目を輝かせたが、すぐに口を尖らせた。
「それじゃ、うちで使うぶんがなくなっちゃう。お母さんも怒る!」
「少しだけでいいんだ」
「それはそれで、お釣り用のコインが足りるかどうか……」
「釣りは要らない」
魔女は金貨を食卓に置き、さらに一枚を取り出して重ねた。
「お祝いだよ」
「ちょっと……」
娘は眉を寄せて、店側に続く扉を見やった。
「誰から聞いたの? お母さんは、あなたには言わないようにって……」
「相変わらず優しい奴だ。魔女は耳がいいのさ。それに、もうひとつ噂を聞いた」
魔女の言葉に娘は黙り、小首をかしげた。
「おまえは、わたしたちが通った道を行く気なんだろう?」
「ちょっと待って」
「入用になる。おまえの母親は現場仕込みだから、ここには書物が少ない。練習も商品でするわけにもいかないだろ?」
「そうじゃなくって、それこそどこで聞いたの? お母さんにも言ってないのに」
「気づいてると思うぞ。おまえはここに来てから、仕事のことを聞きたがり過ぎだ」
娘は赤くなると、また店のほうを見て「そうだったかな……」と漏らした。
「つらい仕事だぞ」
「分かってる。でも、私はそれでお母さんに助けられたし」
娘は右腕をこすった。袖がずれ、盛り上がった傷痕があらわになる。
衣服に隠されてはいるが、両脚や腹にも枯れ枝が無数に走っている。
魔力感知型に混じって物理接触型の地雷が残っていたのだ。
それを彼女の生みの親が踏んだ。
「治した患者を引き取ったのはあいつの勝手で、仕事じゃないけどな」
「私は幸運だと思う。同じような目に遭った子の力になりたいの」
魔女は思う。まっすぐな目だ。戦場に駆り出される前のわたしたちのような。
「お母さんやあなたのような、立派な医師になりたい」
「わたしは立派じゃない。まっくろだ。見て分かるだろう」
「もぐりならともかく、帝国公認じゃない。人を救ってるのなら立派よ」
おもむろに魔女は、娘の頭に手を置いた。
「生かすばかりが仕事じゃないんだ。医者や薬師ならともかく、こちら側には来るなよ」
「悪い奴だってやっつけてやるわ! 魔物だって、戦争をする人だって!」
そういう話じゃないんだよ。
魔女は爪で娘の額を弾いた。
「痛てっ!」
「やっぱりこれは没収だ」
置かれた金貨が一枚回収される。
「えっ、なんで……」
「その代わり、こっちだな」
魔女は売らずにおいた香水をひと瓶置いた。
「これから帝都で大流行する香水だ。これを使って男でも引っ掛けるんだな」
「私、別に恋人とか。それに……」
娘がエプロンを強く握る。
「傷のことか。見てくれに騙される男を避けるのに便利さ。別に医者や薬師を諦めろと言ってるわけじゃない。薬草臭くなるのはともかく、血のにおいは簡単には消えないぞ」
魔女は付け加える。
「それに、おまえを引き取ったあいつの気持ちを考えてもみろ。年頃の娘らしいことをしてみせるのも親孝行だ」
娘は答えず、黙って香水を見つめている。
魔女は一度は引っこめた二枚目を食卓に置き直すと、「まあ、まずはお姉ちゃんからだな」と言い、出された素材を仕舞い、薬屋を出た。
続いて魔女が向かったのは、帝都の中央からやや外れた位置にある、頑丈な石壁に囲われた豪奢なつくりの施設だ。
古今東西の書物が納められた帝国図書館で、各種研究所ともつながっている。帝都はもちろん、地方からの研究者がひっきりなしに出入りしているのだ。
門ではふたりの兵士が槍を交差させて道を塞いだが、魔女が身分証を取り出す前に「緋色の魔女だな、通ってよし!」となおざりな対応で通された。
魔女も学生のころは足繁く通っていたが、最近は機関誌に目を通す月いちの義務を果たすくらいでしか立ち寄らない。
植物図鑑や薬品のレシピをつづった書籍も大量にあったが、土地に根付く魔女的には、自作の図鑑やノートのほうがよっぽど大切だ。
レシピが独自で秘伝だからこそともいえるが、何より素材の見掛けや効能が土地土地で違うこともざらなため、幅広い知識を身に付けるよりも自身の森についての専門家になることに努める必要がある。
とはいえ魔女は今回、専門外の知識を求めに来ていた。
「おや珍しい。緋色の魔女くんが魔物図鑑を読んでるよ」
席についてページを繰っていると、背後から男に話しかけられた。
魔女は目いっぱい顔をゆがませてから、振り返らずに「悪いか?」と返す。
「悪くはないけど。きみが飛竜について調べてると不穏だよ。取っ捕まえた密猟者に取って代わる気じゃないよね?」
「バカいうな。殺してしまうのはもったいない。自然に剥がれ落ちたり生え変わったぶんを拾うほうがいいんだ。長く素材が採れるし、希少性はわたしの食い扶持にも影響するんだからな」
男が向かいの席に座った。
癖っ毛で眼鏡を掛けた、人をバカにしたような目つきの男だ。
「マジに返されるとは思わなかったねえ」
「竜の鱗が手に入ったんだ」
テーブルに竜鱗を三枚置く。
「ちょっと色が悪いけど、状態はいいね。これってレッドドラゴンのかい?」
