02 メイド達は憂う
深夜のオルガ伯爵家の使用人部屋では今日も、メイドたちによる定例お嬢様会議が催されていた。
「顔が良い男はこれだから……!」
「ああ、お嬢様……」
「結婚? あの男と?」
わっ、と顔を覆って泣き出すアン、メイ、マリの三人は、エレオノールお嬢様愛好会の発起人であり主要メンバーである。
エレオノール・オルガ。オルガ伯爵家のご令嬢である。その美貌は社交界でも群を抜いており、胸も豊かで、老若男女問わず誰もが振り向く天使のようなお嬢様である。艶やかな栗色の髪はまっすぐ腰まで流れ、まるでお嬢様の心の清涼さを表しているよう。大きなモスグリーンの瞳は長い睫毛に守られ、まるでお嬢様の心の繊細さを表しているよう。
そんな愛らしくて大好きな、目に入れても痛くないお嬢様の婚約者が浮気した。
この時点で三人にとってそいつは人間でなく、気をつけていてもうっかりキッチンに出現してしまう黒くてカサカサ動くあれ以下である。つまり、叩き潰す。処刑対象である。
浮気相手は男爵家のご令嬢、名前は知らん。興味もない。こいつも例のあれ以下、もちろん叩き潰す。すでに準備は始めている。
「お可哀想にお嬢様、あんなクソ女に誑かされるようなバカ男を愛してしまったばっかりに」
およよ、と泣き崩れるアンの肩を抱くメイも、同じように涙を流して鼻をすする。
「アン、言葉が悪いわよ」
窘めるマリだけが気丈に涙を拭った。その様子を見た二人は、そうね、クソバカはさすがに言葉がいけなかったわ。私達はオルガ伯爵家にお仕えするメイドなのだから、言葉遣いもそれらしくしなくっちゃ、と気を引きしめた。
「お嬢様を悲しませている死刑待ったなしの男女なんだから、クソバカだなんて優しい言葉を選んじゃ普通のクソバカな人間に失礼でしょう。クソもバカもそれ自体に罪はないのだから」
私達の反省を返せ。マリの言葉に、二人の心はピタッと揃った。
「馬糞に漬け込んで混ぜ合わせた脳みそが養分になって頭の中で毒花が満開になっちゃった腐れ女と、腐った脳みそが神経までずぶずぶに溶かして泥水みたいになった挙句に下半身まで流れてそこで乾燥しちゃったドブ男と言いなさい」
……なんて?
あまりの長文に言葉を失う。そんな罵詈雑言、生まれて初めて聞いた。どこで覚えたのか小一時間ほど問い質したくて仕方ない。
「呼びにくくない?」
アンの意見にメイはびっくり仰天した。どうせ半分も覚えてないでしょうに、受け入れるにしても、もう少し間を空けてよ。私だけ置いてけぼりにしないでちょうだい。メイは変なところでおかしな方向へ真面目さを発揮するタイプであった。マリの長ったらしい悪口を一言一句、丁寧に思い出そうと奮闘しているところへのアンの発言は、ちょっぴり裏切られた気分になったのである。もちろん、アンに裏切るような気は少しもない。
アンはわからないことは考えない主義である。頭の出来がよろしくない自覚はあるし、無理に考えて頓珍漢なことをしでかすより、賢いメイに投げてしまったほうが楽だと知っている。マリが頭のおかしなことを言い出した時はひとまず頷いて、後からメイに聞こう、ときちんと他力本願なだけである。
「言いにくい……確かにそうねえ。では、言いやすいようにクソ女、バカ男としましょう」
元に戻っちゃった。これまでの会話の半分が意味をなくした。メイのちょっぴり傷ついた心も、傷つき損である。普通のクソバカな人間に失礼とまで言っておいて。
二人のじっとりした視線を受けて、マリは慌てて咳払いした。
「ち、違うのよ。ちゃんと省略したのだから、単にクソバカと言っているわけじゃないのよ」
思い出して、と言われても、言葉選びが強烈過ぎてちっとも思い出せない。衝撃ばかりが残っている。
「馬糞と混ぜ合わせた脳みそ、の『ば』と毒花が満開に、の『か』を取って、バカ女」
メイは知らず、アンの手を強く握った。そんな中途半端なところを取って略すな。同じように握り返されたところを見るに、二人の気持ちはまた一つになっているらしい。しかしここはとりあえず、最後まで聞いてみる。
「脳みそが下半身についてる下水道男、の『ゲス』よ。……あら? クソって言ったわよね、私。どこで間違えたのかしら」
多分、最初から間違えている。マリの残念さに、二人は手をとり合ってしくしく泣いた。
マリは賢い女である。三人の中では一番しっかりしているのは彼女である。しかし、どうもエレオノールが絡むと途端にバカになってしまう。バカになるほど怒っている、ということは伝わるが、伝達内容が残念過ぎていまいち感情移入できない。泣けてくる。
「まあ、クソでもゲスでも違いはないわね。お嬢様を悲しませる男だもの」
さっぱり言い切ったマリの堂々たる立ち姿に、二人はただ、そうね、と同意して考えることをやめた。考えるだけ損である。
「さて、そろそろ始めましょう」
