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第14話 全く望みがないよりは

 ちょろちょろと、水が流れる音だけが響いていた。

 ルシルもフィリップも、いつものように軽口を叩くことなく、黙々と調査を進めている。

 その連携は手慣れたもので、ルシルが水に棒を差し込んだり、辺りを見渡したりしている間、フィリップは黙ってその身体を守っていた。がさごそと茂みを揺らして現れる小型の魔物も、フィリップの姿を見るや慌てて逃げ出していく。


 さらさらと揺れる、右でゆるく編まれた薄く青みがかった髪。

 純白のローブには、相変わらず汚れはない。この人のローブには何か魔法がかかっているのだろうと、半ば信じかけていた時期がフィリップにはあった。


 その後ろ姿を見つめて、フィリップは目を細める。

 好きだった。これ以上ないくらいに、ルシルが好きだった。


 不器用な人だと、フィリップは思っている。

 初対面の時は、変だけれど優しい人。少し一緒に過ごしてからは、適当で飄々とした、浮世離れした天才。共に過ごす時間が長くなれば長くなるほど、その茶化すような態度の下に隠された優しさに気がついた。

 そうして、その優しさの隣にあったのは、繊細な、1人の女性の心だった。外に出ることを知らない、隠された本心だった。


 師匠で、優秀な元聖女で、そうである以上に、ルシルは1人の女性で。

 そんな人の本心を、昨夜、フィリップはきっと、無理やり引き摺り出した。


 あれ以来、ルシルはずっと強張った表情を浮かべている。フィリップが近づけばさっと飛び退き、そろそろと唇を舐めては目を逸らす。

 いつもの軽口も歯切れが悪く、精一杯取り繕っている様子が痛々しいとすら思う。

 そしてフィリップはルシルの考えを理解した。感情のままにぶつけた言葉は間違いなくフィリップにとっての本心だが、決してこういう顔をさせたかったわけではないのだ。


「フィル」


 呼びかけられてフィリップが顔を上げれば、ルシルが真剣な表情でそっと手招きをする。

 ゆっくりと歩いて行ったフィリップが、その手の先に視線をやれば、岩場の上に、小さな虫のようなものが張り付いていた。


「……魔物ですね。これが例の?」

「光を当てたら逃げるから、間違いないと見ている。大きさの割に魔力の反応も濃い。若干体表の色が馴染んでいないから、きっと北の隣国ザードの魔物だろう。迷い込んだ一部が、この池に住み着いて増えた可能性が高いね。ここを中心に、寒い地方に広がったんだろう」


 口を開きかけたフィリップに気づくことなく、ルシルは1人で続ける。


「水を調べれば分かるけど、明らかにこの池は冷たい。雪解け水かな。あまり知られていないのは、王都付近では暑くて耐えられないからだろう。戻ったら書物でも調べてみるけれど、ザードの魔物、しかもこの国にさほど害を及ぼしていないとなれば、見つかるかどうか。

 それでも、報告はしなくては。少し捕まえて帰りたいけど、移動が大変だね。あの砂漠を越えられるだけの温度まで魔法で下げるとなると、膨大な魔力が必要になる。流石に無理があるから、記録を取る程度が限界かな」


 フィリップに口を挟む隙を与えず、一気に言い切ったルシルは、すぐに踵を返す。慌ててその後ろ姿を追いかけたフィリップは、ルシルに問いかけた。


「もう調べなくて良いんですか?」

「何を?」

「魔物を」

「ああ」


 思い出したというように頷いたルシルは、上の空で返す。

 その態度に堪えきれなくなって、フィリップは揺れるルシルの腕を掴んだ。

 ぱっと振り向いたルシルが、勢いよくその手を振り払う。乾いた音が、森の中に響いた。


 振り払ったのはルシルで、振り払われたのはフィリップで。

 それなのにルシルの方が、ずっと傷ついたような、泣き出しそうな表情を浮かべていた。


「……すみません」

「私も、ごめん」


 重い沈黙。

 気まずい状況にどうして良いかも分からず、2人は足を止めて視線を下ろす。


「ごめん、フィル」


 先に口を開いたのは、ルシルだった。


「この事件が終わるまで、待ってくれないかな」

「何をですか」

「あの質問の、答え」


 あなた自身の、1人の女性としての感情ですか?


 その問いの答えが、ルシルには分からなかった。初めてのことだった。

 こうして一緒に過ごしていても、その答えは分からないままで。


 どれだけ俺を馬鹿にすれば気が済むんですか!?


 フィリップの振り絞るような絶叫が、まだルシルの耳には残っている。

 その通りだと、ルシルは思う。そしてこの願いが、さらにフィリップの気持ちを弄ぶようなことと知りながら、ルシルはそれ以外の方法を思いつかなかった。


「そして、それまでは普段通りに接してほしい、と?」


 そういうフィリップは、柔らかい笑みを湛えていた。まるで、仕方ないな、というように。聞き分けのない子供の我儘を、受け入れるように。

 頷いたルシルは、そっとフィリップを見上げる。


 ずっとフィリップは年下で、弟子で、守るべき存在だった。

 けれどこうして見上げて見ると、その背はルシルより遥かに高い。


「心外ですね、普段通りでなかったのはあなたの方でしょう」

「……」


 軽く笑ってみせたフィリップは、身を屈めると、軽くルシルの額を弾く。

 驚いてびくりと身体を震わせたルシルの姿に、フィリップは満足そうな笑みを浮かべた。そうして、ゆっくりと歩き出す。


「全く望みがないより、ずっと気分は良いですよ」


 長い髪を靡かせて歩くフィリップを、ルシルは小走りになりながら追いかけた。

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