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猫の母の恩返し

新年一発目です。どうぞ。

ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん……


 屋根から水滴が落ちてくる。昨晩の雨の残り。それが水たまりに落ちて、ほんの微かな水音が。

 空には昨晩の雨雲の残りがうっすらと。だが、雨を再び降らせるには至っていない。

 がらり、と古い扉を開ける男が一人。その男、年は25、6ほどか。目もとにはクマがあり、ほんの少し髭を手入れしていない風だが、それも致し方なし。昨晩は、雨音を肴に自棄になって酒をあおっていたのだから。

 というのも、この男、昨日の昼間に女にこっぴどく振られてしまっていたのだ。2か月間の間、男は一途に愛を注いだつもりだったのだが、逆にそれがしつこかったのだろうか。女の嫌気を誘ってしまったのだ。

 だが、自棄になろうが、泣いて喚いて酒をあおっても、女が戻ってくるわけではない。空を見上げれば、陰鬱な湿った雨雲がうっすらと太陽を隠す。まるで、男の心象が天気にまで影響を与えたのかと錯覚するほどに。

 ふと、足元に何か違和感が。視線を下げれば、仔猫が一匹。ズボンのすそを噛んで引っ張ってくる。

 なんとも愛らしいその姿。陰鬱な心象が少し、ほんの少しだけ和らぐ。屈み、その小さな頭をクリクリと、指で頭を撫でてやる。

 すると心地いいのか、ニィニィと小さな声で鳴く。それに気を良くした男は、少し待ってろと言って、室内に戻ると台所へと向かい、冷やしてあった牛乳を少し薄めて小皿に移し、仔猫の傍に置いてやる。

 すると、チロ、チロと小さな舌で牛乳を舐める仔猫。目を細め、その様子を眺める男。ふと、近寄ってきたのは仔猫の親だろうか。少し大柄な猫がやってくる。みゃおんと一鳴きすると、仔猫の傍に寄り、じっと仔猫が牛乳を舐め終えるのを待つ。

 そして仔猫は牛乳を味わい終えれば、親猫は子猫を連れ、去って行く。その後ろ姿を見て、また来いよ、なんて呟く。

 少しだけ、太陽が雲の隙間から現れたような気がした。


◇◇◇


 少しだけ、仔猫によって気がまぎれたとはいえ、やはり、しばらく一緒だった女が居なくなったという事実は、男の心に影を落とす。その後は、日中は仕事へと行き、終われば家へと帰ってご飯を用意し、寝た……気がした。

 というのも、あまりにぼんやりと一日を過ごしてしまったので、なんかそんなことをした気がした……程度の認識で一日が終わってしまったのだ。

 次の朝、昨日のことを思い出そうとしても、仔猫に牛乳を与えたくらいの思い出しか思い出せない。

 そして、きょうという一日も、そんなぼんやりとしたまま終わるのだろう。そう思いながら、古くなってしまった扉を開ける。すると、足元に仔猫が一匹。しかも、昨日と同じ仔猫の様だ。

 律儀に餌を待っていたのか。可愛らしい奴め……なんて思い、男は踵を返すと、昨日と同じく薄めた牛乳を用意して、仔猫の前に置く。そして仔猫はニィニィ鳴きながら、薄い牛乳を舐め始める。

 ふと、視線を少し上げると、親猫が自分のことをじっと見ていた。だが、流石に魚は今手持ちが無かった。悪いなと言って、親猫を撫でようと近づくが、さっと親猫には避けられる。

 まあ、大きくなった猫だ。警戒心も強いのだろうと思い、それ以上気にすることは無かった。

 その次の日も、次の日も。味を占めたのか、仔猫は毎日男に薄めた牛乳をせがみに来た。それに、男は仕方が無いなと思いつつも、薄めた牛乳をやる。

 それから、男の日課に、朝扉の前で待つ、仔猫に薄めた牛乳をやるというものが加わった。


◇◇◇


 そんな、仔猫に薄めた牛乳をやって一月ほど。仔猫も少し大きくなっただろうか。今日も今日とで、薄めた牛乳を仔猫に出すと、親猫が自分の傍に来た。

 どうしたと思いつつ、手を差し出すと、自分から手に体を押し当ててきた。どうやら、やっと気を許したらしい。優しく、親猫も撫でてやる。

 そしていつもの通り、仔猫がミルクを味わった後、みゃおんと仔猫に一鳴きして、猫親子は去って行く。それを見て、男も仕事の準備に取り掛かった。

 ふと、女が隣にいないのに、慣れてきている自分に気が付いた。どうやら、時間が心の傷を癒してくれたのだろう。

 そして、その夜の事だった。

 男が飯を炊きながら、塩魚を焼いていると戸が叩かれる。

 こんな夕暮れに誰だろうと、扉を開ければ……


◇◇◇


 扉の外にいたのは、艶やかな黒髪が美しい、一人の女だった。何かを憂いているようなその視線が何かミステリアスな雰囲気を醸し出していて、一層美しさを引き立てていた。そして、その手に抱いているのは、幼い女の子。

