プロローグ
オルガ伯爵家のキッチンでは今日も、死んだ魚の目をしたご令嬢エレオノールによって料理人全員が追い出されていた。
「顔がいい男はこれだから……ああ、私……結婚? あの男と?」
まずは玉ねぎを手にとる。白い部分が見えるまで、玉ねぎという玉ねぎの皮をひたすら剥いて、飽きたら頭とお尻を次々に切り落としていく。ここらで一旦、まとめて軽く水洗いして、いよいよ包丁の出番だ。
切る、切る、切る。切る、キル、kill。賽の目状に切り刻んでいく。料理長が今日はオニオングラタンスープの予定だから玉ねぎは残してくださいね、とこちらをチラ見していたことなどさっぱり無視して、一心不乱に玉ねぎを切っていく。目からあふれる涙も玉ねぎのせいにしてしまわないといけないので、涙が止まるまでは玉ねぎを切る手を止められない。足りなければまた皮をむいてkill。
「わざわざ私と同じ栗色の髪をした女の子と浮気するなんて……」
次はにんじんに手を伸ばす。頭とお尻を落として、皮をむいていく。ピーラーって便利だなあ、と考えながら、頭の中ではにんじんを憎い男の顔に見立てて、ひたすら皮をむいていく。終わったら軽く水洗いして、kill、kill、kill。玉ねぎと同じ賽の目状にひたすら切り刻んでいく。にんじんってグラッセにすると美味しいですよね、とこちらを涙目で見ていた料理長のことは忘れた。
「お前は可愛げがないって何よ。自分は誠実さをどっかに落っことしてるくせに……」
次はじゃがいもをわしづかむ。ガシガシ洗って泥を落とし、こちらは浮気相手の娘の顔に見立てて皮を向いていく。芽は眼球だと思って抉る。切り刻む際に少し力がこもったのはしかたない。女の怒りはいつだって、浮気した男より誑かした女のほうへ強めに割り振られるものだ。どう見ても勝ち誇った顔でこちらを見下していたから、怒りに殺意が少し混じってもしかたない。
お嬢様はポテトグラタンがお好きですよね、と震えていた料理長のことなど思い出しもしなかった。
「浮気は男の甲斐性って、本当に言っちゃう男っているのね……」
トマトは少し苦労した。怒りで力むエレオノールの手では、ついつい柔らかい実を潰してしまう。どうせ煮込んでぐずぐずにするのだから構わないだろう、とは思っても汁まみれになる手は不快で、すでに限界まで機嫌の悪いエレオノールは簡単にキレた。
「ああもう! なんなのよ! クリスのバカ! 悪かったわね、可愛くなくて! 中身はともかく顔は私のが可愛いわよ、胸も大きいし!」
ぶちゃあ、と手の中のトマトから悲鳴があがった。ヘタを落とすことだけ忘れなければ、ぐずぐずになるまで煮込んでしまうトマトは手で潰すことにしたのである。断じて力んだ拍子に力一杯握りしめてしまったわけではない。
「男って本当にバカ! どう見ても性格に難がある娘じゃない! 気づきなさいよ。愛嬌だけでコロッと騙されてんじゃないわよ、バッカじゃないの!? バカなんだけど! バカだから騙されるんだけど!」
キッチンどころか邸中に響き渡る怒号に、当主であるエレオノールの父は身震いした。顔立ちや笑んだ時の表情などは愛する妻そっくりに育った娘である。しかしその怒りの激しさは、温厚な両親どちらにも似てなかった。妻は笑顔のまま静かにブチ切れるタイプであったし、自分はそもそも怒るということが少ない。どちらに似たのだろうか。ものすごく怖い。妻と二人、いつも涙目になってしまう。
「何が甲斐性よ、バッカじゃないの!? この国の法律では奥さんは一人って決まってんのよ! 今度会ったら法律の本で頭をぶん殴って物理的に教えてやるんだから! お父様におねだりして何冊か買っていただかなくちゃ!」
怒ったエレオノールは独り言まで大きくなるタイプだった。
娘よ、そのおねだりはパパに使い道が聞こえないよう配慮してくれないと、恐ろしくて買ってあげられないよ、と。さらに震えを増した父の体がガタガタと音を立てる。
父のそんな恐怖などつゆ知らず、エレオノールの憤怒はどんどん勢いを増していく。
「頭お花畑の娘には枯葉剤とか? この世界にもあるかしら。なければ何か、そうね……酸とか? 雑草対策の薬品が一つもないなんてことはないだろうし、庭師のトムさんに聞いてみましょう。あとはそうね、顔の原型が残らないくらいにはボコボコに殴っても構わないわよね、私は被害者だし」
もちろん何一つよくないのだが、今の彼女に声をかけられる猛者は、この邸には一人もいなかった。特に庭師のトムは、仕事道具を片付けている小屋に薬品類を一切合切すべて押し込んで鍵をかけた。旦那様にお願いして買ってもらった新たな錠を三つ、しっかりかけて鍵は使用人室に、これまた旦那様に買ってもらった金庫に入れた。ちなみに金庫も三つある。
