第29話 示された選択肢
「君、なんて顔をしてるんだい」
「……ルシルの過去を、追体験すれば誰だってこんな顔になります」
「気持ちの良いものではないだろう、ごめん」
「あなたが謝る必要はない! そうじゃなくて、俺は――」
言葉が続かなくなって、フィリップは口元を戦慄かせた。
『遺産』を通して目の当たりにすることになった、ルシルの過去を思う。そして堪えきれず、ルシルへと手を伸ばした。そのまま、両手でルシルを抱きしめる。
「ちょ、何を」
「あれ、言っても良いですか」
「あれ、とは何かな?」
きゅ、とルシルを抱きしめる腕に力が入った。
「よく、頑張りましたね」
「……っ」
我慢は、一瞬だった。
抑えようもなく溢れたルシルの涙が、フィリップの服を濡らす。
自らの腕の中で震えるルシルの姿を、フィリップは静かに見下ろしていた。
――目を閉じてるのよ。何も見てはいけないわ。
真っ暗な中で響く、様々な音。
話し声、笑い声、堪えきれず漏れた呻き、物がぶつかる音に液体が飛び散る音。
我慢しきれず目を開けた時に飛び込んできた、凄惨な光景。
「ルシル」
答えがなくても、フィリップはルシルの名を呼ぶ。
ここにいる、と。あなたの味方だ、と。そんな気持ちを込めて、優しく、優しくその名を呼び続ける。
どれだけそうしていただろうか。
ルシルの涙がおさまり、ゆっくりと2人が離れたところで、声がかけられた。
「そうしていると、ルシルさんも普通の女性みたいだね?」
「随分と失礼な言い草だね。私が普通でないみたいな」
「ええー、あなたは普通じゃないでしょう?」
その言葉に反論することはせず、ルシルはただ微笑んだ。
1人だけ、ルシルを普通の女性と言って笑ってくれる人がいる。それだけで十分だと思うから。
「あなたの話は、陛下にもう通してきたよ」
「随分と早いね?」
「準備していたのは、あなただけじゃないってことだよ」
「……私を疑ってはいなかった、と?」
「完全に信じてたわけじゃないけどね。だって、リルの紹介だから」
そうして一瞬視線を送り合った2人に、ルシルは小さく首を傾けた。
「今すぐ判断はできないって言ってたけど、あの口ぶりだと結構乗り気な感じだね。だからだから、僕としては具体的な方法を詰めたいんだけど、ね? 一番聞きたいのはずばり、次期大聖女をどうするの?」
「それは本当に必要かな?」
「ルシルさんはそういうところ無頓着そうだからね。制度改革っていうのは、一気にやったら大失敗一直線だって。そんな例は歴史上いっぱい転がってる、一気に変えたはいいけど結局うまくいかなくてちょっとずつ戻す、とかね。少なくとも大聖女は信仰の対象でもあったわけだから、残した方がいいよ。聖マートリア教会という名前と制度は残しつつ、それが魔術塔と手を組んだという形を取った方が良い。完全に吸収して、潰してしまうよりね」
「なるほど、ね。フェリクスさんの考える適任は?」
「条件としてはね」
真っ直ぐにルシルを見つめて、フェリクスが淡々と告げる。
「民からの人望と信頼。そして聖マートリア教会関係者。もし大聖女の座にこっちの人間がついたら、乗っ取ったと疑われちゃう。罪もでっち上げたんじゃないかって。あくまでも内部告発じゃなきゃいけないんだよね」
「それは分かるけれど、それならどうやって魔術塔と手を組んだことを示す? 上に立つ人間が変わっただけでは不十分だと思うし、文書のやり取りを民が本当の意味で理解できるとは思えない」
「僕との婚姻、でどう?」
「……ああ、なるほど。それでフェリクスさんは良いのかな?」
「良いも何も、結婚ってそういうものでしょ?」
「フェリクスさんは貴族だったね」
「そうそう。貴族なんてみんなそんなものだよ」
わずかな気配を感じて、ルシルは後ろを振り返った。
壁際に立っていたリルの瞳がやや伏せられているのを目にして、小さく眉を上げる。
「どう、ルシルさん?」
「……言いたいことは、わかるよ」
静かに溜め息をついて、ルシルは隣に座るフィリップを見つめた。
その表情を見逃すまいと、さりげなく視線をやりながら、ゆっくりと口にする。
「私しか適任がいないって、言いたいんだろう?」
フィリップの目が大きく見開かれた。は、と小さく息を吸う音だけが響く。
だがすぐに、その顔が伏せられた。表情を隠すように、前髪が滑り落ちてルシルとフィリップの間に壁を作る。
膝の上で握り締められたその大きな拳が、真っ白に染まっていた。
「そうそう。あなたはずっと民に人気だし、魔力を持たないって言うのも改革を感じさせて良いよね。さらに、言い方は悪いけど、あなたの過去は、物語は、素晴らしい美談になるんだ。宣伝戦に、ルシルさんほど向いている人はいない」
「……少し、考えさせてほしい」
「もちろんもちろん。こっちだって、まだ動くと決めたわけじゃないしね。やるかどうかの判断をする時に、情報を伏せておくのはフェアじゃないって思っただけだよ」
「ありがとう」
期限は三日後。三日後に、この場所で、と言う約束を交わす。
送るよ、というフェリクスの申し出を丁寧に断って、2人は帰路に着いた。
道中、フィリップが口を開くことはなかった。
ルシルから一歩下がった位置で、ゆっくりと歩くフィリップに、ルシルはかける言葉を持たなかった。