 少しの間、見惚れてしまったが、ハッとして、女に何用かと問う男。

 すると女は、地べたに座ると、頭を下げてきた。慌てたのは男だ。そんな事を玄関前でされたら、どんな噂が立つか分からない。

 まあ、怪しいが子供を抱いているし、悪いことはしないだろうと家にあげ、座布団を用意した。

 そして、再び、できるだけ優しくどうしたのかと問いかけた。

 すると女は、自分は夫たる存在にひどく暴力を振るわれ、この娘を連れて、行く当てもなく逃げていたのだが。空腹のあまり、どこかで一食頂けないだろうかと扉を叩いたとのこと。

 それを聞いた男は、それは災難だったなと言い、とりあえず、自分が食べる予定だった炊いていた飯を半分、魚を半分。皿に用意してやった。

 正直な所、この女を信じる理由もなく、言葉も何だか嘘くさい。だが、信じる理由がないとはいえ、信じない理由もなく、嘘と決める根拠もない。

 それに、女と別れてから食卓が寂しかったので、こんな美人と食卓を並べられるというのは、何というか気分が良かったのだ。

 そして、せっかくだ。泊って行きなさいと声をかける。もちろん、下心などなかった。いくら美人とはいえ、子持ちの女を手籠めにするほどの獣ではないのだ。それを聞き、ふっと笑んだ女はどこか妖しかったが……了解の返事をもらい、その日は終わった。


◇◇◇


 次の日の朝のこと。今日は仔猫がいなかった。珍しいこともあるのだな……と、ほんの少し寂しさを覚える。

 そして、家に戻ると、女を起こし、朝食を囲んだ。女の子は元気が良かったが、朝食の時は大人しく、牛乳を飲んでいた。

 朝食後、仕事へ行く間の時間に、これからどうするのかを聞いた。もし、行く当てが無いなら、しばらくいても構わないということも。

 やはり、傷が消えても、寂しさは消えないのだ。あの女の代わり……と言うと聞こえが悪いが、少しの間とは言え二人でいた部屋に、一人だと何か寂しさを感じてきた男。そんな下心を抱えつつ、女に聞く。

 女は、炊事洗濯、何でもやらせていただきます、だから、置いてください……と頭を下げてきたので、願ったりかなったりだった。夫婦というわけではないが、男女の共同生活がこの日から始まった。

 実際の所、女はよく働いた。炊事も洗濯もへたっぴだったが、男が教えるとしっかりと学び、2、3日もすれば普通にこなすようになっていた。

やはり、家で待ってくれている女がいるというのは気持ちが良い物で。男の生活や仕事にも張りが出てきた。

 今日も一仕事終えた男が、家に帰ってくる。家の扉の前で、女が七輪を使い魚を焼いていたのを、目を細めて眺め、声をかける。

 仔猫とその親猫は見かけなくなってしまったが、まあ、野良だ。どこかに気のままに行ってしまったのだろうと思い、今は新しい同居人との生活を、日常に組み込もう。そう、男は思った。


◇◇◇


 ある日の事だった。男は、女の娘……元気なのだが無口なその子に、人形を買ってあげた。可愛らしい、猫の人形。

 娘は大層気に入ったようで、齧ったり、ぎゅっと抱きしめたりと、スキンシップを取って遊ぶ。

 女も男に礼を言い、何か、礼はできないかと聞いてきた。実はその日、男は久方ぶりに酒を飲んでいた。なので、少し気が大きくなっていたのだろうか。夫婦のような事でもしてみるか。そう聞いたのだ。

 女は目を丸くし、少しおどおどとしたものの、目を伏せ、しばらく考えるしぐさ。

 これは、何か選択を間違えたかと慌てたのは男。慌て謝るが、女が伏せた顔をあげれば、その顔に妖しく笑みが浮かびはじめ、私などでよければ。そう返答を返す。

 男も目を丸くし、酒で気が大きくなっていたのだと言おうとするが……

 女に、頷かせておいて言い訳は無いだろうと、覚悟を決める。

その夜、同居人は、確かに夫婦の営みをした。

 次の朝から、二人は真っ赤な顔で朝食をとる。なんというか、お互いに初めてを捧げたかのような、初々しい朝を過ごすのであった。


◇◇◇


 またある日の事。女の娘が小鳥を捕まえていた。無口なのに元気のいい子だと思いつつも、この子は齧り癖があるので、小鳥が可愛そうだと放すよう言った。だが、なかなか分かってくれず、首を横に振る。

