四足リップ
リップクリームは校則違反かどうか、判定が微妙なアイテムだ。化粧は禁止されているけど、唇が割れてしまう子が医療品として使う分には咎められない。だから淡いピンク色のリップスティックは、地味で真面目な私の唯一のお化粧で、武器だった。
ノーメイクが許されるのは高校生までなんだから怠けときなよ、と大学生の姉は言う。姉は短い髪といかつい骨格のせいで、制服姿が女装にしか見えず、私服だとしょっちゅう男の子に間違えられていた。
そんな姉は大学生になって化粧を覚え、見違えるように綺麗になった。彫りの深さを強調するエキゾチックなメイク、大ぶりのアクセサリーに原色のネイル。だぼついたニットや洗いざらしのシャツや、ともすればだらしなく見えそうな洋服を張りのある骨格で着こなす姿は、モデルみたいにカッコいい。
姉のファッションは男性受けは悪そうだけど、独り立ちして生きて行けるという自信に溢れている。高校生の頃まではあんな風だった姉だから、男性に好かれなきゃとか、助けて貰おうとか、そういう発想がそもそも無いのかも知れない。
自分だけ綺麗になって、あんたは化粧しなくていいの、なんて言うのはズルい。洗面台の隅にある三段ラックを眺め、私は溜息をついた。
私の棚に置いてあるものと言えば、日焼け止めとニキビ予防の基礎化粧品、寝癖直しのミストくらいだ。母の棚には年齢化粧品と、ここ一番の時にしか使わない高級なメイク道具が少しだけ。一番上の姉の段にはプロのメイクアップアーティストが使うような金属製のボックスと、毎日使うお気に入りのコスメが細々と並んでいた。
このラックの有り様が、家族間でのおしゃれ偏差値の格差を雄弁に物語っている。
ぽきん。
私の胸の中で、音が鳴る。姉は絶対に使いそうもない、淡いピンク色のリップ。私の武器が折れる音。
少し前、私は本当にリップスティックを折ってしまっていた。気に入っていた上に、買い直せない限定品だったので、結構本気で落ち込んだ。
ラックへと手を伸ばす。私の棚ではなく、一番上の棚へ。華やかなメイクボックスに手をかざすと、やすりで整えただけの自分の爪は、ひどく貧相に見えた。
いいじゃない。お姉ちゃんは、もう綺麗なんだから。沢山持ってるんだから。
お気に入りのコスメが一つくらい、そう、妹が自分のものを取り出した拍子に、偶然落ちて割れてしまったとしても。
姉の顔にまで傷が付くわけじゃないんだから。
そんなことで、「妹の方は女の子らしくて可愛いのに」と言われていたあの頃に戻るわけじゃ、ないんだから。
そんなことで、「お姉ちゃんと比べて、妹の方は地味なまま」なんて親戚の評価が変わるわけでもないんだから。
胸の中で折れたリップが、じわりと溶けて広がっていく。グロテスクな光沢を放つそれが、私の心を覆ってゆく。
どきん。どきん。
指先が熱く脈打つ。心臓がそこへ移動してしまったみたいだ。姉が特に気に入っているという、オリーブカラーのアイシャドウに触れた。
大丈夫、何も変わらない。
大丈夫、あの姉なら騒ぎ立てたりしない。
大丈夫、私が傷つけられる心配はない。
大丈夫、大丈夫……だいじょうぶ?
私は自問した。リップを溶かしていた嫉妬の炎が、少し弱まった。
そう、リップクリームや口紅は熱で溶けるのだ。塗る前に手で温めておけば伸びが良くなるし、折れたスティックはドライヤー等で熱してくっつけることも出来る。
私にそれを教えてくれたのは、姉だった。折れたリップの代わりを借りに行った私に、姉は修理の方法を教え、「まずは見てな」と手ずから直してくれた。
私に大事な人形を壊されても、自分が壊したのだと言い張った姉。
三つ入りのおやつを貰った時、一つだけ食べて外に遊びに行ってしまった姉。
あんたは女の子らしく生まれていいなぁ、とぼやきながら私の髪を編んでくれた姉。
そんな姉に、私は今、何をしようとしていたんだろう。
指先が凍え付いた。胸の中も、頭の奥も、ひどく寒い。
鏡の中で自己嫌悪に慄く私の首筋を、白い蜥蜴のようなものが滑り降りた。いつの間にそんなものが? 私は悲鳴を上げて身をよじる。
カットソーの裾から転げ落ちたそれを見て、私は再び悲鳴を上げた。
リップスティックだ。一般的なスティックの容器に生えているのは、溶け出したクリームで出来ているのだろう、淡いピンク色の手足と尻尾。それはいかにも化粧品らしく、鱗の一枚一枚をつやつやと健康的にきらめかせながら、洗面台の下の薄暗がりへと消えていった。