蛍の飛ぶ川
僕の家の近所に、ちょっとしたドブ川がある。
ドブ川と言っても、下水道整備が行き届いてからは生活排水が流れ込むこともなくなり、雨の降っていない時は山から流れてきた清水が二、三センチの浅さで流れているだけだ。岸は三メートルほどの高さまで、ほぼ垂直のコンクリートパネルで固められている。川底にはコンクリートの隙間に生えた雑草や、流れてきた枯葉や土砂が堆積している。
水質が改善したとはいえ、土砂の堆積はあまり良い状況とは言えないだろう。そうならないように、早め早めに清掃をしておくのが行政の仕事だと思う。
しかし長年放置される内、積もった土砂の上に植物が生い茂り、植物の根に守られた土は雨による増水でも流されないようになり、鳥たちが餌を探しに降りて来たりもするようになって、ドブ川はどんどん自然の川みたいな有様になっていった。
ついには蛍が飛び始めたとなると、清掃をしろとは誰も言えなくなった。上流から移り住んできたのか、それとも誰かが放したものが繁殖したか。数十年前にはドブ川でしかなかった場所が、歳月の力によって蛍の飛ぶ川になってしまったのだ。
僕は感心しながら水面を見下ろした。この川に蛍が出ると聞いた時は耳を疑ったものだが、そう言えば子供の頃、冒険心が高じて川面まで降りたことがある。水の綺麗さに驚いて、そのまま水遊びをして遊んだくらいだから、土さえあれば蛍だって住めるのだろう。
街灯の明かりの届かない、岸や橋の陰の暗がりに目を凝らすと、確かにぼんやりと光っているものがある。まさかこんな場所で、野生の蛍が見られるとは。
身を乗り出して川を覗き込んだ僕は、そこに子供が立っていることに気付いてぎょっとした。
「おい、危ないぞ」
なるべく優しく声を掛ける。岸のパネルの継ぎ目を伝えば案外簡単に下りられることも、雨の日以外は浅く安全な川であることも知っているが、何しろ今は日が落ちている。
その男の子は短パンにランニングシャツという出で立ちで、手には虫取り網とブリキの虫籠を構えていた。事故で落ちたというわけではないらしいその様子に、僕は胸を撫で下ろした。
「怪我はないか? 自分で上がって来れるか?」
少年は返事の代わりに、やんちゃそうな顔に笑みを浮かべて虫取り網を指差した。網の中でも、虫籠の中でも、蛍が淡い光を放っている。
ああ、綺麗だな、と思った。僕だって十年若ければ、彼の隣に降りて蛍を捕りたかった。
何も言えなくなってしまった僕が見ている先で、少年は網を振る。虫を追っているという風ではない。ただ、振られる網の周りに蛍が集まり、いつの間にか光り輝く塊になっていた。少年はそれを大事そうに虫籠に移しては、再び大きく網を振った。
幾度かそれを繰り返していると、突然、川岸の草むらが膨れ上がるように輝いた。何百、何千もの蛍が一斉に輝いたような、優しいけれど大きな光。
僕はあっと声を上げて、輝く草むらを見つめた。そこから溢れ出した光の粒子が、少年の虫籠に吸い寄せられてゆくのだ。少年は待ち構えていたかのように、口を開け放した虫籠を両手で捧げ持った。先に入れられていた蛍がぱぁっと輝きながら舞い上がり、代わりに光の流れが虫籠の口へと入ってゆく。
川の底に生まれた、草むらと虫籠とを結ぶ光の橋。周囲を飛び交う蛍の光が、小さな天の川を幻想的に彩った。
奇妙なことに、光は虫籠の中にどんどん流れ込んでゆくのに、虫籠が溢れたりする様子はない。草むらの中の光が少しずつ弱まり、すっかり暗くなってしまうまで、少年は虫籠を掲げていた。
少年が虫籠の口を閉じてしまうと、橋の下は元通り、周囲の灯りから切り抜かれたような闇に沈んだ。光に眩んだ僕の目が、少年の姿を再び捉えた時、彼は橋の下──橋の上からも見えない真っ暗闇の中に消えて行こうとしているところだった。
「あっ、おい、待てよ!」
子供の頃、ここで遊んだ僕は知っている。昼間でさえ、橋の下は暗く不気味な感じがすること。橋の下を潜って上流に向かうと、岸のコンクリートはパネルではなく、足掛かりのないツルツルの壁になっていること。それに上流には夏草が我が物顔で生い茂っていて、彼のような薄着で歩ける場所ではないと、上から一瞥しただけでも分かる。
だが、少年は僕の声を意にも介さず、草履履きの足も軽やかに闇の中へと消えていった。
これはまずいんじゃないか。焦った僕は、それでも冷静に車通りのないことを確認して、橋の反対側へと走った。
暗がりの中から現れた少年は、僕の姿を認めると無邪気に笑って手を振った。つい反射的に手を振り返しながら、彼をどう引き止めたものかと考える。
だが、次の瞬間には、そんな考えは消え失せていた。少年の草履が優しく輝いて、ふわりと宙に浮かび上がったのだ。
彼は僕に向かってもう一度手を振ると、夏草の茂る川底から二メートルくらいの高みをすたすたと歩き出した。蛇行する川の形に添って遠退いていく、小さな背中を飾るように、か細い蛍の光が瞬いていた。




