願い事手帳
就寝前に、必ず手帳を確認する。日付の表記のないメモのページに、自分の願い、例えば果物が食べたいとかウィンドウショッピングに出たいとか、そういう願望を書くようになって随分経つ。
些細な願い事リストは、気が向いた時にデイリー欄に書き写されることもあるし、仕事の合間にぽっと出来た空き時間に実行されることもある。実現率が上がったのは勿論のこと、無理なく自分の欲を満たせるようになった。書く行為が計画力を生み出すというのは本当なんだな、と感心する。
明日実現する予定の些細な願い事は、夜にCDをゆっくり聴くこと。些細であるだけに、その時の気分まで想像しやすく、気持ちが勝手に弾んでしまう。人間の脳は現金だ。メモのページを眺めながら、私は苦笑した。
元々は、書いたことはそうでないことと比べて実現しやすいと聞いて始めた習慣だった。期日のない、「いつかこうなるといいな」と思うことを綴った手帳には、もし人に見られたら立ち直れない、と思えてしまうような願い事も結構書かれている。酔った勢いで書いた「国民栄誉賞を貰う」、書くだけならタダだからと書いてみた「不老不死になれる」。これをおまじないのようなものだと知らない人が目にすれば、頭の可哀想な人だと思われてもやむを得ない。
メモを遡ってゆくと、自分がどういう願望を持っているのか、少しずつ傾向が見えてくる。あれがしたい、これもしたい、無邪気で俗っぽい欲の共通項から浮かび上がってくる人間性。そういう意味でも、この手帳を他人に見せるなんてとても出来ない。
──おや?
私はとある一行に目を留めた。
灰色のインクで、「ゆいちゃんに会いたい」と書かれている。他の人が見てどう思うかは知らないが、私は怪訝に思った。
私が使っているのは、インクの色を自分で選んで組み替えられるボールペンだ。選んだインクは黒、赤、青、緑、そして橙。こんな薄い灰色の文字は、このペンでは書きたくても書けない。
それに、「ゆいちゃん」なる人物にも心当たりがなかった。「ゆり」が乱れてそう読めるのかとも思ったが、下の名で呼び合うような親しい友人の中には「ゆい」も「ゆり」もいない。
癖の強い右肩上がりの文字は、確かに私の手によるものだ。会いたい、と書くからには好意を持っている相手なのだろう。にも関わらず、それが誰なのかを思い出せない居心地の悪さ。
私は携帯電話を取り出して、電話帳アプリを立ち上げた。不精な私の携帯電話には、疎遠になった人たちの情報も沢山取り残されている。
探してみると、「ゆい」は確かに登録されていた。姓の後に漢字一文字の「唯」。登録されているのは確かだが、何の縁での知り合いなのかが思い出せない。
詳細を開いてみても、姓名と電話番号以外の情報はなかった。一昔前まではメールが連絡ツールの主流だったはずなのに、メールアドレスが登録されていないというのは、少し不気味だ。
誰だろう、姓を手掛かりに思い出そうとしてみたが、やはり心当たりがない。私は自分の脳に期待することをやめて、携帯電話を充電ケーブルに繋いだ。
電話を掛けてみれば手っ取り早いのかも知れないが、この名前と電話番号が今も一致しているのかどうかは怪しいものだ。それに、名前も思い出せない相手に突然電話を掛ける度胸など、私にはなかった。
どうして「ゆい」の名を手帳に書いたのだろう。どうして「ゆいちゃん」と親しげなのに、その名に覚えがないのだろう。それに、私はどこで灰色のペンを使ったんだろう。
願い事の詰まった手帳が、何だか気味悪く思えてきて、私は問題のページを閉じた。
明確な言葉にして紙に書いた願い事は、書かなかったことよりも高い確率で実現する。一説によると、書くことによって願望が強く脳に刷り込まれ、無意識にそれを叶える為の行動を取るようになるらしい。小さな夢ならすぐにでも、大きな夢も行動の積み重ねによって叶ってゆく。
しかしそもそも書いた覚えがない場合はどうなるのか、私には見当が付かなかった。