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第36話 その余裕を崩したい

「最初は、君は弟子だった」

「……はい」

「弟子で、可愛くて、可哀想で、私が守ってあげなければいけないと思わされた。それと同時に、君を利用していることへの罪悪感があって、それでいっそう私は君を守ることにのめり込んだ」

「…………はい」

「けれど、そうだね、君が私を好きだと言ってくれるようになったころからかな? だんだん、わからなくなってきて。私が守るはずだった君が、私を守りたいと言って、本当に私を守れるような力をつけ始めて、私は――」

「………………すみません、ちょっと待ってくださいルシル」


 真新しい部屋。

 半壊したルシルの部屋に住み続けるわけにもいかず、フィリップが用意した宿へと移動したルシルは、上半身を起こして寝台へと腰掛けていた。

 気分良く語っていたルシルは、言葉を止められて不満そうにフィリップを見つめる。


「何かな?」

「どうしてあなたは、こう恥ずかしい話を平然と始めるんですか? やり直したいって、ああいうのはその場だから言えるものでしょう!? それをお互いに素面同然の時に真面目に始めるなんて、あなたって人は」

「君の言葉は、その場の勢いだったのかい? 私はそれを聞いて、今とっても傷ついている。けれど安心していいよ、私はその場の勢いじゃない。フィリップ、私は君を愛――」

「だから、ちょっと待ってくださいってば!」


 肩で息をして訴えるフィリップの顔が真っ赤に染まっているのは、決して叫んだからではない。


「全部俺の本心ですけど! その場の勢いなんてものではないですけど! それでもこう、雰囲気とか時とか場合とか場所とか、そういう時があるじゃないですか! こんな真っ昼間に騒がしくて汚い部屋で平然と言うことじゃないでしょう!?」

「私の君への気持ちが時間や場所程度で抑えられるとでも?」

「ルシル!」


 叫んだフィリップは、とにかく落ち着こうと数度息をついた。

 どうしてこうなった、と頭を抱えつつ、寝台で楽しそうに笑っているルシルを見つめる。

 ルシルの言った通り、その怪我は別段命に支障のあるものでもなく、しばらく眠った後ルシルは普通に目を覚ました。それでも未だ大人しく寝台に篭っているのは、全てフィリップの心配性故だ。


「……知っていましたが、あなたはやはり変わってますよ」

「世の中に同じ人間なんていないよ。その中でも私は一番君が――」

「ルシル」


 そうルシルの名前を呼んだ瞬間に、フィリップの纏う雰囲気ががらりと変化し、ルシルは瞠目した。

 足の上に投げ出されていたルシルの両手を片手で掴み、自らの胸元へと引き寄せて、フィリップは怪しく微笑む。


「分かりました、ルシル、あなたがその気なら、俺もその気になることにします」

「フィリップ?」


 その微笑みに本能が警鐘を鳴らし始め、ルシルは咄嗟に身を捩る。

 それをいつの間にか寝台の上に上がってきていたフィリップの足が押さえつけ、ルシルの手を掴んでいるのとは反対の手が背中に回され、あっという間に身体の自由を奪われたルシルは、唯一動く目でフィリップを見つめ返した。


「ルシル」


 蕩けそうな声で名前を呼ばれ、額に唇が落とされる。


「俺は、あなたが大好きなんですよ」


 額、こめかみ、頬と辿って、最後に軽く唇に触れ、フィリップの顔が離れていく。


「それでも、一つだけ不満があって。いつもあなたは余裕そうで、もしくは無自覚で、俺ばっかりかき乱されて。年もほとんど変わらないのに、いつまでも年下みたいで、あなたの大人の余裕に振り回されているみたいで、俺はそれが気に入らないんです」


 だから。


 ぞくりとするような艶を孕んだ声に、ルシルは咄嗟に身を震わせた。

 再び唇を塞がれて、湿った音を立ててそれが離れる。名残惜しげにそれを追ったルシルの視線に気がついたのか、フィリップは再びルシルの唇へと唇を寄せる。

 拘束された腕を引かれ、ルシルが前のめりになったのを支えるように、口付けが深まった。頭の中に直接注ぎ込まれるような生々しい音に、ルシルは強く目を瞑る。


 ようやく唇が離れた時には、ルシルは息も絶え絶えといった有様だった。

 そんな姿を見たフィリップは、うっとりと微笑むと、軽くルシルの肩を押す。


 あっけなく寝台へと崩れ落ちたルシルの身体に、フィリップが覆い被さった。拘束されたままの両手が、ぐいとルシルの頭の上に押さえつけられる。


「今から、ルシルの余裕を崩すから、覚悟して?」


 微笑んだフィリップから漂う色香に、もはやルシルからは余裕が吹き飛んでいるというのに、一度火のついたフィリップは止まらない。

 その顎に、首筋に唇が這い、鎖骨へと寄せられ、軽く吸いつかれる。何度も鎖骨のあたりに吸い付き、ほのかに色づいた白い肌を満足そうに見下ろしたフィリップは、ルシルの腰へと手を伸ばした。


「ルシル、可愛い」


 ルシルの耳元に寄せられた口が、微かに笑いを含んだ声でゆったりと囁く。その間もフィリップの手は、ゆったりとルシルの腰を撫で下ろしている。

 手は止めないまま、再びルシルの唇を奪ったフィリップは、柔らかいそれを軽く甘噛みする。その瞬間に震えた身体を押さえつけ、口付けを深めれば、纏められた両手が戦慄き、宙を掴んだ。


「その顔」


 ゆっくりと顔を離したフィリップは、ルシルの顔を見て笑みを深める。ぞわりとした感覚が、フィリップの背筋を駆け抜けた。


「そういう顔をさせてるのが俺かと思うと、堪らない」


 フィリップの表情に、はくはくと息をすることしかできないルシルは、ぎゅっと目を閉じた。

 これ以上、何も考えられない。


「ルシ――」

「へいお客さん! 昼ご飯……失礼、取り込み中だったかな?」


 恐る恐る2人が視線を向ければ、ほかほかと湯気の立つ籠を抱えた女性が、気まずそうに目を逸らしている。


「……いえ、すみません。頼んだのは俺たちなので、本当に。……あの、お見苦しいところを」

「いやいや、お熱くて良いねえ。私にもそんな時期があったわ」


 にっこりと笑顔を浮かべた女性は、意味ありげな微笑みを浮かべ、ごゆっくり、と囁いて部屋を出ていく。

 受け取った籠を持ってフィリップが振り向けば、俯いて毛布に顔を沈めたルシルの姿があった。

 その肩が羞恥に震えているのを見て、フィリップは笑いながら声をかける。


「時と場合と場所が大事だと俺が言う理由、分かってもらえました?」

「……よく、分かったよ。私が間違っていた」

「はい。続きは、またのお楽しみで」


 その言葉を聞いた瞬間そろそろと上げていた顔を真っ赤に染め上げたルシルに、フィリップは受け取った昼食を手渡す。

 それでも衝撃の抜けきらない様子のルシルを見つめながら、フィリップはひどく心が満たされる気分だった。


「……あなたも、俺に振り回されれば良いんですよ」

「ん? フィリップ、何か言ったかな?」

「いいえ。あなたが好きだと言っただけです」

「っフィリップ! 時と場合と場所と言ったのは!」

「今は良い時なんです」

「どういう理論かな、それは!」


 賑やかな笑い声と、温かい食事と。

 隣に並んだ2人の関係は、ここから始まる。

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