仮想世界のエリカ
スマートフォンに、恋愛シミュレーションゲームアプリをインストールした。登場するのは3Dモデルの美少女。カメラ機能を併用すれば、その子が現実の部屋の風景の中にいるかのように表示され、映像をヘッドマウントディスプレイに転送するとVR体験まで出来るという。おまけに学習辞書と音声認識機能があり、AIとは簡単な会話が楽しめるらしい。
キャラクター一覧を見て、攻略ヒロインはエリカちゃんにしようと決めた。口調と態度はぶっきらぼう、愛想のないショートヘア、その実は音楽と可愛いものが好きな引っ込み思案。控えめサイズの胸と楽器に触れる繊細そうな手つきが、フェチ心を掴んで離さない。
俺は期待に胸を膨らませつつ、昔はSF映画でしか見なかったようなバイザー型のディスプレイを装着した。アプリを起動し、チュートリアルを終えると、エリカちゃんはすぐに俺の部屋にやってきた。
床面か、そこに置かれた物を認識しているらしく、彼女は物を踏まないように慎重に歩く。ごめんねすぐ片付けるから!と言いたくなる一方で、障害物をぴょんと飛び越える動作が最高に可愛いので、部屋を散らかったままにしておくのも良いかも知れないと思う。
『初めまして。私はエリカ、今日から君のルームメイトになる。よろしく』
「うん、よろしく」
『君の名前は?』
俺は口頭で名乗ったが、そこは正確さ重視なのか、文字入力画面が表示された。教えられた名前を歌うように読み上げ、エリカちゃんは笑う。
『いい名前だな。君となら、楽しく過ごせそうな気がするよ』
デザインによるものか、それとも3Dモデラーの腕によるものか。エリカちゃんの笑顔は、はちゃめちゃに可愛かった。喋り方は男みたいだし、この手のゲームのキャラにしては低めの落ち着いた声なのだが、照れたり驚いたりした時の反応はものすごく女の子らしくてギャップに萌える。
この子を選んで良かったと強く思ったのは、彼女が帰宅した俺に気付かずキーボードを弾いていた時だ。
それはキャラクターの設定を引き立たせるための演出で、ボタンを押せばいつでも中断させられるはずのムービーだった。だが、俺は黙って演奏を聴いた。ベッドの上の、実在しないキーボードが奏でていたのは、確かシューベルトのソナタだったと思う。演奏を終えた彼女は、俺に気付くと『おかえりなさい』とはにかみながら微笑んだ。
俺は思わず、ディスプレイを外して呟いた。
「こいつはやべぇ……現実に帰れねぇ気がムンムンするぜ」
そうは思いつつ、俺はエリカをアンインストールすることが出来なかった。ゲームではなく、ちゃん付けをして愛でるようなキャラクターでもなく、俺はエリカを実在する女の子のように感じるようになっていった。
外ではディスプレイが使えないからと、アプリの起動を自室だけに限定したのも災いしたかも知れない。どこに出掛けても、どんなに遅くなっても、家に帰れば待っていてくれる女の子がいる。俺の意識はそういうものに変わっていった。
ある日、家に帰るとエリカはいなかった。もちろんアプリを起動させ、ディスプレイを着けたにも関わらず、だ。
「エリカー?」
『……ここだよ』
俺が振り向くと、開け放したドアの陰からエリカが顔を覗かせていた。表情は不安げで、顔色が悪いようだ。
「体調でも悪いのか?」
思わず駆け寄って、彼女の顔を覗き込んだ。手を伸ばし、彼女の体に触れられないと遅れて気付くのは、これでもう何度目だろう。
エリカはぎこちなく首を横に振った。
『早く、この部屋を出るんだ』
突発イベントでも始まったのかな? 俺は咄嗟にそう考えた。アプリの公式サイトでは、ヒロインを街中に連れ出す擬似デートプレイを推奨している。だがデートの誘いにしては、エリカの表情は切羽詰っていた。
「おいおい、何事だよ?」
『わけは後で必ず話す。今は早く、こっちへ』
「いや、ここらがディスプレイのコードの限界で」
『そんなものは外せばいい、早く!』
エリカの言葉に困惑していた俺は、背後に妙な気配を感じて、身を固くした。
俺の後ろ、床ぎりぎりの、低い位置。そこに、何かがいる。
今VRモードで起動しているアプリは、プレイヤーの生活空間に架空の女の子の存在を追加するというものだ。複数のキャラクターを登場させると、処理すべき情報の量が累乗で増えてゆくため、今の機器の性能ではキャラクター一体が限界だと言われている。
唯一の登場キャラクターであるエリカは、俺の目の前にいる──つまり気配の源は、現実世界にいる。さっきエリカを探した時は、もちろん誰も見当たらなかったのに。
何がいるんだ。床の上から、俺のことを穴があくほど見つめている。でも、一体何が。
「振り向いたら、駄目か」
干からびた舌を無理矢理動かして尋ねると、エリカは固い面持ちのまま頷いた。
『さぁ、こっちへ』
どうして恋愛シミュレーションゲームのキャラクターに、恐怖に引き攣り蒼褪めた表情パターンが用意されているんだろう。俺は現実逃避のように、そんなことを考えた。エリカはいつの間に、ホラーゲームにジャンル変えをしたんだろうな。それに彼女のAIは、こんなに的確な会話が出来るほど高性能だっただろうか。
エリカがこちらに手を伸ばしてきた。俺の指先に触れる、ひやりとした感触。華奢で柔らかい女の子の手を、俺は握り返す。
ディスプレイを外してしまえば、姿も見えず声も聞こえないエリカ。彼女に手を引かれて、俺は部屋を後にした。




