07 決着
しっかりと鍵をかけたことを確認したクリスは、エレオノールが何かとんでもないことを言い出さないうちにと、さっさと口を開いた。
「そ、それでエレオノール。話って――」
だぁんっ、と。
本日三度目となるその何かがどこかに突き刺さった音に、アンナもクリスも凍りついた。おそるおそる音のほうへ顔を向けると、部屋の中央にあるテーブルにナイフが刺さって直立していた。なるほど今のはその音か。
「手が滑った」
もちろん嘘である。話の主導権を握られそうになって、とっさにキレたエレオノールの短絡的行動の結果である。
「私と婚約関係にあるクリスがアンナ嬢と浮気している件について、しっかりお話ししましょうね」
また先に発言されることは我慢ならず、エレオノールはずばり切り込んだ。
「私のお話が済むまでは誰も部屋から出しません。逃げようとしたら私、今度はどこに手が滑るかわかりません。うっかりさんなので」
もちろん嘘である。故意に手を滑らせているし、いつだって全力投球しているに決まっている。狙いを完璧に調整できるよう、血の滲むような努力をしてきた。練習のために一体何体のぬいぐるみを惨殺してきたことか。繕ってくれるメイドはエレオノールの悲しみを思って泣いていたし、時にはぬいぐるみの悲惨な状態に吐いていた。
「さ、まずは二人とも座って。大丈夫、少し時間がかかっても、会場のほうはクリスのお父様が仕切ってくださいます」
アンナと、特にクリスはわかりやすく動揺した。ここで父親が出てくるとは思っていなかった。感情の制御が苦手なエレオノールは、感情のままに理性を置き去りして、周囲が目に入らなくなることが常だった。だから会場のことなど考えず二人を連れだしたのだろうし、フォークやナイフを投げるという目立つ真似をしたのだろう。当然そうだと思っていたし、エレオノールの暴走だと信じていた。……たびたびアンナとの関係に苦言を呈していた父親が黙ったのは、二人の愛を認めたのだと、疑わなかった。
「まずは二人の関係ね。この国では奥さんは一人しか選べないの、知ってるよね。だからクリスは私と婚約しているままではアンナ嬢と結婚できないんだけど、どうするの?」
言葉にすることが大切だ。自分の意思を、考えを。言葉にして相手に示すことで、伝わる何かもあるだろう。
「ぼ、ぼくは……」
動揺しているクリスの代わりに、アンナが声を張り上げた。
「私は! クリス様と真実の愛を見つけたんです。私はクリス様と結婚したい。愛している方と一緒にいたいです」
アンナがそう言うことは予想通り。エレオノールはクリスの返事を待たずに次の質問をする。
「そう、アンナ嬢。あなたの言う真実の愛というのは、何かしら?」
「何って……どういう意味ですか」
準備してきた調査結果を記した書類束をテーブルに置く。ちゃんと用意して、ソファーの上に置いていた。
会場から一番近いこの部屋に行くことは決めていた。クリスの父親にも許可を取ってある。クリスが別の部屋に入ったら取りに行くつもりだった。
エレオノールはちゃんと準備してきたのである。感情に任せて怒り狂う傍らで、ちゃんと考えて行動した。オルガ伯爵家の野菜という野菜が切り刻まれる事態になってもやめず、止まらず、証拠を集め続けた。
その結果が今、テーブルの上に載っている。
アンナがクリスの他にも多くの男性に声をかけていたこと。彼らはある程度の貢物をすると、全員きっぱり捨てられていること。彼らから贈られたプレゼントをすべて売り払ってお金をつくっていたこと。そのお金で魔石を買ったこと。
魅了の魔石。この国では所有も使用も禁止されている、違法の品だ。近くにいる人間の感情を強制的に捻じ曲げて愛を植え付ける魔法の石。それを頼りにクリスに近づいたことも、調べはついている。
「アンナ……? 本当なのか?」
「ち、違います私は――」
「私の父と、クリスのお父様の連名で、あなたの家を調べるよう手配してあります。今頃あなたの部屋から魔石が回収されていることでしょうね」
アンナは絶句した。予想もしていなかった事態である。
アンナの知るエレオノールは、どこか周囲を俯瞰してみているような不気味さと、クリスへの恋心を隠せていない不器用さを併せ持つ、よくわからない存在だった。振り切れた感情を制御するのに苦労する程度には幼いのに、不思議と自分とはまるで違うものを見ているような空気があった。
一目惚れしたクリスを手に入れるために燃やした対抗心は、いつだってエレオノールに勝てなかった。魔石を買って、クリスの心を強引に手に入れなければならないほどに。
「クリスの心をつかんだのなら、確たる証拠である魔石はすぐ捨てるべきだったのに。いくら希少品だからって、うっかりさんね」
「……」
もちろん、うっかりではない。
アンナは確かに、魔石の力でクリスの心を手に入れた。クリスはアンナに愛を囁く。婚約者であるエレオノールを放り出して、まっすぐアンナのところへ駆けて来てくれる。それでも、魔石を捨ててしまえるほどの安心を得ることは、いつまで経ってもできなかった。
愛している。
そう言ってくれるクリスはしかし、エレオノールからの手紙には毎回きちんと返事をしている。贈られた品には見向きもしないのに、けれど決して捨てたりしない。
アンナにはそれが不安で堪らなかった。魔石の力などもう必要ないと思うのに、もし本当に捨ててしまったら、クリスの心はエレオノールのところに戻ってしまうかもしれない。小さな不安を振り払えないから、アンナは魔石を捨てられなかった。
「まあ、いいわ。捨てずにいてくれたことは、私にとっては幸運だったもの」
「え、エレオノール待ってくれ」
「待ちません」
混乱から話を遮ろうとするクリスをぴしゃりと拒絶する。その声には有無を言わせない強さがあった。
「アンナ嬢、魔石の件は言い逃れができなからあなたは罪に問われるわ。だからクリスとの恋人ごっこはもうおしまい」
恋人ごっこ。きっぱりと言い切ったエレオノールに、アンナの胸中を敗北感が満たす。
「そんな……私、私はただ、」
ただ好きな人と一緒にいたかった。
「あなたの気持ちなんて知らないわ」
部屋の扉がノックされた。
エレオノールは立ち上がって、鍵をあける。
「アンナ嬢、あなたとのお話はこれでおしまい。さようなら」
「待って嫌よ! 私は――」
「さようなら」
部屋に入ってきた警察が、問答無用でアンナの腕に手錠をかける。
ぱき、と軽い音がした。魔封じの錠。一定範囲内のすべての魔法を無力化する。アンナが実家に置いていた魔石を通じて発していた魅了の魔法が封じられ、効果が打ち消された。アンナは糸の切れた人形のように脱力し、警察に支えられながら退室した。反動がきたのである。
クリスはその様子を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
再び閉じられた扉は鍵などかかっていないのに、もう二度と開かないような圧迫感がある気がした。