12.小雪まじりの雨
その日魔女が目覚めると、窓の外では雨が降っていた。
また雨か。だが、弱い雨だ。森の中では降ってるうちには入らないほどだし、マントや帽子を軽く払えば濡れてもなかったことになるような。
魔女は伸びをし、いつもより長く鏡を見て朝の身支度を整え、外へ出る。
帝都の方角の空は、ここと同じどんよりとした雲に覆われている。
いっぽうで北の山のほうは、雲が途切れて青空が見えていた。
既に待っていた竜は首を曲げてこちらを見たが、魔女が鞍を持っていないことに気づくと、鼻から強く息を吐いて首を伸ばし、頭をべったりと地面に着けた。
「すまんな。今日は帝都に行くんだ。図書館とかに用事があってさ……」
魔女は言い訳がましく説明をし、竜の頭を撫でる。
竜は喉を鳴らさなかった。
魔女は小径に入り、村へと向かう。
ここのところ森の素材集めを怠っていたからか、目立つところにキノコや草花が繁盛してきている。
村で軽く食事をし、すっかり魔女の御用聞き役になった店の主人と話しをし、いくばくかの手間賃と村人に渡す薬を預けた。
街道に出て、近隣の村々へと伸びる道と交わる三叉路に開かれた馬車駅で馬車に乗り、帝都へと向かう。
馬車に乗りこむさい、小雨の中にときおり白く舞うものが交じるのを見た。
帝国図書館。
魔女は今日、一日中でも粘るつもりだった。
今月の帝国公認医療従事者の機関誌が置かれる日でもあるし、緑のすり鉢で得た未知の素材や既知の素材の亜種についてまとめた手帳を図鑑と照らし合わせなければならない。
魔女は分厚くなった付箋だらけの手帳と、端の擦り切れたほこりくさい図鑑をテーブルに広げ、さらに、まあたらしい緋色の革表紙の本を開いた。
本のページには何も記されていない。まっさらな紙にインクを滑らせ、まずは自身の森について記述していく。
アカガサタケ、ツノウマノフンモドキ、ミカヅキキノコ……。
ミカヅキキノコは有用な成分が多いのだが、月の欠けた特定の時期に青く発光し、その期間中は猛毒を持ってしまう。
だが、魔女の森の領域に生えるものは、いつでもほの青く輝くものの無毒だ。
いっぽうでツノウマノフンモドキには赤い変異種がみられ、こちらは強烈な神経毒を有する。触れるだけで皮膚が炎症を起こし、微量でも血管に乗れば全身が腫れあがり、手足や鼻、耳、舌などの末端は永久に麻痺したままとなる。
魔女はキノコについて記しながら、機関誌のある棚のほうを何度も盗み見た。
研究者や学生が何人かやってきていたが、魔女の望む人物の姿はない。
オトメノアマヅユ、クロビカリダイコン、ハエトリツボミ、タイジュカンゾウ……。
ドクドクマダラ、ドラゴンシジミ、セイレイノツカイ、ヨンマイアゲハ……。
ヌマガエルの油、アナヘビの毒腺、リュウモドキの糞、ダンゴエナガの巣……。
魔女の素材について記していく手が早くなる。次第に顔も上げなくなる。
脳内でずっとちらついていた男の顔は消え、次から次に動植物や鉱石などの情報が流れていく。
ペンが滑る音だけが聞こえ、そらでインクを足し、またペン先を走らせる。
文字だけでなく、スケッチの清書や図鑑からの絵図の書き写しでもペンは滑らかに走り続けた。
自身の領域の森はいったん締めとし、追記ぶんを考慮して空きページを確保してから、次は「緑のすり鉢」と記す。
魔女はあの高原をそう呼んでいる。
まさにその通りの地形をしているからでもあるが、あそこで過ごすと、自身の中にこびりついた滓が剥がれ、純白の乳棒で粉砕されていくような気がするからだ。
……ふと、正面の席に誰かが座っていることに気づく。
魔女が顔を上げると、男の顔があった。
癖っ毛で、眼鏡を掛けた、意地悪そうで不快な男の顔が。
「なんだおまえか」
「なんだとは酷いねえ」
魔女はページに視線を落とし、最初に記す素材はどれにするかと思案する。
緑のすり鉢ではキノコのたぐいを見かけていない。
植物は背の低い草花が中心で、岩場の苔にも有用なものがあった。
虫は多いが鳥は少なく、獣も獰猛な肉食獣はおらず、魔物と認識される生物も未確認だ。
そういえば、竜のねぐらの周辺ばかりで見つかる野草がある。
本来なら温暖な低地でしか育たない品種で、あれがあそこに生えていられるのは飛竜が体温で温めているお陰ではないかと考えられる。
