人には言えない
子供の頃から気になっている言葉がある。不思議な響きで、意味は分からない。誰かから聞いたのか、何かで読んだのかも思い出せない。音だけが私の頭の中で、黒光りしながら存在感を放っている。
ただし、私は記憶にある限り、その言葉を書いたり、口にしたことがなかった。何故かは分からないが、してはいけないと分かるのだ。他の人がその言葉を使っているところにも居合わせたためしがない。辞書を引いても載っていない。
もしかしたら、こんな言葉は存在しないのでは? そういう風に考えたことも何度かある。本人にしか分からない、あるいは友達や兄弟との間でしか通じない造語を使うことは、小さい子供にはよくある話らしいから。私が自分で作った言葉の意味を忘れてしまって、音だけが記憶に残っているのかも知れなかった。
もしそうだとしたら、口に出来ないまま、意味の分からないまま、気にし続けているなんて馬鹿みたいだ。
そう思って、その言葉の意味を人に尋ねようとしたこともある。
「なぁなぁ」
私は隣の席の、さほど親しくもないクラスメイトに声を掛けた。
「次の授業って何やっけ?」
「地理」
「違う、せやなくて」
「え?」
彼女は怪訝そうに私に聞き返す。私も怪訝に思いながら言葉を探す。
「えっと、今日って何日やっけ……?」
「そんな間違いするー?」
彼女は派手なグループの女子に特有の、軽薄だが朗らかな声で笑い、どっちも教室の前の掲示板に書いてあるやん、と教えてくれた。
いつも私の頭の隅に引っ掛かっている、あの短い言葉。それを読み上げるだけなのに。読み上げて、「これってどういう意味?」と尋ねるだけのことなのに。
なのに、舌がもつれて声が出ない。人前に立った時みたいに、頭が真っ白になる。粘っこい汗が背中を伝う。どうしても、どうしても、尋ねることが出来ない。
似たようなことが何度かあって、私はその言葉の意味を知ることを諦めた。
『 』
声には出せない。文字にも書けない。だから誰にも聞けない。
使うべき時が来るまでは、きっと使ってはいけないのだ。