「殺さないようにするのって難しいわね。頭の中でシミュレーションすると絶対に殺しちゃうから、半殺しくらいで止められるようになるまでは社会的に殺すための証拠集めだけにしておかないと……」
最後はベーコンだ。だぁんっ、とまな板に叩きつけ、適当なサイズに切る。
大鍋に玉ねぎとベーコンをぶち込んで火をかける。じゃんじゃん炒めながらベーコンから油を出し、玉ねぎがしんなりしたところで残りの具材をすべて入れる。ざっと混ぜたらローリエを放り込む。朝食で、朝食で使うんですぅ、と頭を抱える料理長は記憶の中から押し出した。
残り少ないので次が準備できるまでは使わないでくださいね、と泣いていた料理長を消しゴムで消して、コンソメスープを大鍋に注ぎ込む。蓋をして、しばらくコトコト煮る。
今日もまた、キッチンを追い出されるまでの短い間で繰り広げられた料理長の懇願は全て無に帰した。
いつ、どの食材を、どの程度。長年オルガ伯爵邸のキッチンを守り続けてきた者達であっても、そんな予想できるはずもない。食材はいつだって、エレオノールの気分次第で選ばれ刻まれ消費される。そろそろ追加しなくっちゃ、なんて彼女には関係ないのだ。不定期に乗り込んでくる彼女のためだけに、すべての食材を余分に買い込むわけにもいかない。……試したことはあったが、そのときは待てど暮らせどエレオノールは癇癪を起こさず、献立に随分と頭を痛めたものである。
以来、エレオノール襲来の際は頑張って抵抗することになった。しかしこれまで一度として彼が勝ったことはないし、きっと今後も勝てない。お嬢様は今とてもお辛い目に遭っているのだから、と誕生から十八年、自分の料理で育ってきたエレオノールを愛し、彼女に同情心があるだけ、彼の勝ち目は減っていく。
「でも困ったわね。これまで結構な努力を積んでクリスの好みを極めてきたのに、それでも駄目となるともう、本当にどうしたものかしら……」
柔らかな栗色の髪は腰の辺りまで伸ばしている。枝毛の一本も許さない丁寧な丁寧な手入れはそれはもう膨大な時間を必要とするけれど、クリスが『綺麗な髪だね』と褒めてくれた日以来、一日として欠かしたことがない。
好き嫌いせず、栄養バランスのいい食事を摂るよう心掛け、どんなに美味しいお菓子だって食べ過ぎないよう鋼の精神で己を律してきた。頭のてっぺんから足の爪先に至るまで、手を抜いたことはない。
大嫌いな運動も怠けないよう日々、きちんと記録をつけている。面倒がったり嫌がっても絶対に連れ出してくれるよう、大好きなメイド達にお願いまでしている。
それらすべて、大好きなクリスに大好きでいてもらうための努力であった。
だというのにあのバカ、まんまとシナリオ通りに浮気しやがって。
エレオノールは知っていた。理解していた。ここが起点であることを。ここが破滅の始まりであることを。そしてここが、乙女ゲームの世界であることを。
この国で少し前に発売されたとあるロマンス小説はこれから、破竹の勢いで民衆の支持を集める。それは貴族社会にまで侵食するほどの勢いで、――そして悲劇が始まる。始まりはとある伯爵家の令嬢が、同じく伯爵家の婚約者から婚約を一方的に破棄されることから始まる。小説の中で紡がれた出来事とよく似たシチュエーション、よく似た構図で。
婚約者が恋慕した下級貴族の娘を、伯爵家の娘が妬心から虐め抜き、怒った婚約者の男が婚約破棄を突き付ける。伯爵家の娘は家族もろとも路頭に迷い、元婚約者の男と下級貴族の娘は身分を超えた真実の愛を手に入れ末永く幸せに暮らすのだ。
この出来事は貴族社会に、身分制度でがんじがらめになっている連中に衝撃をもたらすことになる。身分という最大級の障害を乗り越えた恋、真実の愛は、身分差を理由に諦めた恋を抱える上流階級の男たちを、身分差を理由に秘めた恋を抱える下級貴族の女たちを、途端に虜にする。心を奪う。
あっちこっちで真実の愛を見つけた二人が手に手を取り合うようになり、正式な婚約者たちは焦燥感に胸を焼かれるようになる。そして、正当な理由にせよ偽装にせよ、あっちこっちで婚約破棄が行われるようになるのだ。婚約破棄はいつしか社交界のトレンドとなり、遂には王族にまで魔の手を伸ばす。
エレオノールはその未来を知っている。そして、始まりの伯爵家が自分の家であることにも、真実の愛とやらを見つける男が自分の婚約者であるクリス・エバンズであることも、下級貴族の娘がアンナ・フランシス男爵令嬢であることにも気づいた。気づいてしまった。
そして今まさに、クリスがアンナと手に手を取り合っていることにも。
「……っっっっざっけんなっ! 何で私があんなバカのためにこんなに頭を痛めなくちゃいけないのよ!」
エレオノールの絶叫は、壁をぶち抜き廊下を駆け抜け、邸中の耳をつんざいた。