種を運んできたのも彼女かもしれない。
注釈と考察を添えておこう。
「ホント、相変わらずすっごい集中力だねえ」
うるさい。
「すぐそばに愛しの彼が座ってるってのにさ」
魔女は顔を上げた。
鬱陶しい眼鏡男の隣の席に、くたびれた白衣を着た男がいた。
「んじゃ、僕はこれで。あとはごゆっくり~」
と、眼鏡男は席を立ったが、魔女の視覚も聴覚も、すでに彼のことを除外していた。
「久しぶりだね……」
白衣の男は、無精ひげの顔を困ったように笑わせた。
どういう顔をすればいいのか分からない、だけではなく、普段からそういう笑い顔を見せるひとだった。
そして魔女は、その困り笑顔に意地悪やわがままを言うのが大好きだった。
「久しぶりどころか、いっしょだった時間よりも長い期間会ってない」
なんて厭味を言おうとして呑みこんだ。
代わりに魔女は、「あ、ああ」と曖昧に返事をして、ペンを置いた。
「彼が教えてくれたんだ。ここにきみがいるって。書き物を始めたから一日中いそうだって聞いたけど、急いで来た」
着席して間もないのだろう。よく見ると少し汗を掻き、息も上がっているようだった。白衣はよれたり染みがついたりしているだけでなく、肩のあたりが濡れて透けている。
「雨が降っていただろう? そうだ、わたしが軍に納品する冬眠知らずの……」
魔女の声は少々上ずっていた。男に遮られる。
「雪に変わっていたよ。見に行かないか?」
男は真剣なまなざしでこちらを見ていた。
だが、遮られたという些細なことひとつで、魔女はくちびるを仕舞いこんだ。
「研究所の植物園の裏庭、憶えてるかな? あそこに雪が積もるのを見てみたいって、昔言ってたよね」
魔女の指は置いたペンの上に置かれたままだ。
薬で色付いた指がペンを押し、転がした。
「行かない」
男が悲しげに眉を寄せる。
魔女は「やってしまった」と思った。
「あなたよりわたしのほうが泣きたい気分だよ」と、こころの中で拗ねてみる。
ぎくしゃくするだろう、沈黙が訪れるだろう。
そう思った瞬間、魔女の耳は遠くで飛竜の声を聞いた。
知らない竜の声だ。だが、背中を押された気がした。
魔女は「今日は、あなたと話がしたいんだ」と続けた。
「わ、分かった。じゃあ、お茶を貰ってくるよ」
男が笑顔を作り、腰を浮かせる。
魔女は言った。「行かないでくれ」
「そのまま、そこに座って、わたしと話を、しよう」
男がひとつ隣の、魔女の正面の椅子を引く。
魔女は思っていたことを口にしていた。
「怖いんだ。またわたしの気が変わってしまうのが。今すぐ話がしたい」
無意識だった。彼の耳に届いてから気づく。
「きみは少し変わったね」
男が柔らかく言う。まなざしは見守るようだった。
見守るようだったはずなのに、いや、だったからか、魔女は軽口を選んだ。
「あなたも変わった。戦場にいたころは、もう戦争とは関わりたくないと言ってたのに」
また選択ミスだ。彼の眉間にしわができる。
「確かに戦争は嫌いだ。だが、目をつぶり耳を塞げば消えるというものじゃない。救わなければいけないいのちは、つぎつぎと増えていく」
「あなただけがすべきことでもない。医者や治療術師は他にだっている」
「そりゃ、緋色の魔女から見ればぼくは凡庸かもしれない。だけど、これは個人の信念の問題なんだ。ぼくは誰も死なせたくないんだよ。兵たちには待っている家族がいる。戦禍に遭った人たちには救いの手が必要だ」
わたしだって待ってたのに。
「……風の噂で聞いた。あなたは死なせてやるのをやめてしまったそうだな」
「本来は公認魔女でなければ違法だよ。それにたとえ手足を失おうとも、生きていればしあわせやよろこびを得るチャンスはあるからだ」
いつか喧嘩したときと同じ議題だった。
彼女はあのとき、彼の弁に強く反論していた。
ちょうど信念がうつろいだした時期で、死なせてやることの優しさを説いた。
この考えの違いが、胎のいのちを失った原因を彼に勘違いさせたのだった。
だが今度の魔女は、言葉を呑みこんだ。
頭の片隅で、両脚の無い青年が竜と重なって翼を広げていた。
「ぼくも風の噂で聞いた。先代の将軍閣下を送ったと。きみは魔女になってから、たくさんの人たちを死なせてきたって」
