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見知らぬ朝

 キジバトが鳴いている。

 薄い霧の漂う雨上がりの朝。玉のような雫がカイヅカイブキの葉を飾っている。朝焼けが引いたばかりの空は、透けそうに薄い青磁の色だ。

 きっと使うこともあるまい、そう思いつつも持ってきた傘を手に、私はいつもの通勤路を歩いていた。

 ローンを組んでどうにか買ったマイホームは、活気があるとは言い難い最寄り駅からも遠い。今までと同じ時間に出勤するためだけに、一時間早く起きなければならないことに、当初はげんなりしたものだった。

 だが、慣れてしまえばどうということはない。早朝の街路を歩くのは心地よく、近くの山から鳥や虫の声が聞こえるのも楽しかった。自然と目に入る草木や鳥の名が知りたくなって、ハンディタイプの図鑑を買った。

 少し自転車に乗れば、ザリガニが吊れる水路があり、夏には蛍も見られるという。もうじき六歳になる息子が、目をきらきらさせながら虫かごを掲げてくる度、家を買って良かったと思う。病気がちだった妻もすっかり健康的になり、休日にも早起きして凝った菓子を作ったりするようになった。便利さだけが取り柄の、線路脇のアパートに住んでいた頃には、そんな光景はあり得なかった。

 今日も頑張ろう。ローンはたっぷり残っているのだから。

 気持ちも新たに曲がり角を折れる。と、ブロック塀の上の奇妙な獣が目に入った。

 神社の狛犬のような、威厳のある座り方をしている。ただし、大きさと全体的な印象で言うなら、それは猫だった。丸く大きい瞳は猫そのもの。胴体の倍ほどもある房状の尻尾も、そういう品種なのだろう、と思えなくもない。ただし猫にしては鼻が鋭く突き出しており、長く重たげな耳は垂れて塀にまで届いている。

 なんだろう、あれは。

 私は思わず足を止めた。鞄の中の図鑑を取り出すまでもなく、こんな姿の生き物が載っていないことくらいは分かる。

 獣の方も、私のことを見つめていた。お前はどうしてこんなところにいるんだ、とでも言いたげな表情。

 私たちは不思議そうな表情のまま、互いに見つめ合った。

 ややあって、獣はすっくと立ち上がった。空を仰ぐ。

 ぴいいいぃい──ぴいぃい──ぴぃい。

 笛のように澄んだ声が、遠く山々まで響き渡る。

 と、思うや否や、空の端がほつれた。

 目の錯覚かと思ったが、違う。山の稜線に沿って、空がばらばらと分解され、白い欠片に変わっていた。欠片は渡り鳥のように連なって、どうやら私たちのいる方へと飛んで来ているようだ。

 空だけではなかった。山も、そこに生える木々も、それぞれがそれぞれの色の粒子となって崩れ始めた。住処を追われた鳥や虫たちがそこここで飛び立つ。

 崩壊は恐ろしい速度で進む。みるみる山が消え、山際の家々が呑まれ、電信柱が遠いものから順番に消えていく。風景は空に舞い上がった欠片の群れに吸い上げられ、見える範囲がどんどん狭まってゆく。

 無数の点が集まって織り成す規則的なうねり。私は鰯の魚群や、大量発生した蝗を連想した。その向こう側にあったはずの風景は、拭い取られたように消え去って、暗い虚空となっていた。

 呆気に取られて崩れてゆく世界を見つめていた私の、すぐ傍ら獣が立った。そこも既に崩壊が始まっており、濡れたアスファルトが艶やかな漆黒の粒となって舞い上がっている。

 獣は口を動かさず、声も出さなかったが、確かに私にこう言った。

『すまない。間違えたのだ』

 何を、と問う暇もなかった。獣が駆け去ってゆく。白い空が、山が、木々が、霧が、鳥が、虫たちが、あらゆるものの欠片が一陣の風となって獣の後を追う。

 私の足を支えていた道路も完全に崩壊し、私は虚空にたたらを踏んだ。うわぁ、と今更のように悲鳴を上げる。

 何とか転ぶことなく姿勢を立て直した時には、奇妙な獣と朝の風景の群れは消え去っていた。

 踏切の警報機が鳴っていた。

 街灯の光量不足を補うように、点滅灯が周囲を赤く照らす。轟音と生暖かい風を伴って、八両編成の普通電車が目の前を通り過ぎていった。

 踏切が上がって歩き出す間際、隣に立っていた女性がちらりとこちらを見た。怪訝そうな表情は、彼女が差すミントグリーンの傘ですぐに隠れた。

 それで俺は、しとしとと無視し難い強さの雨が降っていることに気がついた。

 安物のスーツはぐっしょりと濡れ、腕時計を確かめれば秒針は止まっている。ずぶ濡れの左手に綺麗に畳んだままの雨傘なんぞ持っていては、道行く人に訝しげな顔をされるのも無理はない。

 手遅れを承知で傘を広げる。どこも破れたり、壊れたりはしていないようだ。俺は水が溜まってしまった革靴をだぶつかせながら歩き出した。

 線路を越えて最初の路地を曲がるとすぐ、時代遅れのおんぼろアパートが見える。線路のすぐ傍にあり、薄い壁からはあらゆる音が筒抜けで、夏は暑く冬は寒く、空気はいつも淀んでいる、駅から徒歩三分の立地だけが取り柄の我が家。

 その三分の距離を歩いたくらいで、ここまでずぶ濡れになるものだろうか。俺は内心首を傾げながら家の鍵を取り出した。電車の中で受信したメールが確かなら、最近同棲を始めたばかりの恋人が、夕飯を作って待ってくれているはずだった。体は弱いがよく笑う彼女は、こんな俺の姿を見てどんな反応をするのだろう。

 彼女にプロポーズして、田舎の方に家なんか買うのも悪くないな。

 どういうわけか、ふと、そんなことを考えた。

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