バスが来る
じいちゃんの自転車はデカい。そして古い。手入れだけは行き届いていてピカピカで、そのうち博物館の人が文化財として引き取りに来るんじゃないかと思えるような自転車を、僕は小学四年生なりの懸命さで立ち漕ぎしていた。サドルに座っても地面に足が届かないから、スピードの出る立ち漕ぎの方が安全なのだ。
田舎のバスが次々廃線になっている、というニュースはテレビで見たことがあった。けど、じいちゃんの家から町の中心部に向かうバスもその中に含まれているとは思ってなかった。
知ってさえいれば、自分の家から自転車を持って来たのに。
青く晴れ渡った空とは裏腹に、水筒から飲んだ麦茶が瞬く間にゲリラ豪雨となって、背中から腹へと降り注ぐ。帽子の中はサウナみたいに熱い。日陰に入ろうにも、左右にはなだらかな草地や畑しかなく、アスファルトの上では陽炎が狂ったように踊っていた。
辛い道のりだったけど、距離で言えば残り四分の一くらいだ。向こうに着いたら、まず冷房の効いたお店に入って冷たいジュースを買おう。お目当ての映画はその次だ。じいちゃんが今日のお小遣いを多めにくれたのは、孫に甘いからではなく、この有り様を見越してのことに違いなかった。
『バスがあれば一緒に行けたんだがなぁ』
じいちゃんは何も悪くないのに、ものすごくすまなさそうな顔で自転車を貸してくれた。
いいよ、じいちゃん。今日公開の映画を今日の内に見たいのは、僕のワガママなんだから。それに、悪いのは公共サービスの整備をオコたるぎょーせーだ、って父さんが言ってた。誰だって、映画くらいは気が向いた時に見られなきゃおかしいんだって。
ホントその通りだよな、と顎から汗を滴らせて自転車を漕いでいた僕は、後ろから近付いてくる自動車の音に気付いて道路端に寄った。田舎の道路を通る車は数が少ないだけで、ゼロっていうわけじゃない。
冷房を掛けて座ってるだけで目的地に着くなんて恨めしい、違った、羨ましい。体格に合わない自転車で炎天下を移動している小学生を哀れんで、乗せてくれたりしないだろうか。
そんなことを思って振り向いた僕は、目を疑った。
廃線になったはずの、バスが来る。
じいちゃん、もうボケが始まってたのか。車両は見たことのない形だけれど、行先表示は間違いなく僕の目的地でもある駅前だ。
僕は、思わず自転車を止めてしまった。
颯爽とその横を走り抜けて行くだろうと思われたバスも、減速して、僕のすぐ傍で停車した。ここはバス停でも信号でもないんだけど……もしかして僕のせい? 体調が悪いとでも思われたんだろうか? え、暑くてバテてるだけなんだけど、こういう場合ってどうすればいいの……?
焦っている僕の前で、バスの扉が開いた。驚いたことに自動扉ではなくて、制服姿の女の人が手で開けていた。
どうしよう、と口をぱくぱくさせる僕。車内は冷房が効いているのだろう、冷気が草履履きの足元まで流れてくる。今そこに入れたら天国だろうなとは思うけど、目的地まではかなり近付いて来ているし、そんなちょびっとの距離じゃバス代が勿体ないし、じいちゃんの自転車をここに乗り捨てていくわけにも行かないし……
何からどう言えばいいのかとまごつく僕に、添乗員の女の人が「乗りますか?」と尋ねた。
僕は咄嗟に、首を横に振った。
「そうですか? 自転車も乗せられますよ?」
「やめときなよ、ねェちゃん。坊主がいいって言うならいいじゃねぇか」
扉の傍の席に座っていた、いかつい顔立ちのお兄さんが、二カッと笑って割り込んでくる。もしかしたら僕を安心させようと笑ってくれたのかも知れないけど、正直逆効果だった。獰猛な肉食動物みたいな笑い方に、背筋がぞくっとした。
お兄さんは僕と自転車を見比べると、「へぇ」と意外そうな声を上げる。
「おめぇ、和彦の親戚かい」
「じいちゃんを知ってるんですか?」
「あぁ。そうか、坊主、和彦の孫かァ」
和彦というのはじいちゃんの名前だ。自転車に貼り付けてあるラベルは茶色に変色しているけど、持ち主の名前はそれ以上に黒々とした墨で書かれているので、お兄さんはそれを読み取ったらしかった。「そうか、そうか」と嬉しそうに頷いている。
「ちっと青白いが、確かにあいつのガキの頃にそっくりだ。これァ尚更、乗せるわけには行かねぇな。運転手さん、さっさと出してくれや」
どう見ても三十歳には届いてなさそうなこのお兄さんが、どうしてじいちゃんの子供の頃を知っているんだろう。
それを尋ねることも出来ないまま、バスは僕の前から走り去っていった。
じいちゃんの家に帰った僕は、父さんが設置したきり埃を被っていたパソコンを使って、バス会社のホームページを調べた。表記はやっぱり「廃線」になっていた。
そのホームページの「我が社の歩み」というコーナーで、僕は昼間に見たあのバスの姿を見つけた。説明書きによると、何十年も前の、創業当時の車両らしい。
あのコワモテのお兄さんが誰なのか、僕はじいちゃんに聞けなかった。とにかく、炎天下での自転車の長旅はもうやめようと思った。