「色が悪いのは雌の成竜だからだ。たった三枚だから、使い道に困ってな」
鋼鉄の矢も通さない硬度を持つ鱗は、竜殺しの矢じりや高級なスケイルメイルに使われる。
「大きさも半端だからナイフにもならなそうだね」
「そうだ。どうせなら、もっと寄こしてくれればよかったのに」
と言いつつも、竜鱗についた血液を思い返す。
あの緋色の竜は、みずから鱗を剥ぎ取ってこれを与えていた。
「どうやって手に入れたの? 赤いのは軍でも飼ってないし、まさかきみの森に棲んでるわけでもないよね?」
魔女は思案する。こいつはあまり好きじゃないが、信用はできる。
「ねえねえ、ほんとのとこはどうなの? ドラゴンスレイヤーにでもなったの?」
嫌いだが、正しい情報は与えておいたほうがいいだろう。
魔女という職は、ただでさえ噂に尾ひれや翼が生えやすい。
彼女は雌の飛竜が小屋を訪ねてきたことを眼鏡の男に話した。
「ふうん。野生の竜に懐かれちゃった、ねえ……」
信じてないというよりは、期待外れの答えといった顔だ。
「素材が頂けるのはありがたいが、竜に通われると商売あがったりだ。あいつに好かれた原因か、フラれる方法が知りたい」
「それなら、ここなんかより竜騎隊のところに行けばいいじゃないか、ねえ?」
男はにやにやとしている。魔女は舌打ちをした。
「今、彼は竜の治療にも手を伸ばしてるからね。知ってた?」
「知らんな」
「きみに会いたがってたよ」
「嘘だな」
「彼がフラれたんなら、僕が恋人に立候補しちゃおうかなあ」
魔女は「ころ……」と、言いかけてやめた。
「竜を追い払う方法を見つけてくれたら考えてやる」
「ただ働きさせる気まんまんだね」
「ただとは言わないさ」
香水の瓶を三本、テーブルに置く。
「なにこれ毒?」
「その反対さ」
「惚れ薬? 媚薬?」
「似たようなものだ。さっき、わたしからいいにおいがすると言っただろう?」
「言ったっけ……?」
「顔が言っている。おまえはサロンに出入りしてたな? これを小金を持った女に配ってくれ」
「え? テロでもするの?」
「ただの香水だよ。当面の飯代でな。商人に卸したが、宣伝もしておこうかと」
「はあ、したたかだねえ」
男は瓶を手にし、眼鏡をずらして観察した。
ふたを開け、手であおいでにおいを確認する。
「確かにいい香りだ。これ、何でできてるの?」
「竜のよだれだ」
「うぇっ!」
「数百倍に薄めてるし、香木や蜜なんかも混ぜてるがな」
「聞かなきゃよかったよ。これも例のお客さんがくれたわけ?」
「そうだ。顔面をやられた」
男は「顔面を……」と反芻すると、魔女の顔をまじまじと見つめ、肩をひくつかせ腹を押さえ、げらげらと笑い呼吸困難になり、係員に「静かになさってください」と注意された。
「そんなに笑わなくてもいいだろう」
「だってそれ、懐かれてるどころじゃないでしょ。自分の竜に卵を抱かせた竜騎兵がいたって話を思い出しちゃったよ」
「つまらない冗談はいい。困ってるんだよ」
「冗談じゃないんだけど……。ま、ひとつ思い当たることはあるよ」
「なんだ、教えろ」
「自分で心当たりはないの? 魔女になっても鏡の前に立つくらいはするでしょ? その長い髪も相変わらず綺麗だしさ。あいつもよく褒めてたよねえ」
男は再び笑い出した。
魔女は「黙れ!」と刺すように言い、係員に注意されると、小声で「気づいたことがあるなら教えてくれ」と頼んだ。
「いやさ、きみの髪は長くてまっかだし、その杖だって竜骨から削りだした芯に魔力樹を編んだものだろう? ついでに、杖のさきっちょの魔嘯玉だって、竜の胆石を磨いたものだ。あ、契約魔術も火の精霊だったっけね?」
「……何が言いたい?」
魔女の額には汗が浮いていた。口元も引きつっている。
問い掛けているくせに、見ているのは手に取った自分の長い緋色の髪だ。
「雄の竜だと勘違いされてんじゃないのって」
男はそう言うと、またも大爆笑を始めた。今度は係員が止めても無駄だ。
「そこに来て、においまでまとっちゃったらもう完璧じゃないか! いやあ、おめでたいねえ。結婚、おめでとう!」
魔女は素材の入った巾着から湿った葉をひとつまみ取り出すと、男の鼻の穴に詰めこんだ。幻覚作用と鎮静効果のある薬草で、所持からして許可制だ。
帝都のはずれの駅馬車につくまで、魔女は多くの人に振り返られた。
緋色の髪のせいでも、黒づくめの格好のせいでも、甘美で少し淫靡な香りのせいでもない。
石畳をわざと打ち鳴らすように踏みつけて歩いていたからだ。
殺気というものは、一流の戦闘者でなくとも放つことができる。
馬車が森につくまで、馭者はずいぶんと気疲れをしたようだった。
疲れたのは魔女もまた同じだ。
ところが、彼女は馭者よりも、もうひとつ余分に疲れることとなった。
森を抜けて小屋のある広場に出ると、でっかいのがやってきて、大きな鼻でにおいを嗅いだ挙句、前回よりも五回も多くべろべろとやったのだから。
***