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後ろにいるの

 見るなのタブー、というものがある。古今東西、多くの物語に共通する展開のことで、例えば日本でよく知られているのは「鶴の恩返し」だ。「見てはいけない」と強く言われていたにも関わらず、翁は鶴の機織り部屋を覗いてしまう。

 そういう話が世界中に存在するということは、つまり人は「見てはいけない」と言われたものをつい見てしまう生き物であるらしい。

 しかし俺は、自分自身で決めた「見てはいけない」を徹底していた。これを決めたのは、本当に小さかった子供の頃だ。

 一人で公園で遊んでいた俺が、気配を感じて振り向くと、そこに巨大な心臓が浮かんでいた。輪郭は子供が描いたようなハート型で、新鮮な肉のそれと同じぬらぬらとした光沢があり、表面に盛り上がった青黒い血管は規則正しく脈動していた。取って付けたような目が一対、無感情に俺のことを見下ろしていたのを覚えている。

 そいつは特に危害を加えるでもなく、ただ浮かんでいただけだったのだが、俺が小便をちびって泣きながら逃げ出すには十分な怪異だった。

 以来、俺は背後に不穏な気配を感じても振り向かないことに決めている。見たところでどうにも出来ない以上、あえて見て怖い思いをするのは損だろう。

 従って、その日も俺は振り返らなかった。

 最初に変だな、と思ったのは、駅の改札だ。自動改札を抜けたところで駅員に呼び止められたのだが、すぐに「見間違いでした」と解放された。

 その次は、駅構内の売店。店員のおばさんは会計の間、ずっと俺の後ろを気にしていた。混みあっているわけでもないのに、何かあるのかと尋ねると、「あると言うか、いると言うか」と歯切れの悪い返事があった。

 久しぶりに会った友人は、俺に向かって手を振った後、ぎょっとした様子で身を竦ませた。聞いてみると、彼は散々言い渋った末、「お前の後ろに血まみれの女の子がいる」と教えてくれた。見た目は十五、六歳くらいで、黒いセーラー服を着ているという。

 血まみれということは、多分生身の人ではない。自分でも薄々感じていた気配の正体がはっきりして、俺は友人の懸念とは裏腹に安心した。

 その日は一人で遊ぶことに決めた。せっかく予定を合わせて待ち合わせたのだ、その友人と一緒に遊びたいとは思ったのだが、何しろ彼には「見えて」しまっているのである。無視して楽しもうという方が酷だろう。

 どうやら俺の後ろの女は大勢の人に見えているらしく、人ごみを歩いてもぶつかりそうになることはなかった。みんながスッと道を譲ってくれるのは、なかなか気分がいいものだ。

 そんな状態の割には、洋服店で鏡を覗いても俺自身以外の何が映るわけでもない。鏡には映らないのか、俺の目にだけ映らないのか。

 ショッピングモールのトイレに入ると、俺の左右隣の小便器を使っていた男たちはそそくさとチャックを引き上げた。女の子のくせに男子トイレにまでついてくるとは律儀だな、と少し感心する。それから思い立って、ピンク映画を観て、アダルト系グッズの店に入り、スーパー銭湯に行った。

 夕方にケータイを見ると、未読メールが何通も溜まっていた。どうやら昨日の夕方、友人と今日の予定の打合せをしたきり、俺は一度もケータイをチェックしなかったらしい。

 己がケータイ依存症から程遠い位置にいることを自覚しつつ、慌てて内容を確認すると、今日会った友人からの安否確認が一通。それ以外の差出人は、全て見知らぬアドレスだった。

『こんばんは。私、今あなたの家に向かっているの』

『こんばんは。私、今あなたの家の前にいるの』

『こんばんは。私、今あなたの後ろにいるの』

『おはよう。私、今あなたの後ろにいるの』

『ねぇ、私、今あなたの後ろにいるの』

『私、今あなたの後ろにいるの』

『こっちを見て』

『私、あなたの後ろを歩いているわ』

『私、外であなたを待つわ』

『私、まだあなたの後ろにいるの』

『せめてメールに気付いて』

『なんで振り向いてくれないの』

『私、今もあなたの後ろにいるのに』

『私、帰るね』

 女の子がしょんぼりと元気をなくしてゆく過程が目に浮かぶようだ。いや、血まみれの幽霊に元気があってもおかしい気もするが。

 どこで心折れたんだろうなぁ。男子トイレまでは頑張ってたっぽいのに。

 少し気の毒に思いつつ、俺はそのアドレスを迷惑メールとして報告し、受信拒否リストに突っ込んだ。もしかしたらまだいるかも知れないと思ったので、後ろは振り返らなかった。

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