手伝いたい
ピアノ教室に行きたくない。
わたしはそれだけを考えて、教室の目と鼻の先にある公園のベンチに座っていた。
ピアノを習っていて、良かったことはあんまりない。あんまり、というのはお月謝を出してくれているお父さんとお母さんに遠慮した表現で、本当は頑張って思い出そうとしてみても、一つも思い付かなかった。
代わりに、弾けなくて怒られたことは覚えている。どうして同じところを間違えるんだ。ここはあなたの練習室じゃないのよ。お父さんも先生も、わたしの演奏する姿をじっと監視していて、失敗するとここぞとばかりに責め立てるのだ。
本当の本当に最初の頃は、上手く弾ければ楽しかったはずだ、と思う。その頃のことは、もう覚えていない。今のわたしは、怒られないように、逃げるために練習をしている。その練習の間も、家に一人きりの時でさえ、背後では監視の目が光っているような気がする。
わたしの失敗を待ち構える目。そのトゲトゲの視線が、ピアノの前の椅子に座っただけで、手や体を串刺しにする。もう嫌だ。あの椅子に座るのも、ピアノを弾くのも。
時計台の長針が「5」の数字を指すのを、わたしは暗い気持ちで見ていた。三時二十五分。五分以内には教室に入らなければならない。
「行くのかい」
重い腰を上げたわたしの後ろで、しわがれた声がした。わたしはびっくりして振り返った。
わたしが座っていたベンチの下に、何か黒いものがうずくまっている。輪郭はぼんやりと暗がりに溶けて、目だけが金色に光ってこちらを見ていた。
「行きたくないんじゃないのかい」
質問されて、わたしは頷いた。足が根っこになってしまったように動かなかった。
「おれが手伝ってやろうか」
手伝うって、何をだろう。わたしの考えを読み取ったみたいに、ベンチの下のそれは言う。
「事故に遭って指をなくす。親の仕事と金を取り上げる」
それは確かに、ピアノを弾くどころではなくなる。だけど、そんなことになったらわたしは困る。
「では、先生を殺す、というのはどうだ」
ああ、それだったらわたしは平気だな。でも、ここではいと答えて、それで先生が死んでしまったら、わたしのせいで死んだみたいでいやだ。
「じゃあ、どうすればいいんだい」
わたしは考えた。どうすれば、ピアノ教室に行かずに済むのか。
ベンチの下のしわがれた声は、少しの間、黙っていた。わたしの返事を待っていたのか、わたしの頭の中を覗き見して不満に思ったのか、区別は付かなかった。
声に出さなくても通じると分かっていたけれど、わたしはベンチの下を見つめて言う。
「わたし、お母さんに話す。もうピアノは嫌、音楽も嫌いになっちゃったって」
「おれは何を手伝えばいい?」
「あなたの手伝いは、要らない。手伝って貰いたくなったら、またここに来て、そう言うよ」
「分かった。待っている」
ベンチの下のそれはもぞもぞと蠢いて、体の向きを変えたらしかった。金色に光っていた目が見えなくなる。凍り付いていた足が、ふっと軽くなったのを感じた。
わたしはバイエルの入った手提げ鞄を抱えて駆け出した。あと二分で、ピアノ教室が始まってしまう。その教室には、次からは二度と行かないと決めて、走った。