仕切り直すべく小さく咳払いして、メイが言った。
「今日の議題は『くそったれ浮気男を改心させる方法』と『婚約者がいる男を誑かした女の調理法』だったわね」
真剣な面持ちで向かい合い、三人はしっかりと頷き合った。
そう、クソでもゲスでも、男のほうは改心させなければならない。叩き潰すのはあくまでも、改心に至るまでの過程で済ませる必要がある。
我らがエレオノールお嬢様は、浮気されても健気にくそったれを愛し続け、彼の愛を取り戻そうと懸命に努力をしているのだ。エレオノールお嬢様愛好会のメンバーとしては、エレオノールの気持ちが一番大事である。彼女が愛すると言うのなら、どんなゲスでも立派な紳士へ鍛え直してみせる。
三人の決意は固く、そして暑苦しかった。
事の起こりは半年ほど前になる。彼女達が愛して愛して、溺愛しているお嬢様の様子がおかしくなった。
ご友人と楽しくティータイムを楽しんでいると思ったら、突如として号泣し部屋に引きこもった。泣いて、泣いて、泣き続けて。ようやく落ち着いたと思ったら、今度は日がな一日、部屋にこもって何やら考え事に夢中。
あわや気でも狂ったか、と神官様をお招きするほどの大騒ぎになったが、結果は異常なし。嘘でもいいから異常があると言ってくれ。娘の奇行にガチぶるいしていた両親の願いは届かず、エレオノールは奇行を拡大させた。
ある時はキッチンへ殴り込み、野菜という野菜を微塵切りし、またある時はキッチンから邸中に怒号を響き渡らせ、さらにある時は大事にしていたぬいぐるみに向けてカトラリーを投擲する。
本当にどうしちゃったんだ、と震えていたのも束の間。エレオノールの婚約者、クリス・エバンズが真実の愛を見つけた、という噂が密やかに囁かれるようになった。合点のいったオルガ家の使用人たちは一様にお嬢様に同情し、涙を流し、クリスの暗殺計画を企てる者まで現れた。もちろん、アン、メイ、マリの三人である。
綿密な計画を立てた。それはもう恐ろしく、おぞましく、死んだほうがマシだと泣き叫びたくなるような計画を。……熱が入って、途中から『暗殺』計画というより『拷問』計画の考案になった自覚はある。しかし止まる三人ではない。恨みつらみを込めに込め、練りに練った。三人の草案を読んだ使用人の中には、あまりの内容に泣き出した者もいた。しかし手ぬるいと喝を入れる者もいた。家政婦長のリサである。愛情深く、メイド達みんなのお母さん的な存在である彼女は、エレオノールに対してもまた、母親のような深い愛を抱いていた。これ以上、どんな罰を計画に組み込むというんだ、と震える涙目の使用人達を颯爽と無視して加えられたリサの案は、あまりのえげつなさに嘔吐する者が出るほどであった。もちろん、三人は諸手を挙げて大賛成した。嬉々として、足取り軽く旦那様へと提出した。
『あ、うん。前向きに善処する方向で検討するね』
どうしてか青褪めていた旦那様からはあれ以来、一切の音沙汰がないけれど、まだ検討中なのだろうと気にしていない。伯爵家の嫡男を暗殺するのだから、殺し屋は慎重に選ぶ必要がある。
「さて、まずはくそったれ浮気男のほうね」
「お嬢様のためにも、私達で殺してしまうわけにはいかないわよね?」
「でも叩き潰すくらいならいいわよね?」
アン、メイ、マリの三人は気づいていた。お嬢様の気持ちが最優先だと言いつつ、暗殺計画を立案した自分達の矛盾を。それでも止められるものではない。感情とはそういうものだと、そこは割り切れないのだと、さっさと諦めた。だって腹が立ったのだもの。
可愛いエレオノールお嬢様のためならば、倫理観など犬に食わせてしまえる三人である。迷いが生じる隙間すらありはしない。……そもそも貴族社会は綺麗事だけでは生きていけない。たとえクリスが闇に葬られたとしても、跳梁跋扈する貴族社会だ。きっと、何か後ろ暗い闇の思惑がどこかでどうにか働いたのだろう、と誰も気にも留めない。ゴリゴリ私怨を募らせているオルガ家の使用人達が抱える感情と一致する結末が訪れるなんて、不思議なこともあるものだなあ。
これくらいのすっとぼけはお手の物である。
「肉体的な損傷を与えるのは、やめておいたほうがいいわね」
「そうね、お嬢様はあの男の顔がお好きなようだし」
「顔は良いのよね、顔は」
顔はねぇ、と三人は嘆息する。
クリス・エバンズは顔が良い。濃い茶髪はさらさらで、黄金色の双眸を涼やかに流せば、一緒に幾人の女が流れていくかしれない。体のほうもきちんと整っており、エレオノールと並ぶとそれはもう素晴らしいバランスで完成する。ぶっちゃけ、エレオノールと並んで歩くために生まれてきたと言っても過言ではない。少なくとも三人はそう思っていた。
顔の良いクリスの顔は、やはり攻撃対象から外すべきだろう。
三人の心は一つになった。
そして、前半で時間を使い過ぎた定例お嬢様会議は、就寝時間を理由に次回へ持ち越しとなった。