 男は、娘に言う。この小鳥にも、命がある。そして、痛いと思う。だから、放してやってくれと。

 娘は少ししぶしぶ、だが、男の言うことは聞きたいようで、小鳥を放してやった。良い子だと頭を撫でてやると、嬉しいのか仔猫のように、頭を掌に擦り付けてくる。

 その夜、男と女が同じ布団に入ると、娘が、その間に入り込んできた。どうやら、男と女に挟まれて寝たいようで、まるで本当の夫婦と子供みたいだなと思いつつも、結構この子は頑固だから、こうすると決めたらなかなか動かないだろうし、何より、悪い気もしないので、そのまま寝ることにした。

 次の朝の事、目覚めた男に、娘が一言……とーちゃ。そう呼んだ。

 男は目を丸くするも、なんだか、否定するのも悪いと思うし、悪い気分でもないどころか、何だかいい気分になるので、頭を撫でてやった。

 それを、女がとても嬉しそうに眺め、男と娘を一緒に抱きしめてきた。女は偶にこういう大胆なことをしてくるようだ。


◇◇◇


そんな日々が、1年ほど続く。すっかり家前で餌をやっていた仔猫の事も、記憶の隅に行ってしまった頃。

 霊媒師による、お清めが始まった。この地域では、一定の周期で霊媒師がやってきて、身を悪霊から清めてくれるのだ。

 それに行くために、女を連れて行こうとするが。何だか女は気が乗らない様子。大丈夫だと言って、何とか言い聞かせようとするが、なかなか行きたがらない。

 仕方がない。後で霊験あらたかなお札でも持ってくると言って、男は霊媒師の元へと向かう。

 順番に、霊媒師の祈祷の順番が回ってくる。すると、霊媒師はこう言った。やや、君からは猫の匂いがプンプンすると。

 そんなわけはないと男はいうが霊媒師は、一枚の札を取り出し。これを持っておけと言う。

 首を傾げつつ、札を持って家に帰る。手には、土産の焼き魚を。

 天気は、一雨来そうである。早く帰ろうと早足になり。家に着く。

 ただいま。

 お帰りなさい。

 1年の間交わし続けた挨拶。

 だが、札を見た女は、悲鳴を上げ、部屋の奥へと走っていく。どうしたのだと慌て男が向かうと。その札を近づけないでほしいと女は言う。

 流石に、何かがおかしいと思い、男は女に問う。君は、本当は何なんだいと。

 女は、しばらく顔を伏せ、黙っていた。

 そして、娘を呼ぶと。ぎゅっと抱きしめ。語りだす。


◇◇◇


 女は言う。自分は、男に餌をもらっていた猫の親子の、亡霊であると。

 男は驚くも、話を折らないよう、座り、聞き入る。

 なんでも、自分たちは1年と少し前、男に牛乳をもらった後、馬車に轢かれて死んでしまったという。

 だが、それを哀れに思った猫の神が、何か善行を積むのなら、女に人の身を与えても良いと言ったというのだ。

 女ができる善行。それを考えた時、それは、恩返しだと思ったという。

 男に、何か恩返しをする。身の回りの世話や、色んな事。それがしたいと思い、人の身を授かったという。

 男は呆然としながらも、そうかといって、お札を破く。

 君は、立派に俺の妻だ。魂が猫だとか、そんなのは関係ない。

 そう言って、男は女を抱きしめる。だが、女ははらはらと涙を流し、言った。

 正体がばれたら、もう人の身は保てない。もうすぐ、自分と娘は、亡霊として輪廻の輪に加わるだろと。

 そんな、と、男は女の顔を見る。涙が、はらはらと流れていた。

 だんだんと、抱きしめている感覚がなくなっていく。

 行くな、行くな。そう叫ぶも、女はゆっくりと消えていく。


 幸せでした。あなた。


 それが、女の口から出すことのできた、最後の音だった。


◇◇◇

ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん……


 屋根から水滴が落ちてくる。昨晩の雨の残り。それが水たまりに落ちて、ほんの微かな水音が。

 空には昨晩の雨雲の残りがうっすらと。だが、雨を再び降らせるには至っていない。

 がらり、と古い扉を開ける男が一人。その男、年は27、8ほどか。目もとにはクマがあり、ほんの少し髭を手入れしていない風だが、それも致し方なし。昨晩は、自棄になって酒をあおっていたのだから。外の水瓶に自分の顔を映す。酷い顔である。自分でもそう思った。

 結局のところ、また失ったのだ。自分は。そう思うと、昨日枯れるほどに流した涙が出てきそうになる。

 せめて、墓でも立ててやろう。そう思い、寺への道を行こうとした所、足元に、違和感を覚える。

 ふと、視線を下ろせば。

 そこには、弱弱しい仔猫が、ズボンのすそを噛んで引っ張っていた…………


 


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