走っても走っても
その人は遠目には、他のスポーツジム利用者と変わりなく見えた。社会人になって間もないくらいの年齢の、健康的な体格の男。おそらく学生時代に培った体力を、仕事では使い切れずにここに来ているのだろう。そういう人は珍しくない。ありふれたスポーツウェアを着て、ルームランナーのベルトの上を黙々と走っている。息は少しだけ上がっている。
でも、よく見るとルームランナーのベルトは動いていない。操作パネルには「メニューヲ センタク シテクダサイ」の文字が流れ、利用者が現れるのを待っている。彼の額に浮かんだ汗は、流れることも滴り落ちることもなく、凍り付いたように静止している。
どうやらジムの利用者にも、彼の姿が見える人と見えない人がいるらしい。見える人は、彼が使っているルームランナーを避けるので、何も起こらない。見えない人が彼に近付くと、彼はすっと場所を譲り、空気に溶けるように消えてしまう。
あれがきっと、いわゆる幽霊というやつなのだろう。
最初は不気味だった。幽霊なんてどこに出たって不気味には違いないが、ここはスポーツジムなのである。生きた人間の有り余るエネルギーが、これほど満ちている場所はそうそうない。幽霊がウロウロするのはあまりにも場違いだし、まして体を鍛える幽霊なんて聞いたこともない。
しかし慣れとは恐ろしいもので、私は自然に彼を無視出来るようになっていった。
本来ジムの利用者たちは、互いに無関心であるものだ。例外と言えばマシンの使い方が分からずに困っている初心者を助ける時と、話好きな老人に捕まった時くらい。件の幽霊はそのいずれでもないので、彼に肉体があろうがなかろうが、私には関係がないのだった。
ジムが少し混んでいたある夜、私は初めて、彼のすぐ隣のルームランナーを使った。彼が人を取って食ったりするわけではないと、今までの観察で分かっていた。ベルトの上を歩きながらマシンの設定をして、ゆっくりと走り出す。色々と注意を払う必要があるジョギングとは違い、考え事に没頭出来るのがルームランナーの良い所だ。
「あの……」
一キロ分ほど走ったところで、突然横から話しかけられた。ちらりと目だけを動かすと、案の定と言うべきか、幽霊の青年が走りながらこちらを見ていた。
「少し、お話してもいいですか。黙って走るだけだとつまんなくて」
私は少し迷った。こういう時は下手に関わる方が危ないのか、無視した方が危ないのか。
結局は好奇心に負けて、話せる程度までペースを落とす。
彼は紅潮した顔に、人好きのする笑みを浮かべた。随分と血色と愛想のいい幽霊もいたものだ。これで生身なら、はっきり言って好みのタイプなのに。
「お姉さんは、どうしてジムに通ってるんですか?」
「最初は肩こりの治療で勧められたの。今はよく眠れるように。……あなたは?」
「俺、マラソンが趣味なんすよ。色んな場所の大会にエントリーして、ついでに観光とかするのも結構楽しくて。最近は全然行けてないんですけどね」
彼は照れたように笑う。
それはそうだろう。ルームランナーの上をどれだけ走ったところで、どこにも行けるはずがない。
「それでも体だけは鈍らせちゃ駄目だと思って。交通事故とか怖いんで、それでここに」
少し寂しそうに言って、彼は前を向いた。視線の先にあるパネルの表示は、「メニューヲ センタク シテクダサイ」。
私を乗せたルームランナーだけが、唸り声を上げながら走行距離の表示を更新している。