「それは彼に望まれたからだ。他の人たちだって、ちゃんと了解を取った上でのことだ」
「将軍閣下の件は、皇帝陛下もお認めになったことだ。ぼくだって断れないと思う。魔女の仕事の必要性も理解している。だけど問いたい。曖昧な件についてきみはどう処理をしている? 本人が昏睡し続けているケースは? ものごとを知らない小さな子どもの場合は?」
「後見人や親の意見で決めている」
「本人の意向を無視してか?」
「その汚れ役を買って出るのが魔女の仕事だ」
「割り切りがいいな。そうやってお腹の子のことも決めたのか」
魔女の瞳孔がすぼんだ。
「……あれは、違うって言っただろう」
「直接きみの口からは聞いてない。きみは堕ろしたと言った」
「あれは売り言葉に買い言葉で……あのときは最前線で……全部がめちゃめちゃだったから……」
魔女は泣いていた。いくつもの雫が机に落ちていた。
正面の男はうつむき、「ごめん、分かってる」と謝った。
「きみの口から聞きたかった。きみに他に男がいないことも、きみがなんの相談もなしにそんなことはしないことも、あの瞬間以外は疑ったことはない」
男が視線を上げ、魔女をまっすぐと見た。
「問題は、どうして黙っていたかだよ」
「あなたの負担になりたくなかったからだ。ただでさえ、死んだり死なせたりの戦場だから、これ以上は死を負わせたくなかったんだ」
「どの道分かることじゃないか。それに、きみからの負担ならいくらでも掛けてくれてよかったんだ。素直に話してくれれば、ぼくはいくらだって慰めた。戦地に残ることもしなかったし、きみを魔女にさせることもなかった」
男の口調は熱を帯びていく。瞳もまた。
彼がテーブルを回りこみ、魔女の身体を強く抱いた。
魔女は拒絶しなかった。
これだけ傷つけられたのに、責められていると感じているのに、拒めなかった。
いつだったか、恋仲になるのを踏み切ったときもこういう感じだった。
苦笑する。魔女になっても、わたしはちょろいままだ。
今ここで口にした願いは、彼がきっと全て叶えてくれるだろう。
信じてもいい。雪を見に行ってもいい。
魔女はそう思った。
「ぼくは悲しかったんだよ。自分の子供がいると信じたまま、からっぽのお腹を撫でさせられてたなんて」
魔女はまばたきをした。
「いや、昔のことなんてどうだっていい。また一緒になりたい。きみが返事さえしてくれれば、今度の作戦からも外れるつもりでいる」
もはや魔女の耳には何も聞こえていなかった。
代わりに、彼女のからっぽの中で、何かにぶい音が反響していた。
……。
雪は思いのほか長く降り続いていたらしく、帝都は白く化粧をしていた。
だが、小雪まじりの雨に変わっており、地面をびしゃびしゃに汚し始めていた。
どこをどう走ったか分からない。
馬車屋とどんなやり取りをしたかも憶えていない。
村人に「お早い帰りですね」と声を掛けられたのも無視した。
小径でキノコを見かけたときに、手帳を置き去りにしてきたことに気づいた。
魔女は竜を求めていた。
みずから拒絶した恋人の抱擁を埋め合わせるために、同じくひとりぼっちで、同じく子のない雌の竜を求めていた。
広場に出ると、竜の姿があった。
まだ竜の帰る時間ではない。こちらでも雪が降ったようで、竜の周りでは村の子供たちが泥まじりの雪ではしゃぎまわっていたが、魔女は構わなかった。
「竜よ!」
魔女は叫び、両腕を広げる。
竜が身を起こし、こちらに近づいてくる。
視界が竜の鼻先でいっぱいになり、熱い吐息が掛かり、舌が顔をねぶったが、魔女は構わず竜の顔を抱いた。
竜が一歩下がる。
続いて、魔女の身体のあちこちを嗅ぎ始めた。
「どうしたんだ……?」
竜はうなだれ、弱々しく鳴いた。
それから、翼を広げ、子供たちが引っくり返るのにも構わず、一気に飛翔した。
竜は地上を省みることなく、北へと飛び去る。
長い長い慟哭を響かせて。
「泣いてるみたい……」
女の子が言った。
「あれ、魔女さまも……」
女の子の兄が言いかけたが、唐突にざーーっと降り出した雨が掻き消した。
魔女は否定しなかった。
「そうだよ。わたしは泣いているんだ。だから早く帰りな」
雪はあっという間に、融けて消えてしまった。
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