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実行しますか?

 大人の余裕のある、十歳年上の男の人。十八歳の私の目には、職場で出会った彼がとても素敵に見えた。彼が私みたいな小娘を相手にしてくれるなんて奇跡としか思えなかったし、十九歳のお祝いと同時にプロポーズされた時は感激のあまり泣いてしまった。彼と一緒にいれば、一生幸せでいられると思っていた。

 間違ってはいなかったと思う。二人の子を持ち、庭付き一戸建ての持ち家に住み、自分の車と犬と趣味の時間を与えられた二十九歳の主婦。晩婚化が進み生涯未婚率が上がっても、結婚信仰は根強いままのこの国で、私は間違いなく勝ち組である。

 そのはずなのに、ひどく惨めな気分になるのは何故だろう。

 私は長女が食べ残したクロックムッシュを、ステンレスのゴミ箱に放り込んだ。彼女が小学校に上がってしまうと、朝の支度は格段に楽になった。慌しいことに変わりはないが、子供達は二人とも自分で服を着替え、朝食を取り、友達と連れ立って登校していく。やんちゃだった長男も、妹の前では兄として見栄を張ることを覚え始め、近頃は手が掛からなくなった。

 子育てに余裕が出来ると共に、私はブログを綴るようになった。今の私の趣味というのは、ブログの執筆と、その管理人同士のオフ会だ。中でも読書に関する記事は、本来接点がないはずの人々との交流を生み出した。

 それがいけなかったのかな。私は食卓の隅のノートパソコンを見る。家の中で唯一、パスワードで保護されたその箱の内側にだけ、母親でも主婦でもない私が存在している。

 ブログを通じて知り合った大学生の女の子に、オフの席で結婚生活の愚痴を漏らしたことがあった。大した愚痴ではなかったが、夫に悪いと思い、私は話をこう締めくくった。

「でもまぁ、こうして趣味を持つのも許してもらってるから、文句は言えないんだけどね」

 相槌を打ちながら話を聞いていた彼女は、少し考える風をして、不思議そうに尋ねた。

「趣味を持ったり、友達と会うのって、『許してもらって』することなんですか?」

 この世の悪意に触れることなく育ったような、知的で優しい女の子。醜い感情に乏しく、他の人間も同様であると考えているのだろう彼女は、時々ひどく無神経な言い回しをする。

 彼女は結局、「一人暮らしじゃないんだし、自由気ままってわけには行きませんよね」と自己完結して、ミルクティーを啜った。

 悪意も他意もなかったはずの彼女の問いは、今も私の胸に刺さったままだ。

 結婚を決めた当時の夫の年齢に私自身が追い付き、様々な人と話すようになって、ようやく見えてきたものがある。

 十歳も年下の未成年を臆面もなく口説く男。結婚するや否や、将来設計の相談もなしに相手を妊娠させた男。ブログの読者と会うの、と胸を弾ませて報告した妻に、「君の文章を読む人なんかいたの?」と言い放った男。それが私の夫。

 どこか私を軽んじるような言動は、私が年下で未熟だから仕方がないのだと、以前は思っていた。

 現実には、そうではない。

 常に相手を見下したがる夫は、おそらく同年代の女性には相手にされなかった。だから恋愛観の未熟な子供に目を付けて、己の人間性を見限られる前に既成事実を作り、飼い殺しにした。私の二十代という時間は、そうして消費された。

 「勝ち組主婦」という肩書の対価としては、大き過ぎる代償だったと思う。

 食器洗い機のセットを済ませ、パソコンを起動する。即座に呼び出したのは、ブログの下書き画面だ。

『自由になりたい』

 指は迷わず、その言葉を紡ぎ出した。

『夫の支配から逃れたい。今の安定をなくすのは惜しいけど。私の十年間、それも女として一番輝くはずの二十代という時間を、あんな男に捧げてしまったのは失敗だった。殺したいと思うこともある。出来れば事故で死んで欲しいな、保険金も入るし。

 子育ても、もう疲れた。子供を愛していないわけじゃないけど、可愛いとは今も思うけど、でも、この子たちさえ居なければもう少しは自由なのに。──』

 誰に見せるわけでもない、思うままを綴った非公開エントリ。私のブログにはそういう記事が沢山ある。鍵のついた日記帳みたいなものだ。

 ひとしきり文章を書いた私は、「非公開」のチェックボックスがオンになっていることを再三確認して、「投稿」のボタンをクリックした。確認のアラートが表示される。

『実行しますか?』

 即座に「はい」をクリック。

 だが、何かが引っ掛かった。更新されるブログの管理画面を見ている内に、いつものアラートの文面が「投稿しますか?」であったことを思い出す。

 システムメッセージが変更されたのだろうか。自分でも後ろめたいことを書いたと自覚がある手前、少し嫌な気分になった。洗濯の前に紅茶でも淹れよう。

 お湯が沸いたことを知らせるケトルの笛と共に、家の電話がけたたましく鳴った。


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