テンプレ幽霊らしきもの
僕の職場は、ちょっとおかしな場所にある。
建物自体は便利な立地のオフィスビルだ。ただし、三階の僕の職場まではエレベーターが使えない。同じフロアに大手旅行代理店のカウンターがあるのが原因で、そちらのお客さんが迷い込まないよう、エレベーターホールへと繋がる扉が封鎖されてしまったのである。
うちの事務所に来るには、エレベーターホール横のトイレの前を抜け、いかにも舞台裏という雰囲気の通路を経て、ゴミ捨て場の前の非常階段を上るしかない。荷物配達の業者の人は、初めてだと何の疑いもなくエレベーターに乗ってしまうので、「三階にいるんですが、お宅の事務所にはどこから入ればいいんですか?」なんて電話が掛かってくることもしばしばだ。どこからも入れないので、まずは一階に戻って下さい。
場所が辺鄙な上に、携帯電話の電波も入りにくい。メールやネットは辛うじて出来るけど、通話は使い物にならない。仕事上のやり取りは昔ながらの固定電話で凌いでいる。
事務所の人とも、この場所はないよなぁ、と軽口を叩くことがよくある。そういえば一度、あの階段に凶器を持った凶悪犯がいたら、もう俺たち外に出られなくなるよな、なんて話をしたことがあった。きっと防災上もよろしくはないのだろう。
大体、三階の扉に「関係者以外立入禁止」とでも書いておけば、封鎖までする必要はないじゃないか。多少見苦しいかも知れないけれど、そうだそうしよう、是非そうして欲しい、今すぐ即刻そうすべきだ。
現実逃避に職場紹介など考えていた僕は、その職場から出るための唯一の経路である階段を見下ろした。
ノースリーブの白いワンピースを着た人影が立っている。大人の女性のように見えるけど、全体的に細くて頼りない体型からすると、大人と子供の境目くらいの年齢かも知れない。全身がうっすらと透けていて、特に膝丈のワンピースの裾から下は輪郭も霞んでいる。しかも、黒くて長い髪で顔を隠すようにしてシクシク泣いている。
これぞTHE・幽霊、だった。
僕は回れ右をして、一度は施錠した事務所に舞い戻った。音を立てないよう細心の注意を払ってドアを閉じる。女の子が立っているのが音の響きやすい階段であるせいか、ドア越しであっても耳を澄ませば啜り泣く声が聞こえてくる。
どうしよう、どうするよ? 僕は周囲を見回した。残業の多い仕事なので、最悪の事態を想定して、物置には寝袋や毛布が保管されている。冷蔵庫とちょっとした食料もある。一晩夜明かしをするくらいはどうにかなりそうな気がするが、問題はトイレに行けないことと、あんなものを見た直後に一人で眠る気にはなれないということだ。
人心地をつけようと棚からコーヒーを取り出し、カフェインには利尿作用もあることを思い出して緑茶に変えた。電気ポットの横には、事務所の女の子たちが持ち込んだフレーバーティーやインスタント飲料が豊富に取り揃えられている。
どうする、どうする? 仕事終わりの脳に力いっぱい鞭を打つ。
あの女の子が何者なのか、その疑問は脇に退けておいた。彼女が何者であろうと、僕が無事帰宅出来ればそれでいい。
怖い話が得意でない僕は、乏しい怪談知識を総動員して、あの女の子の傍を通ろうとした場合の反応をシミュレートしてみる。
パターン1.無反応
パターン2.ついてくる
パターン3.襲い掛かってくる
最初のであればありがたいことこの上ない。
追って来られた場合、事務所は出られたとしても、今夜は家に帰れないと思った方が良さそうだ。一人暮らしの部屋に幽霊の同居人が出来るなんて冗談じゃないからな。
最後のは最悪の展開。ただし、観る人を怖がらせることが目的のホラー作品ならともかく、そこまでアグレッシブな幽霊って現実にいるの?という気はしなくもない。
いや、まず幽霊って現実にいるの?と少し前の僕なら言ったと思う。でも、今も泣き声がしくしく聞こえて来るしなぁ。
電話を使って人を呼ぶことも考えたが、この場合、僕より先に呼びつけられた相手が幽霊の被害に遭う。この状況に人を巻き込んでしまって良いものかどうか、少し気が引けた。
そういえば、食べ物を摂ると悪いものが逃げて行く、とお婆ちゃんが言っていた。食べるという字は人が良くなると書く。それを思い出して、菓子鉢に残っていた海老せんを食べる。プレスした干し海老が丸ごと貼り付けられたそれは、いかにも生命力を増してくれそうに思えた。あと、緑茶を飲みながら海老せんを食べる、という日常的な行動のお陰で、心はいくらか落ち着いた。
よし、行ける。
僕は再び荷物を持って、事務所の扉に手を掛けた。
幸いにも、ここは地方都市の中心地だ。東京や大阪のような大都会とは違い、都市機能の全てが限られた土地に密集しているため、オフィス街からほど近い場所に夜明かし出来る飲食店街がある。表通りは深夜でもそれなりに車通りがあり、二十四時間営業のコンビニが軒を連ねている。あの階段を抜けることさえ出来れば、その先は幽霊が存在出来るような環境じゃないのだ。
大丈夫だ、悪くても少し付いて来られるだけ。すっと横を通り過ぎて、その辺の飲み屋で朝を待てばいい。
自分に言い聞かせて、覚悟を押し固めるように事務所の扉を閉じる。あえて施錠はしなかった辺りが、我ながら情けない。
階段に戻ると、やはり幽霊と思しき女の子はそこに居た。足が透けているのも、顔を覆って泣いているのも同じだ。
意を決して階段を下りてゆく。変に構うとついてくる、と何かで聞いたことがあったので、極力女の子の方は見ずに、自分が降りてゆく先だけを見つめる。
それでも彼女が僕の気配に気付いて顔を上げた時には、動揺せずにはいられなかった。視界の中心ではないとはいえ、彼女の顔はしっかりと僕の目に映った。自制心によるものか、恐怖のためか、声は出なかったのが不幸中の幸いだ。
僕は心の中でだけ叫んだ。
女の子じゃなくて、若作りのおばあちゃんかよ!